6月16日(日)説教「天と地を創造された神」

2019年6月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記1章6~13節

    ヘブライ人への手紙1章1~4節

説教題:「天と地を創造された神」

 創世記1章に記されている神の天地創造のみわざは、文章の形式が非常によく整っていることが分かります。まず、「神は言われた」とあり、続いて「あれ! そのようになれ!」と言われる神の命令が語られ、次に、「あった、そのようになった」という結果が語られ、さらに「神はそれを見て良しとされた」という評価が付け加えられ、終わりに、「夕べがあり、朝があった。第何日であった」という時の区切りが書かれます。第一日目の光の創造から始まって第六日目の人間の創造に至るまで、ほぼ完全と言ってよいほどにこの形式が守られています。

 このような、リズミカルで、整っている表現は、礼拝での朗誦や交読、あるいは信仰告白や讃美歌が背景になっているのではないかと考えられています。イスラエルの礼拝の中で、長く歌い継がれ、告白されてきた伝統をここに見ることができます。2章1節以下に書かれている第七日目の安息日の規定には、まさにイスラエルの民を礼拝へとお招きになる神の最終的な意図が読み取れるように思われます。

 きょうは6~13節まで、第二日目と第三日目の創造のみわざについて学びます。わたしたち人間を真実の神礼拝へとお招きになる神のみ心を尋ねながらご一緒に読んでいきましょう。

 【6~8節】。6節の二日目の初めもまた「神は言われた」という言葉で始まります。神がみ言葉をお語りになることによって、新しい一日が始まります。神がみ言葉をお語りになることによって、新しい創造のみわざが始まります。神がみ言葉をお語りになることによって、わたしたちの救いのみわざが始まります。わたしたちの礼拝が始まります。

「そのようになった」と続けて8節に書かれています。神のみ言葉はむなしく語られることはありません。神のみ言葉は出来事を生み出していきます。神のみ言葉は救いの出来事をわたしたちのうちに引き起こします。神のみ言葉が語られることから始まる一日の歩み、一週の歩みは、決してむなしく終わることはありません。神ご自身がこの日に、この週に、わたしたち一人一人のために創造のみわざを、救いのみわざをなしてくださるからです。そして、わたしたちは神がなさったみわざを見て、「そのようになった」と感謝をもって告白することができるのです。

「水の中に大空あれ……水を分けさせられた」(6~7節)。第二日目には大空と呼ばれる天が創造されました。古代近東諸国の宇宙観によれば、地の上を覆っている空、天空は半円形のドームのような形をしていると考えられていました。神はその大空の上にある水とその下にある水とに分けられました。大空の下の水は9節以下の第三日目で海の水として集められるのですが、上の水は固い鉄板でできたドーム型の大空のうえにある貯水槽のようなものに蓄えられており、神は時に応じてその鉄板の扉を開いて地に雨を降らすと考えられていました。

ここでは、6節と7節にある「分ける」という言葉が重要な意味を持ちます。同じ言葉は4節にもありました。神は光と闇とを分け、両者が勝手に相手の領域に侵入しないように定めておられます。どのような深い闇であっても、神のみ心なしでは、闇は光に勝利することはできません。どのような長い闇が続いていたとしても、神はみ心によって闇を追い出され、光の勝利を告げられます。光も闇も神のご支配のもとにあり、神のみ心によってコントロールされているのです。それと同じように、大空の上にある水と下の水は共に神のご支配のもとに置かれています。神のみ心なしには、天の大空の上にある水は地に落ちることはなく、下の水があふれて両者が一体となることもありません。ここには、原始の混沌とした海の水を支配し、コントロールされる主なる神の偉大な力が暗示されています。そのことについては9節、10節の三日目の創造で再度触れます。

創世記7章のノアの大洪水の個所には、神が天の窓を開かれ、雨が40日40夜降り続いたと書かれています。また、列王記上17章には、預言者エリヤがイスラエルの罪に対する神の裁きを告げるために、神が3年の間地に雨を降らせないと預言したことが書かれています。さらに、大空をご支配しておられる神の慈しみについて、詩編78編23~25節にはこのように書かれています。【23~25節】(914ページ)。主イエスはマタイによる福音書5章の「敵をも愛しなさい」と勧める箇所で、天の父なる神は「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからだ」と言われました。

