4月28日(日)「初めに神がおられる」

2019年4月28日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記1章1~5節

    ヨハネによる福音書1章1~5節

説教題:「初めに神がおられる」

 これからの秋田教会の主日礼拝では、旧約聖書からは創世記、新約聖書からはルカによる福音書とフィリピの信徒への手紙を取り上げ、連続講解説教として、ご一緒に神のみ言葉を聞いていきたいと思います。わたくしが説教者として最も心がけていることは、日本キリスト教会神学校の説教学の講師であられた八田良一先生(元秋田教会牧師)から繰り返して教えられたことでもありますが、説教とはひたすらに主イエス・キリストを語ること、自分自身を語るのではなく、この世の知恵を語るのでもなく、人生論を語るのでもない、その他の何か興味深いことを語るのではない、ただ愚直に、純粋に、ひたすらに、主イエス・キリストを語ることである。そのことは、5月2日に予定されている牧師就職式で誓約する内容でもあります。そこには、こうあります。「あなたは、また、福音宣教のために召された者であります。それゆえ、この世の知恵を語らず、自分自身のことを宣べず、ただ主イエス・キリストを宣べ伝え、信仰と正しい良心とをもって、雄々しく戦いなさい」。わたくしはこれに「アーメン」と答えます。

また、使徒パウロはコリントの信徒への手紙一2章1~2節でこのように書いています。「兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」。

 したがって、説教を聞く会衆は、主イエス・キリスト以外のことを期待すべきではありません。主イエス・キリストだけで、十分だとすべきです。なぜならば、主イエス・キリストの中にこそ、神がわたしたちにお語りくださることのすべてが、また、わたしたち人間が聞くべきことのすべてがあるからです。

それから、皆様に二つお願いがあります。一つは、礼拝に集まる前に、説教のテキストとなる聖書をあらかじめ読んでおいてください。あと一つは、説教者のためにぜひ祈ってください。説教者は教会員、会衆の祈りなしには講壇に立つことができないからです。

 さて、きょうは創世記を説教のテキストとして取り上げます。まず、書名について簡単にお話しします。「創世記」という書名は、旧約聖書のヘブル語からギリシャ語に翻訳された際に(それは紀元前1世紀ころに完成したと考えられています)、これを「70人訳聖書」と言いますが、それにギリシャ語でゲネシスという書名を付けたのを日本語に訳したものです。ヘブル語原典の書名は、原則としてその書の最初の言葉を付けますので、創世記の最初の言葉である「初めに」と訳されているヘブル語、「ブリーシート」がそのまま書名になっています。

 ユダヤ人の伝統的な考えによれば、創世記から始まる最初の五つの書、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記をモーセ五書、あるいは律法書と言い、モーセが書いたとされていますが、モーセ以後のことも書かれていますので、それは正確ではありません。今日の研究によれば、モーセ五書も他の旧約聖書も、紀元前10世紀ころのソロモン王の時代から数百年という長い期間にわたって書かれ、また編集されたのではないかと考えられています。

 創世記という書名は、実は1~11章までのこの書の前半の内容には適していますが、後半の12章以後は、世界の初めのことというよりは、アブラハム、イサク、ヤコブという人間の歩み、または部族の歴史が描かれています。そこで、創世記の内容から言えば、前半の1~11章では、神が天地万物を創造されたこと、最初の人間としてアダムとエヴァを創造されたこと、しかし彼らが罪を犯して神に背く者となったこと(これを原罪と言います)、その子孫たちが全地に増えていったという世界の歴史の初め、これを「原初史」あるいは「原歴史」と言いますが、それが描かれています。

後半の12章以下では、神が一人の人アブラハムをお選びになり、彼と契約を結ばれたこと、その契約がイサク、ヤコブへと受け継がれていったという族長の歴史が描かれています。この族長の歴史は、さらには出エジプト記や申命記へと続き、神がイスラエルの民をお選びになり、この民と契約を結ばれ、この民の歩みを導かれたという、旧約聖書全体の歴史へとつながっていき、やがてその契約の民の中からダビデの子孫として、ヨセフとマリアから一人の子ども、主イエスがお生まれになるという、新約聖書の歴史へとつながっていくのです。

 そして、創世記を学ぶ場合には、この前半と後半のつながりが非常に重要だということを見落としてはなりません。つまり、前半の天地創造の記録は、後半の神がお選びになった族長たちとイスラエルの民の信仰に基づいて描かれているのだということです。神が族長アブラハムをお選びになり、またエジプトで奴隷の民であったイスラエルをお選びになり、この民を奴隷の家から救い出され、約束の地カナンへと導き入れ、この民をみ言葉をもって導かれた、その主なる神こそが天地万物を創造された、この神に対してアダムとエヴァは罪を犯した、この神のみ言葉に従ってノアは箱舟を造り、救われた、そのような信仰をもって創世記前半の天地創造の記録は描かれているのです。それゆえに、今日わたしたちが創世記1章の天地創造のみ言葉を読む場合にも、主イエス・キリストの十字架と復活の福音によってわたしたちを罪から救い出してくださった神への信仰をもってこれを読まなければならないということを、まず確認しておきたいと思います。

 しばしば議論されることですが、創世記に描かれている天地創造の物語りは、今日の科学的な知識で得られる宇宙の生成や生物の発生・進化といちじるしく違っている、矛盾しているのではないかという疑問が投げかけられます。しかし、この疑問は創世記が、または聖書全体が信仰の書であるということを正しく理解していないことに由来するものです。科学には科学の使命と課題があります。聖書はわたしたちに信仰を生み出し、また信仰をもってこれを読むことを要求します。さらに言うならば、科学を研究する学者も信仰をもって聖書を読まない限りは、これを正しく理解できませんし、その人もまた信仰によって罪をゆるされなければならない罪びとであることは否定されません。したがって、わたしたちは創世記の天地創造のみ言葉を主イエス・キリストの十字架と復活の福音の光の中で読まなければなりませんし、他の旧約聖書と新約聖書もまたそのように読むべきです。その時、すべての聖書のみ言葉はわたしたちにとって救いと命を与える神の生きたみ言葉となるのです。

