5月19日説教「神は『光あれ』と言われた」

2019年5月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記1章1~5節

    ヨハネによる福音書1章1~18節

説教題:「神は『光あれ』と言われた」

 創世記1章1節のみ言葉は、2節から始まる神の天地創造物語全体の表題と考えられます。実際の神の創造のみわざは3節から始まるのであって、2節は創造前の状態を説明しているのですが、つまり時間の前後関係からすれば、2節が最初で、そのあとに1節がきて、それに3節が続くという順序になるはずですが、1節が表題として冒頭に置かれているということには、明らかな意図が読み取れます。それは、2節の天地創造前の状態もまた神の創造のみわざの中にあるということを教えているのす。

 【2節】。この2節は確かに神がまだ天地を創造される以前の、いわゆる原始の状態を説明していますが、これは神の創造のみわざから離れた、神のみわざとは無関係な何かを表現しているのではありません。また、神が創造される以前に、神よって創造されたのではない何かがすでに存在していたということでもありません。「初めに」神がおられたのであり、神は全く何もないところから、無から有を呼び出だすようにして、み言葉によって万物を創造されたのです。したがって、2節もまた神の天地創造のみわざの中にあるのであり、創造主なる神のみ手の中にあるのだということを、1節の表題が先にあり、それに2節の原始の状態の説明が続くという順序から、わたしたちは知ることができます。

 そのことをはっきりと語っているのが、2節後半の「神の霊が水の面を動いていた」というみ言葉です。混沌として、何も形がなく、闇に覆われていた原始の世界を神の霊が優しく大きな手のように包んでいます。その混沌と闇もまた神の創造のみ手の中に守られている、神の創造のみわざを待ち望むかのようにして、今か今かと神のみ言葉が語られるのを期待し、神のみ言葉が新しい創造の世界を生み出すのを待っている、そのことを暗示させるのです。

 ここで重要なことは、2節は神が天地を創造される以前にこの世界がどうであったのかということを語ることに中心があるのではなく、むしろ聖書が語ろうとしている事柄の順序から言えば、まず最初に神の天地創造のみわざがあり、2節はその天地の創造主なる神のみ手を離れるならばこの世界がどうなるのかについて語っているということなのです。この世界が、もし創造主なる神のみ手から離れて、神なしで存在しようとするならば、この世界は直ちに混沌と闇の中に飲み込まれてしまわざるを得ないのだということを、聖書は語っているのです。この世界も、世界の歴史も、また人類と、わたしたち一人一人の生涯も、もし創造主なる神のみ手を離れるならば、神なしであろうとするならば、神の創造のみ言葉を聞くことがないならば、すべては混沌と闇に閉ざされてしまわざるを得ないのであり、混乱、無秩序、むなしさ、空虚に飲み込まれ、確かな目標を失い、実りのないものになってしまうということを、聖書はわたしたちに語っているのです。神が始めてくださった創造のみわざの中で、神が完成させてくださる救いのみわざを信じて、その神と共に歩む、その神の命のみ言葉を聞き続けていく、そこにこそ幸いで祝福に満たされた道があるのです。神はきょうの礼拝でわたしたちをそのような道へと招いてくださいます。

 3~5節は神の創造のみわざの第一日目、光の創造について語っています。 【3節】。まず、「神」という言葉について簡単に触れておきます。ヘブライ語で神を意味する言葉は「エル」と発音しますが、聖書ではほとんどの場合複数形の「エロヒーム」が用いられます。しかし、形は複数形ですがエロヒームを受ける動詞は、3節の「神は言われた」の場合もそうですが、3人称単数形になっています。当然、神は唯一の神であるという信仰が聖書の基本ですから、神・エロヒームに続く動詞も単数形になるのですが、ではなぜ神を複数形で表現するのかという理由については、いくつかの理解があります。もっとも一般的には、それは尊厳の複数形であるという説明です。神の偉大さ、尊厳性を言い表すために、神はおひとりであるが、エルの複数形、エロヒームを用いたと考えられています。

 次に、「言われた」ですが、神は言葉を発することによって光を創造されました。2日目以降でも、すべてそうです。「神は言われた」という言葉が、3節、6、9、11、14節と繰り返されます。聖書の神、イスラエルの神、主イエス・キリストの父なる神、わたしたちが信じている神は、み言葉を語られる神です。み言葉をお語りになることによって創造のみわざをなされ、救いのみわざをなされる神です。これが神の第一の特色です。他のすべての偶像や偽りの神々と聖書の神、教会の神との大きな違いがここにあるといえます。わたしたちは物言わぬ神々を、言葉によってご自身を啓示される神以外の神々と言われるものを、神とすべきではありません。それらはまことの神ではなく、創造のわざも救いのわざをもなすことはできません。

 「神は言われた」というみ言葉の中には、神の強い意志、み心が働いています。神はみ言葉をお語りになることによって、ご自身の強い意志、み心によって、すべてのものを創造されました。神によって創造されたすべての被造物、すべて存在するものには、神の意志とみ心があります。この世界に存在するものの何一つとして、偶然にそこに存在しているものはなく、神のみ心から離れて存在しているものもありません。

