6月9日(日)聖霊降臨日説教「聖霊降臨と教会の誕生」

2019年6月9日(日) 聖霊降臨日 秋田教会礼拝説教

聖 書:ヨエル書3章1~5節

    使徒言行録2章1~13節

説教題:「聖霊降臨と教会の誕生」

 きょうは教会の暦ではペンテコステ・聖霊降臨日です。この日に、エルサレムに集まっていた主イエスの弟子たちの上に聖霊が注がれ、聖霊に満たされて主イエスの福音を語った弟子のひとりペトロの説教を聞いたユダヤ人3千人が主イエス・キリストを信じて洗礼を受け、ここに世界最初のキリスト教会が誕生しました。

使徒言行録2章1節では「五旬祭」と訳されているように、ギリシャ語のペンテコステは第50番目、第50日目という意味で、旧約聖書の時代から続くユダヤ人の3大祭りの一つです。過ぎ越しの祭りの翌日から数えて50日目の祭りで、旧約聖書では七週の祭りとか、初穂の祭りとも呼ばれています。

 そこできょうは最初に、旧約聖書の過ぎ越しの祭りとその後50日目の初穂の祭りとの関連について、また主イエスの十字架と復活のみわざとその50日後の聖霊降臨による教会誕生の関連について、さらには、旧約聖書時代の二つの祭りと新約聖書の教会の二つの祭りである復活日と聖霊降臨日との関連について、考えてみましょう。

 ユダヤ人最大の祭りである過ぎ越し祭は、イスラエルの民が奴隷の家エジプトから主なる神によって救い出された解放を祝う祭りです。その50日後、ペンテコステ、あるいは七週の祭り、初穂の祭りは、奴隷の家から解放されたイスラエルの民が約束の地カナンに導かれ、その地で最初に収穫した小麦の穂を神に感謝してささげる祭りです。後の時代には、シナイ山で十戒をはじめとした律法を授けられたことを感謝する意味も付け加えられました。

 ペンテコステの祭りが過ぎ越しの祭りを起点として数えられているのは、この二つが密接に結びついているからです。つまり、神によって奴隷の家から救い出された民は、それに続いて、豊かな収穫を約束されているということなのです。罪の奴隷から解放され、救われた民は、神の律法、神のみ言葉に喜んで従っていく信仰生活を通して、豊かな実りを与えられる、その実りを神に感謝しておささげする礼拝の民となるのです。

 主イエスの十字架はユダヤ人の過ぎ越しの祭りの時期でした。主イエスは十字架につけられる前日の夕方、弟子たちと最後の晩餐を共にされました。共観福音書によれば、それは過ぎ越しの食事でした。また、ヨハネによる福音書によれば、主イエスが十字架で死なれた金曜日の午後3時ころは、エルサレムの神殿で過ぎ越しの子羊を屠る時刻と一致していました。旧約聖書の過ぎ越しの祭りと主イエスの十字架は、時期が同じであるだけでなく、二つは同じ神の救いのみわざであるということをも聖書は強調しています。神がイスラエルの民によってお始めになった出エジプトという救いのみわざは、今や主イエスによって全世界の民のための十字架による救いのみわざとして成就したのです。

 旧約聖書の七週の祭り・初穂の祭りとペンテコステ・聖霊降臨日にも密接な関連があります。主イエスの十字架の贖いによって罪の奴隷から解放されたわたしたちは、神から与えられた自由の中で、喜んで神のみ言葉に聞き従い、主イエスが備えてくださった救いの道を歩み、神を礼拝する民とされます。復活された主イエスは天の父なる神の右に座しておられ、そこから聖霊なる神を送ってくださり、わたしたちを導いてくださいます。その具体的な実りとして地上に誕生したのが教会です。教会は主イエスの十字架の贖いよって救われたわたしたちが、そこで神に喜ばれる豊かな実りを結び、その収穫を神への感謝のささげものとして携え、神を礼拝する場です。ペンテコステはその教会の誕生を記念する日です。今も、教会は聖霊によって生かされ、豊かな収穫を約束されていることを覚えたいと思います。

 使徒言行録2章には、最初にエルサレムで教会が誕生した時のことが詳しく描かれています。【1~4節】。ここに描かれている聖霊降臨の出来事は激しい風の音と炎のような舌が現れるという、非常に具体的で、人間の視覚や聴覚によってとらえられる現象として描写されていることにまず注意したいと思います。聖霊なる神とか、聖霊が注がれるということは、わたしたちには理解しづらいことのように思われます。また、日本キリスト教会の神学や信仰においては、聖霊の教理はあまり強調されない傾向にあるようにも思われます。その理由の一つには、聖霊がしばしば人間の感情と混同されて理解されることが多かったという歴史的な反省があります。聖霊は三位一体なる神の一つの位格であるということ、すなわち、父なる神、み子なる神主イエス・キリスト、そして聖霊なる神という、三つの位格を持つ一人の神であるというキリスト教信仰の中心的教えである三位一体論からそれて、聖霊を人間の感情とか思い、心の運動、興奮した状態などと同じように誤解されることが過去にも、また現在にも多くあるということを警戒してのことだと思われます。

 しかしながら、誤解を恐れるだけではなく、聖霊についての教理を積極的に、また正しく理解すべきであることは言うまでもありません。そのために、きょうのみ言葉は重要です。聖霊の降臨、また聖霊の働きとは、人間の感情とか心のことでは全くなく、むしろわたしたちが耳で聞き、目で見て、体全体で感じ取ることができる、外からの、強く激しい力であるということを、まず第一に確認しておくことが大切です。

