4月14日 説教「主イエスの十字架」

2019年4月14日(日) 秋田教会主日礼拝説教(受難週)

聖 書:イザヤ書53章1~13節

    ルカによる福音書23章32~43節

説教題:「主イエスの十字架」

 「十字架上の七つの言葉」と言われるものがあります。主イエスが十字架につけられたとき、息を引き取られる直前に十字架上でお語りになった言葉が、四つの福音書を合わせると合計で七つあります。マタイによる福音書とマルコ福音書は同じ言葉が一つ、ヨハネ福音書が三つ、そしてルカ福音書が三つです。きょう朗読された箇所の【「34節」】、【「43節」】、【「46節」】。きょうの受難週の礼拝では、この34節のみ言葉を中心にして、主イエスの十字架の意味について、ご一緒に聞いていきたいと思います。

 まず、主イエスの十字架上での七つの言葉がなぜ特別に重要なのかについて考えてみましょう。その理由の一つは、十字架上での七つの言葉が主イエスの地上のご生涯で最後に語られた言葉だからです。いわば、主イエスの遺言とも言うべき言葉だからです。しかも、十字架刑という、肉体的にも精神的にも、苦痛と屈辱との極限状態の中で、死の間際に最後の声を振り絞るかのようにして語られた言葉だからです。それゆえに、わたしたちは主イエスのそれらの言葉を、恐れおののきつつ、わたしの全存在を傾けて、わたしの命をかけて聞かなければなりません。

 もう一つの理由が考えられます。それは、主イエスが十字架上で語られた言葉が極めて少なく、また短く、それゆえに一つ一つの言葉に深く、重い意味が込められているからです。主イエスはこれまでにおよそ3年間の公の宣教活動をしてこられました。イスラエル全域の町々村々をめぐり、神の国の福音を説教してこられました。「今や、神の恵みのご支配が始まった、神の救いの時が近づいている、だから、罪を悔い改めて、神に立ち返りなさい、そうすれば、救いと新しい命が与えられる」と説教されました。福音書には、主イエスがお語りになった神の国の福音が数多く記されています。

 ところが、主イエスの裁判の時から十字架刑が執行される時までは、主イエスはほとんど口を開かれず、むしろ沈黙を守られました。イザヤ書に預言されている「苦難の僕(しもべ)」のように口を開かれませんでした。イザヤ書53章7節に次のように書かれています。「苦役を課せられ、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場にひかれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった」。主イエスがこの「苦難の僕」のように、父なる神への全き服従を貫かれた沈黙の中で、わずかに語られた十字架上での七つの言葉は、特別な光を放ってわたしたちに迫ってくるのです。

 では、その十字架上での七つの言葉の一つ、34節をもう一度読んでみましょう。【34節】。これは、七つの言葉の中で、時間的には最初のものではないかと推測されています。正確にその順序は分かっていませんが、34節がその最初、46節の「父よ、わたしの霊を御手に委ねます」が最後ではないかと考えられています。そうしますと、七つの言葉の最初と最後がルカ福音書に書かれていることになります。

 主イエスはここで、神を「父よ」と呼んでおられますが、これはイスラエルにおいては非常に珍しいことです。神に対して直接に「父よ」とか「わたしの父よ」と呼びかけることは、旧約聖書ではほとんど例がありません。というのも、イスラエルの民にとって神は、はるかに高い天におられる聖なる神であり、栄光と威厳に満ちた神であって、その神のみ前では人間はただ恐れおののくほかにない罪びとであって、神を親しく父よと呼ぶことは、その神の尊厳性を損なうことになり、神を冒涜することだと考えたからです。

 主イエスは初めて神を父、わが父と呼ばれました。言うまでもなく、主イエスにとっては、神はまさに、実際に、父であられます。神はわたしたち罪びとたちを罪から救うために、ご自身の独り子をこの世へとお遣わしになったのです。ヨハネ福音書3章16節に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と書かれているとおりです。主イエスこそが神をわが父とお呼びになることができる唯一のみ子であられ、最初の方なのです。

 それだけでなく、主イエスはわたしたちもまた神を父と呼ぶことができるようにしてくださいました。わたしたちは主イエスによって罪ゆるされ、神との親しい交わりの中に招き入れられ、神の子どもたちとされました。主イエスはわたしたちにこのように祈りなさいと教えてくださいました。「天にまします我らの父よ、み名が崇められますように。み国が来ますように。み心がなりますように」と。

 主イエスが十字架上で神を「父よ」と呼びかけられたことには、更に深い意味があります。主イエスはすべてのユダヤ人から見捨てられ、恥ずかしめとあざけりを受けて十字架につけられましたが、それでもなお、神を「父よ」と呼ぶことができるのだということ、「父よ」と呼びかけることができる神が主イエスと共におられるということ、そのことにわたしたちは気づかされます。12弟子たちからも見捨てられ、ただお一人で、肉体と精神の苦痛と渇きの中で死に行く時にも、なおも「父よ」と呼びかけることができる神が主イエスと共におられるのです。この呼びかけは、絶望と死の淵から立ち上がって、希望と命に生きることを可能にする呼びかけです。わたしたちが神を父として持ち続けるならば、わたしたちの絶望と死もまた、希望と命に変えられていくということを信じることができます。

