1月22日説教「12弟子の派遣」

2023年1月22日(日) 秋田教会主日礼拝説教(駒井利則牧師)

聖 書:イザヤ書61章1~4節

    ルカによる福音書9章1~6節

説教題:「12弟子の派遣」

 ルカによる福音書9章1節に、「イエスは十二人を呼び集め」と書かれています。主イエスによって12弟子が選ばれたことについては、すでに6章12節以下に書かれてあり、14節からは12弟子の名前が紹介されています。彼らはこれまで、日夜、主イエスと行動を共にし、主イエスの宣教のみわざのために共に仕え、信仰の訓練を受けてきました。今、改めて主イエスのみ前に呼び集められ、宣教の使命を与えられ、この世へと派遣されて行きます。6章で、12弟子が選ばれたことは、のちの教会の原型であり、始まりであることを学びましたが、ここではその教会の働き、使命、務めが明らかにされています。

 1、2節には、教会の本質を表す最も特徴的な言葉が二つ書かれています。一つは、「呼び集める」、もう一つは2節の「遣わす」です。主イエスによってこの世から呼び集められ、また主イエスによってこの世へと遣わされる、それが12弟子であり、またそれが教会の本質であり、さらには主の日の礼拝の本質でもあります。わたしたちはきょう、主の日の礼拝へと、主イエスによって呼び集められ、この会堂に集い、共に主なる神を礼拝しています。この世のそれぞれの町々村々や、家庭、職場、地域から、主イエスによって呼び集められ、主のみ前に結集して、一つの群れとされ、一つの礼拝の民とされています。そして、この礼拝で神のみ言葉を聞き、罪のゆるしの福音を聞き、慰めと希望とを与えられ、信仰の訓練を受け、また新しい使命、務めを与えられて、祝福と平安のうちに、再びこの世へと遣わされて行きます。このように、主イエスによる招集と派遣が繰り返して起こる所、それが礼拝であり、それが教会の本質なのです。

 その招集と派遣において重要な第一のことは、そのいずれも主イエスがなさるということにあります。1節に「イエスは十二弟子を呼び集め」とあり、2節の「遣わす」も主語は明らかに主イエスです。教会と礼拝の招集と派遣の主語はいずれも主語は主イエスです。主イエス以外のだれかや何かが主語になることはありません。教会の群れを呼び集め、一つに結集させ、またこの世へと派遣するのは主イエスであり、わたしたちが自分自身の意志や願いでそうするのではなく、他のだれかとか、他の何かとかがそうするのでもありません。教会は何か共通の思想とか目的とか利益によって結ばれている団体ではありません。むしろ、各自の人生観や性格、職業、政治的立場とか、あらゆる点において違ってはいても、ただ主イエスによってこの世から呼び集められ、一つに結び合わされている共同体なのです。ここにこそ、教会の一致の確かさと堅固さがあるのです。

 次に、1節、2節には、主イエスが弟子たちにお与えになる特別な力と権威、また使命、務めについて書かれています。それは、彼らが新しい人に造り変えられて、再びこの世へと派遣されていくためです。そのために、主イエスは弟子たちに特別な賜物をお与えになります。この賜物は二つの種類に分けられます。一つは、1節の「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能」です。2節にも、「病人をいやすために」とあり、6節では、弟子たちが「病気をいやした」と報告されています。もう一つは、2節の「神の国を宣べ伝える」ことです。6節では、弟子たちが「福音を告げ知らせた」と報告されています。

 この二つのことは、主イエスのお働きの中でも常に結びついていました。7章18節以下で、洗礼者ヨハネからの「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」との問いに対して、主イエスは22節以下でこのようにお答えになりました。【22~23節】(116ページ)。主イエスが様々な重い病気をいやされたことは、旧約聖書に預言されていたメシア・キリスト・救い主であることの証しであり、神の国が到来し、神の恵みのご支配が開始されたことのしるしなのです。人間の目に見え、体で体験する奇跡のみわざと、言葉による福音の宣教とは、互いに結び合い、神の救いの時が成就したことをはっきりと告げているのです。

 主イエスの弟子たちは、主イエスから全権を託された使徒として、主イエスの救いのみわざを引き継ぐために、同じ賜物を与えられました。彼らは言葉とわざとによって、主イエスによって開始された神の国、神の恵みのご支配と、主イエスが成就される救いの時を告げ知らせるために、この賜物を携えてこの世へと派遣されていくのです。

 「神の国を宣べ伝える」、「福音を告げ知らせる」ということについて、もう少し詳しく考えてみましょう。「神の国」(マタイ福音書では「天の国」と表現されますが)とは、神のご支配のことです、神がただお一人の王として君臨しておられ、支配しておられる国、それが神の国です。そこでは、神以外のすべてものは神に服従しています。悪しきもろもろの霊も病気も、罪も死も、すべては神のご支配のもとにおかれます。それが人間にとっての本当の救いです。

 それゆえに、神の国の到来は「福音」、喜ばしいおとずれといわれます。それはこの世にあるすべての喜びよりもはるかに大きな喜び、天の神から与えられる喜びです。また、もはや他の何ものによっても奪われることなく、破壊されることのない永遠の喜び、平安がそこにあります。主イエスがこの世においでくださったことによって、そのような神の国が開始されたのです。主イエスが悪霊を追い出し、病気をいやし、死人を生き返らせる奇跡をなさったのは、そのことの確かな目に見えるしるしなのです。そして今、弟子たちは主イエスによって開始されたこの神の国の福音を宣べ伝えるために、この世へと派遣されていくのです。