激しい風の音が天から聞こえてきたと書かれています。炎のような舌が天から伸びてきました。聖霊なる神のお働きは、天からやってくるのです。そのために、聖霊降臨と呼びます。人間の内側からではなく、人間の外から、天から、復活された主イエスがそこにいます天から、聖霊が下り、弟子たちの上に注がれたのです。聖霊なる神は天から来られて、わたしたちをつき動かします。それはむしろ、人間の感情や心に逆らって、時にはそれを破壊する大いなる力として働くのです。

3節に「一人一人の上にとどまった」とありますが、この個所全体では弟子たちが一つの群れであることが何度も強調されています。1節に、「一同が」「一つになって」「集まっていると」、4節でも、「一同は」とあります。この一同とは、1章6節に、「使徒たちは集まって」と書かれていた主イエスの弟子たちであり、また14、15節では、他の兄弟姉妹たちも加わり、120人ほどの群れになって、共に熱心に祈っていた人たちのことです。少し時間を戻すと、彼らは主イエスの十字架の時には、みなそこから散らされた人たちでした。だれ一人として、主イエスと共に十字架を担っていくことができず、すべてのひとが主イエスの十字架につまずき、主イエスを見捨て、十字架から散らされていった人たちでした。その人たちが今一度、呼び集められ、共にある一つの群れとされ、一同とされているのです。そして、彼らの群れの上に聖霊が注がれたのです。

ここには聖霊なる神の最も大きなお働きが暗示されています。聖霊なる神は、罪のゆえに神から離れ、散らされ、孤立している人間を、またお互いにも罪のゆえに分離している人間を、一つの群れとして呼び集め、愛とゆるしの絆によって結びつける働きをするということが、暗示されているのです。

わたしたちはここで、創世記11章に書かれているバベルの塔のことを思い起こします。世界の人間たちが互いに相談しあって、高い塔を建てて、その頂を天の神にまで届かせようとしたとき、神は彼らの言葉を乱し、互いに言葉が通じないようにして、彼らを全地に散らされたということが書かれています。人間の罪は自らが神のようになって、神よりも高いところに立ちたいという欲望と傲慢を生み出します。しかし、神なき世界の究極は滅びでしかないことを神は知っておられます。それ故に、神はまことの救いが到来するときまで、人間たちの言葉を乱し、人間たちを孤立させることによって、世界の絶滅を防止されたのです。

しかし今や、まことの救いの時が到来しました。主イエス・キリストの福音によって全世界のすべての人たちが罪ゆるされ、救われて、一つの神の民となる時が到来したのです。み子主イエス・キリストの十字架の救いと聖霊なる神のお働きによって、散らされていた人たちが一つに呼び集められ、主キリストの教会の民として結集させられたのです。それが聖霊降臨日の出来事の最も大きな意味です。

使徒言行録2章5節以下に描かれている弟子たちの行動がそのことを具体的に示しています。聖霊に満たされた弟子たちは全世界の言語で神の偉大なみわざである主イエス・キリストの福音を語りだしました。9~11節に挙げられている諸民族、諸言語は、当時のローマ帝国全体を指しています。聖霊に満たされた弟子たちが、ペンテコステの祭りを祝うためにエルサレムに集まって来ていた全世界の民族、言語の違うすべての人たちに一つの同じ神のみわざである主キリストの福音を語り、彼らがみなその福音を理解したという出来事は、バベルの塔の出来事の正反対の現象であり、その時に世界に散らされた諸民族、諸言語の人々が今や聖霊が弟子たちに語らせる言葉によって一つの民とされたことを表しているのです。

主イエスの十字架の前でつまずき、散らされていた弟子たち、また罪のゆえに全世界に散らされていた諸民族、諸言語の人々が、聖霊のお働きによって一つの神の民として結集される、主キリストの福音を聞く一つの礼拝の民とされる、これがペンテコステの出来事です。1~5節のみ言葉をその視点から読み返してみると、ここにも同じ聖霊なる神のお働きがあることに気づかされます。2節には、激しい風が天から吹いてきて家中に響いたと書かれています。風は聖霊を意味しています、聖霊が家中に満ちるとは、全世界に聖霊なる神のお働きが及ぶことを象徴的に言い表しています。また、聖霊が教会全体を支配していることを言い表しています。聖霊が全世界の民を、教会の民を一つに結びつけます。

3節に「炎のような舌が分かれて現れ、一人一人の上にとどまった」とあります。天から下ってきた聖霊なる神が弟子たち一人一人を上から支配し、彼らの全身を満たします。聖霊は舌の賜物として、すなわち言葉を語る賜物として、弟子たちに与えられます。これまで弟子たちは主イエスの教えを聞く立場でした。しかし、聖霊を受けてからは、彼らは主キリストの福音を語る者としてこの世に遣わされるのです。4節に、【4節】と書かれているとおりです。

「聖霊に満たされ」とは、聖霊が弟子たちを覆いつくし、彼らのうちに満ち溢れ、彼らの全身が聖霊によって支配され、彼ら全体が聖霊によって占領されているかのようになり、聖霊が彼らの新しい主体となって働かれることを意味しています。「霊が語らせるままに」と書かれています。聖霊が彼ら一人一人に新しい霊の言葉を授け、彼ら自身がその聖霊の言葉によって生きるとともに、彼らはその聖霊の言葉をこの世の人々に向かって語りだすのです。そのようにして、5~13節に書かれているような不思議な出来事が起こり、14節以下に書かれているようなペトロの説教が語られ、37節以下に書かれているように、主イエスを信じる信仰者が誕生し、教会が誕生するのです。

聖霊に満たされた弟子たちは、主キリストの福音を語り、主キリストの救いのみわざのために仕え、またこの世の人々の救いのために仕える者とされるのです。わたしたちはそのような一人一人としてこの教会に集められ、聖霊の賜物を与えられているのです。

(祈り)

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