 もう一つ別の角度から「父よ」という呼びかけを見ていきましょう。主イエスはここで、神を「父よ」と呼ぶことができないような、神との関係を断ち切られるような深い淵の底から、「父よ」と呼びかけています。マタイとマルコ福音書では、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というもう一つの十字架上での言葉を記しています。主イエスは神のみ子であられたにもかかわらず、わたしたち罪びとたちと同じ側に立たれ、神の裁きを受けて、死すべき人間のお一人となられ、十字架上での苦悩と痛みとを経験しておられるのです。わたしたち罪びとたちが受けるべき神の裁きを、わたしたちに代わってお受けになられ、神の厳しい裁きを耐え忍ばれたのです。主イエスが父なる神に見捨てられようとする、まさにその時にこそ、神は父なる神として、主イエスの最も近くにおられ、主イエスと共におられたのだということを、わたしたちはここから知らされるのです。

 「彼らをお赦しください」の「彼ら」がだれを指すのかは、はっきりと特定できません。十字架刑を直接に執行しているのはローマの兵士たちですが、彼らを指しているのは確かでしょう。十字架の周りで「十字架につけよ」と叫んでいる群衆、あざ笑っているユダヤの役人たち、さらには主イエスの裁判にかかわったユダヤ人指導者たち、最終的に十字架刑を言い渡したローマの総督ピラト、また主イエスを見捨てて逃げ去った12弟子たち、それらのすべての人たちも、この「彼ら」から除外されることはないでしょう。いや、それのみか、自分では気づかないで神から離れ、罪の道を進んでいたわたしたちすべての人間たちが、この「彼ら」に含まれると言うべきでしょう。主イエスは、それらすべての人たちのために、今十字架の上で、彼らの罪のゆるしを祈っておられるのです。主イエスは罪なき神のみ子であられたにもかかわらず、わたしたちすべての罪びとたちの罪を代わってご自身に担われ、わたしたちに代わって神の裁きをお受けになり、大きな苦痛と苦悩の中で、ご自身を十字架につけている彼らすべての人たちのために、罪のゆるしを祈っておられるのです。これは何という大きな愛であり、偉大なゆるしであることでしょうか。この大きな十字架の愛とゆるしによって、わたしたちは罪ゆるされ、救われているのです。

 後の初代教会のキリスト教教理では、使徒パウロが彼の書簡で繰り返して語っているように、主イエスの十字架の福音を信じる信仰によって、すべての人は神のみ前で義と認められ、罪ゆるされ、救われるというのがキリスト教信仰の中心ですが、そのキリスト教理が形成される以前に、主イエスご自身の口から直接に語られた十字架上での言葉そのものに、わたしたちの罪のゆるしと救いの源泉があるのです。

 「自分で何をしているのか知らないのです」とは、だから責任がない、その行為がゆるされるという意味ではありません。自分では何をしているのか分からないままに、彼らは神がこの世にお遣わしになられたメシア・キリスト・救い主を十字架につけているのです。その罪を主イエスは告白しておられるのです。実は、自分では何をしているのかわからないというのが、人間の罪の実体なのです。自分では罪に気づいていない、自分はだれかを故意に傷つけたり、損害を与えてはいない、自分では神のみ心に背いていない、自分もまた主イエスの十字架にかかわっていることに気づいていない、いやむしろ自分は正しい人間だ、まじめな人間だ、間違ったことはしていない、だから自分には主イエスの十字架は無関係だと思っていること、それが人間の罪なのです。

 罪を言い表す旧約聖書のヘブル語「ハッター」も新約聖書のギリシャ語「ハマルテア」も、いずれも本来は的を外すという意味があります。弓を一生懸命に引いて矢を放つ、しかし、その矢は的に向けられていない、的から外れた方向を向いている、それゆえに、力を込めれば込めるほどに、矢は的から遠くに飛んでいく、それが人間の罪の現実だということを聖書は語っています。わたしたち人間はみな生まれながらにして罪に傾いており、神から遠く離れている罪びとなのです。主イエスは、わたしたちの隠れ潜んでいた罪をゆるすために、今十字架上で祈っておられます。「父よ、彼らをお赦しください」と。主イエスの十字架によって罪ゆるされる時に、わたしたちは初めて自分の罪に気づかされます。

 最後に、きょうの十字架の場面でルカ福音書が繰り返して語っていることに注目したいと思います。【「35節」】。【「37節」】。【「39節」】。けれども、主イエスはそれらの要求には全くお答えにならずに、むしろその要求を否定されるかのように、ご自身が全く無力になられ、貧しくなられ、低くなられて、神のみ子としての栄光をも誉れをも、威厳をも力をも、それらのすべてを投げ捨てられて、ご自身の尊い命とすべてを、わたしたちの救いのために、十字架にささげ尽されたのです。

フィリピの信徒への手紙2章6節以下にはこのように書かれています。【6~11節】(363ページ)。ここにこそ、わたしたちの本当の救いがあります。全人類のための永遠の救いがあります。

 それゆえにこそ、主イエスの十字架の福音によって罪ゆるされ、救われ、新しい命に生かされているわたしたちもまた、主イエスのために、またわたしの隣人のために、自らをささげて生きていくことが命じられ、またそれが可能とされているのです。

(祈り)

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