ここでも、重要なポイントは、彼らに与えられた力や権威は、彼らが持っていたものではなく、彼らが自分たちの手で得たものでもなく、主イエスから与えられたものであるという点です。彼らに「あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになり」、「神の国の福音を宣べ伝え」る務めをお与えになったのは主イエスです。1節と2節の文章の主語はすべて主イエスです。弟子たちの能力や知恵ではなく、彼らが自分たちの考えや努力によってその務めを果たさなければならないのでもありません。むしろ、選ばれた弟子たちは当時の宗教的・社会的指導者ではなく、学者や資産家でもなく、無学で、貧しく、力弱い人たちでした。主イエスはあえてそのような人たちをお選びになったのです。それは、だれも自分の力に頼らず、自分を語らず、ただ主イエスから与えられた力と権能によってのみ生きるためでした。主イエスから託され、委ねられた務めに生きるためでした。

3節からは、派遣される弟子たちに対する主イエスの命令が語られます。【3~5節】。3節に挙げられている「杖、袋、パン、金、下着の着替え」は旅に出る際に最低必要なものです。けれども、主イエスは最低必要なそれらのものをすらも持っていくなとお命じになります。なぜでしょうか。その理由の一つは、弟子たちは旅を楽しむために出ていくのではないからです。神の国の福音を宣べ伝えるために出かけるからです。持っていくべきものは、主イエスから託された神の国の福音です。それで十分です。主イエスの到来とともに、すでに神の国、神の恵みのご支配が始まっています。だから、この世で生活するための配慮や心配を一切する必要はないからです。神のご支配を信じ、それに身を委ね、従うことによって、神が必要なものを備えてくださることを信じるからです。彼らはただ神の国の福音だけを携えて出かけていくのです。彼らを派遣される主イエスが「何も持って行ってはならない」とお命じになるときには、「何も持つ必要がない」ということを意味しています。主イエスは12章22節以下でこのように教えておられます。「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。あなたがたの天の父なる神は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」(12章22節、30~31節参照)と。

旅に必要なものをすらも何も持っていくなと主イエスがお命じになるもう一つの理由は、神の国が完成される時がすぐに近づいているからです。この世の終わりの時、終末の刈り入れの時が迫っているからです。あれこれと旅の支度のために時間をかけている余裕がないからです。今すぐに、急いで、神の国の福音を宣べ伝えるために出発しなさいと主イエスは言われるのです。主イエスご自身も、初代の教会も、そのような終末が接近しているという緊張感の中に生きていました。弟子たちにとって、またわたしたちにとってもそうなのですが、福音を宣べ伝えるという務めは、滅びに向かおうとするこの世界にあって、最も緊急な課題であり、まず第一にしなければならない重大な使命なのです。

4節では、家から家へと渡り歩くことが禁止されています。当時のユダヤ人社会では、巡回伝道者は一般的に尊敬され、どこの家でも歓迎され、良いもてなしを受けました。そのために、より良い待遇をしてくれる家を探して、滞在する家を頻繁に変える巡回伝道者が多かったようでした。しかし、神の国の福音を宣べ伝える弟子たちは巡回伝道者に対するもてなしを期待すべきではありません。この世の人々の称賛や報酬を求めるべきではありません。なぜならば、福音を宣べ伝える伝道者は、それよりもはるかにまさった神からの祝福が与えられているからです。

最後に、5節では、【5節】と命じられています。「足についている埃を払い落とす」とは、神の国の福音を受け入れない人たちに対する抗議のしるしであり、最終的な決別のしるしでもあります。信じない人たちには神の最後の審判が待っています。彼らが自ら招いた滅びの運命に対して、弟子たちには一切の責任がないことのしるしでもあります。それゆえに、弟子たちは福音を信じないかたくなな人たちに出会っても、そのことで失望する必要はないし、あるいはまた彼らの宣教の働きが大きな成果を得ても、それを誇ることはできません。

主イエスの時代がそうであったように、今のわたしたちの時代にも、主イエスの福音を信じ、受け入れる人は多くはありません。わたしたちが主イエスの福音を携えてこの世へと出ていく時に、しばしば無理解や無関心、時として反発を受けることもあります。けれども、わたしたちは失望したり恐れたりする必要はありません。わたしたちが人を裁くのではなく、わたしたちを派遣された主イエスが裁きと救いをみ心にかなってなしてくださるからです。そのことを信じて、わたしたちはこの世へと派遣されていくのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、この世界は主なる神を見失い、不信仰と不従順を続け、滅びへと向かっています。けれども主なる神よ、あなたはこの世界が滅びることを願ってはおられません。この世界があなたによって救われ、あなたのみ心が行われ、全人類が和解と共存のうちにあって、共にあなたを礼拝する一つの民となることを願っておられます。

〇願はくは、あなたの委託を受けた主キリストの教会が、神の国の福音を携えて、この世へと出ていき、救いを必要としているすべての人々に、主キリストの十字架の福音を告げ知らせる使命を果たすことができますように、導いてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。