 わたしたち人間も言葉を語ります。鳥たちやクジラなどもそれぞれの言葉を持っていると言われます。しかし、それらはみな神が語られる言葉とは根本的に違っていきます。わたしたちの言葉の多くはむなしく消え去っていきます。けれども、神のみ言葉は新しい存在と新しい出来事を生み出していきます。詩編33編9節には、「主がお語りになると、そのように成り/主が命じられると、そのように立つ」と書かれてあり、またイザヤ書55章11節で神はこう言われます。「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす」。わたしたちはそのような神のみ言葉を聞き、信じるのです。

 「光あれ」。これは神の命令です。「神が言われた」というみ言葉の中にすでに神の強い意志やみ心が示されていますが、「あれ」という命令形の中には断固とした神の意志、神の永遠の意志、神の摂理、存在へと召し出される神の大きな愛が言い表されています。「こうして、光があった」と続けて書かれています。神の創造の意志が直ちに実現し、出来事になります。神によって造られたすべての被造物にはこの神の愛の意志が貫かれています。山がそこにあり、木がそこに生え、鳥がそこにいる、そのすべての存在に神の強い愛の意志があります。もちろん、わたしがここにいること、あなたがここにいること、そこにこそ神の最も深い愛の意志があるのであり、だれも偶然にこの世に存在したのではないし、何か得体のしれない運命とかによってあやつられて今ここに生きているのでもありません。すべての存在、すべての出来事、すべての生と死に、神の愛とご配慮に満ちた意志が貫かれているのだということを、わたしたちは信じるべきですし、信じることができるのです。

 【3節】。「光」とは何でしょうか。この光は、天体の光、太陽の光のことではありませんし、何らかの人工的な光のことでもありません。というのも、太陽は14節で、第四日目に創造されるからです。まだ発行体となるべきものが何一つ創造されていないときに、天地創造の第一日目に神によって創造されたこの光とは何でしょうか。これを説明する適当な言葉がわたしたち人間にはないように思われます。ある神学者はあえてこう表現しています。「この光は世界を形成している最も崇高な元素である」と。そう言われてもよく分かりませんが、分かりやすく解説すれば、すべてのものがこの光の中で存在することができ、この光がなければ何ものも存在することができず、すべてのものの存在を根本から支えている光、そのような光であると言えるでしょう。この光の中で、神は第二日目、第三日目の創造のみわざを続けられ、この光の中に次々と創造されたものが存在していくことになります。

 さらに言うならば、この光は詩編119編105節で、「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」と告白されている光のことであり、ヨハネによる福音書1章4、5節と9節で証しされている、主イエス・キリストのことであると言うべきでしょう。すべての人を照らし、すべての人に命を与えるまことの光であられ、この世界の暗闇の中で光り輝いている永遠の光なる主イエス・キリスト、このまことの光なる主イエス・キリストにあって、わたしたちは神に創造された者であり、一人一人がその存在を与えられ、まことの命に生きる者とされているのです。

 【4節】。同じ言葉はこの後にも繰り返されます。神が強い、深い愛のみ心によって創造されたすべてのものは、良きものであると神ご自身が確認しておられます。「良い」とは、欠けや破れがない、整っているとか、目的にかなっているという意味です。神が創造されたすべてのものは、それぞれに存在の意味があり目的があり、神の良きみ心があります。

 けれども、もし神によって良きものとして創造されたこの世界が、その調和と秩序を失い、悪しきものへと変質しているとすれば、それは神の創造のみわざののちに入り込んだ人間の罪が作用しているのだということをわたしたちは深刻に受け止めなければならないでしょう。神は言われます。「わたしは世界を良きものとして、欠けも破れもないものとして、わたしの心にかなうものとして創造した」と。その神のみ言葉を信じないで、自らなおも不足しているかのようにしてむさぼり取り、なお自らを富める者にしようとあくせくし、自らなおも美しく着飾ろうとして心を悩ましているならば、それはむしろ神の創造のみ心から離れ、神が創造された調和と秩序の世界を破壊していることになるのではないかということを、人類は真剣に考えなければなりません。わたしたちが世界の平和と共存を考える際に、また生命の尊厳や世界環境の保護を考える際、聖書に記されている神の創造のみ心を知ることの重要性を教えられます。そして、わたしたちの罪をおゆるしくださる主イエス・キリストによる回復を切に願い求めなければなりません。

 【5節】。「呼ぶ」という言葉は4節の「分ける」という言葉と関連しています。「分ける」とは分離する、境界線を引くという意味を持ちます。光と闇との間には神のみ心によって超えることができない境界が設けられています。神のみ心がなければ、どんなに深い闇でも光を覆いつくすことはできません。

 「呼ぶ」という言葉は名づけるという意味であり、そこには名をつける神の絶対的な主権と支配があります。神は昼と名づけられた光を支配しておられます。神はまた夜と名づけられた闇をも支配しておられます。闇が神のみ心を離れて光を支配することはできません。

 「夕べがあり、朝があった」と書かれています。旧約聖書の民イスラエル・ユダヤ人は、一日が夕べから、日没から始まると考えました。朝があって、夕べに陽が落ちて一日が終わるのではなく、夕方から始まり夜の闇を貫いて明るい朝が来るというユダヤ人の考え方には興味深いものを感じます。夜の闇が最後に勝利するのではなく、どんなに長く暗い夜でも、やがて必ずや朝が来る、明るい光が最後には勝利する、罪と死という闇を切り裂くようにして、主イエス・キリストが死に勝利した復活の朝を迎えるということをわたしたちは信じています。

(祈り)

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