 では、1節を読んでみましょう。【1節】。これは、創世記の最初のみ言葉であるとともに、全聖書の最初のみ言葉でもあります。「初めに、神は」という言葉で聖書は始まります。初めに、神がおられます。聖書の初めに神がおられます。天地創造の初めに神がおられます。すべてのものの存在の初めに、すべての出来事の初めに、すべての歴史の初めに、神がおられます。まだ何もない時に、もちろん人間もいない時に、ただ神だけがおられました。そして、その神がみ心によって、天地創造と人間創造のみわざを開始されます。神はその強いご意志と永遠のご計画によって、すべてのものをみ言葉によってその存在へと召し出され、そのすべてのものに命をお与えになり、すべての歴史と歩みを開始され、それを導かれます。

 すべて存在するもの、すべて命あるものはこの神のみ手の内にあって、その存在と命とを支えられています。それゆえに、すべての出来事と歴史、現象もまた、神のみ心によって起こり、神のみ手を離れては、何一つ存在しないし、神のみ心なしには、何一つ起こることはありません。主イエスはこのように言われました。「天の父なる神のみ心なしには、あなた方の髪の毛の一筋すらも地に落ちることはない」と(マタイ福音書10章29~30節、『ハイデルベルク信仰問答』第1問参照)。天地万物を創造された神は、すべてをみ心によって導く摂理の神でもあられます。

 さらには、すべての初めにおられる神は、そのすべての終わりにもまた必ずおられます。すべてのみわざをみ心によって開始された神は、また必ずやすべてのみわざをみ心のままに完成させてくださいます。31節にこのように書かれているとおりです。【31節ab】。神がお始めになった天地創造のみわざはすべて良きみわざであり、また神がお始めになった救いの歴史はすべて良きみわざであり、それは最後の救いの完成に向かって進んでいきます。

 ヨハネによる福音書1章1節以下では、主イエス・キリストが「ことば」と言われています。ギリシャ語では「ロゴス」です。このロゴスが、人間が語る普通の言葉とは違うということを言い表すために、漢字の「言(げん)」一字で「ことば」と読ませています。【1~3節】を読んでみましょう。言葉、ロゴスである主イエス・キリストは、天地創造の初めから父なる神と共におられた、そしてその創造のみわざに父なる神と共にかかわっておられたとヨハネ福音書は語っています。そのロゴスなる主イエス・キリストが、すべての人を照らすまことの光としてこの世においでになり、わたしたちの罪のために十字架にかかられ、三日目に復活され、わたしたちの救いを成就してくださったと、ヨハネ福音書は続けて語っています。神がお始めになられた天地創造と救いのみわざは、み子、主イエス・キリストによって完成されます。

 創世記1章1節の冒頭の言葉、「初めに、神は」、ここから教えられることは、教会とわたしたちひとり一人の歴史と歩みにも示唆を与えます。天地創造の初めにおられ、創造と救いのみわざを開始され、それを完成される神は、教会とわたしたちひとり一人の歴史と歩みの初めにもおられ、それを完成させてくださいます。世界の教会の2千年の歴史と、この秋田教会の130年近くの歴史を始められた神は、今もその歴史を導き、終わりの日にそれを完成させてくださいます。

 また、神はわたしたちひとり一人の人生の歩みの初めにもわたしと共にいてくださいます。わたしがまだそのことに気づいていない時に、神はわたしをお選びになり、主キリストの救いにあずからせてくださいました。わたしのきょう一日の歩みの初めにもわたしと共におられ、わたしの生涯の終わりの日まで、否、わたしの地上の歩みが終わったのちにも、神は永遠にわたしと共にいてくださいます。

 終わりに、二つの語句について、簡単に説明します。「天地」とは、天と地の間にあるものすべてを意味します。この世界、宇宙、地下をも含めて存在するものすべてを神が創造された、すべてのものは神によって創造された被造物であると聖書は語ります。この信仰は古代においても今日においても、聖書特有の信仰です。したがって、それらの被造物は神によって創造されたものですから、神ではありません。神にはなり得ません。この信仰が聖書の唯一信仰、神は唯一であり、他はすべて偶像であり、偽りの神々であって、わたしたちが信じるべきものでも礼拝すべきものでもないという信仰の基礎になっています。太陽や月であれ星々であれ、山であれ、樹木や石、その他何であれ、もちろん人間であれ、それらは神ではありません。わたしたちを救うことはできません。ただ、天地万物をみ言葉によって創造された主なる神、この神の唯一のみ子主イエス・キリストだけが、わたしたちを罪と死から救うことがおできになります。

 次は「創造する」です。ヘブル語ではバーラーと発音します。この言葉は神が主語の時以外は用いられません。人間が主語になる時には別の動詞が用いられます。また、この言葉が用いられる場合には、何かの材料とか何かを用いる道具とかは語られません。神が「あれ」と言われるとそれがあるようになり、神が「そのようになれ」と言われるとそのようになります。神の圧倒的な力、全能の力がそこでは表現されています。無から有を呼びい出し、死から命を生み出される神のみ言葉の力が、そこでは強調されています。この命のみ言葉が、わたしの罪をゆるし、わたしの命を支え、わたしの歩みのすべてを導くのです。

(祈り)

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