神は天と天の上にある水とを支配しておられ、み心のままにそれをお用いになります。

 8節に「神は大空を天と呼ばれた」とあります。「呼ぶ」という言葉も5節ですでに出てきました。呼ぶ、あるいは名づけるとは、神の支配権と神がそれにふさわしい務め、役割を与えることを意味します。では、天とは何でしょうか。天という言葉は旧約聖書では450回近く、新約聖書では300回近く用いられています。聖書の中で重要な言葉の一つです。わたしたちが「天の父なる神よ」と祈るその天のことです。天という言葉が用いられるとき、ほとんどの場合、そこでは同時に神のことが語られています。神は天をご自身の住まいとされました。もちろん、天も神によって創造された被造物ですから、天イコール神ではなく、神は天にだけ閉じ込められる方ではありません。神は天にも地にも、地の深いところにも、至る所におられます。列王記上8章27節でイスラエルの王ソロモンは、神殿を奉献する礼拝で、「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおさらふさわしくありません」と祈っています。

 にもかかわらず、神は天におられることを良しとされました。あえてその場所をお選びになりました。天とは、わたしたちの頭上に張り巡らされている星をちりばめた空のことであり、神がアブラハムに「空の星を見なさい。それを数えることができるなら数えてみなさい。あなたの子孫もそのようになる」と約束された空のことであり、太陽の光がそこからすべての人に注がれる空、雨がそこから落ちて地を潤す空のことであると同時に、天とはまた神が住まわれるところ、わたしたち人間が住むこの世界とは全く違っている、わたしたちの手や目や理解力が及ばない天のことでもあります。天イコール宇宙ではありません。宇宙は人間が到達可能であり、科学的な探求が可能です。しかし、聖書で言われている天は広大な宇宙よりもはるかに広く、高く、遠くの世界、領域を意味しています。わたしたち人間の考えや能力をはるかに超えている天、神がそこにお住まいになっておられる天、神がそこからすべての被造物をご覧になられ、この世界を裁かれ、この世界に住む人間たちに恵みをお与えくださる天のことでもあります。詩編104編13節には、「主は天上の宮から山々に水を注ぎ/御業の実りをもって地を満たされる」とあり。また、アモス書9章6節には、「天に高殿を設け/地の上に大空を据え/海の水を呼び集め/地の表に注がれる方。その御名は主」とあります。神は天でご自身の職務を司っておられます。

 「神は大空を天と呼ばれた」(8節)。それによって、わたしたちが神を思い描くときに、そして祈るとき、上なる大空を見上げ、そこから神の賜物を期待することができるようにされたのです。失望して頭を下げ、トボトボ歩いているときでも、大きな重荷にあえぐときでも、かしらを上に挙げ、沈んだ心を持ち上げて、天に向け、そこにおられる神を見上げることができるようにされたのです。罪を犯し、顔を地に伏せるしかないとき、恥と屈辱に目を伏せるとき、なおも天に顔を向けて、そこからお語りくださる神のゆるしのみ言葉を聞くことができるようにされたのです。天におられる神は、地上にあるどのような困難で乗り越えがたい障害物にも妨げられることなく、上から、天から、必要なものを与えたもうのです。それゆえに、わたしたちは「天にましますわれらの父よ」と祈るのです。

 9~13節は天地創造第三日目のみわざです。【9~13節】。ここでは、下の水が一つのところに集められ、陸地が作られます。2節の混沌とした原始の海の水が神によってコントロールされて上の水と下の水とに分けられ、さらには下の水が神のみ力によって一つ所に集められ、はじめて陸地が姿を現します。10節にも「呼ぶ」という言葉が2度用いられています。呼ぶ、あるいは名づけるとは、神の支配権を表し、神がそれにふさわしい務めをお与えになることを意味しています。先にも少し触れましたが、ここでは水を支配される神の偉大な力が強調されているように思われます。

古代の人々は、海には人間が制御することができない悪魔的な力があると信じていました。イスラエルにおいても、信仰者が経験する苦難や試練を大水にたとえる例が多数あります。詩編69編を開いてみましょう。【2~3節、15~16節】(901、2ページ)。詩人は大水の恐ろしさを知っています。彼自身の力とか、何か他の力によっても、だれも大水を制御することができない悪魔的な力を持っていることを知っています。それと同時に、詩人はただ神だけが大水を鎮め、支配されることを知っています。詩編93編4節にはこうあります。「大水のとどろく声よりも力強く/海に砕け散る波。さらに力強く、高くいます神」。

神が「乾いたところを地と呼び、水の集まったところを海と呼ばれた」とは、海と陸との間に神が確かな境界線を定め、海の水がその境界線を越えて陸地を覆ってしまわないように、また陸の山が海を埋め尽くしてしまわないようにされたということ、また、それぞれにふさわしい使命、役割をお与えになったという意味です。イスラエルの民はただ海の水の悪魔的な力を恐れるだけではなく、その水をも支配され、み心のままにコントロールされる神の偉大な力を信じ、その神の救いのみわざを信じました。出エジプト記14章に書かれている葦の海を二つに分けられた神の奇跡と救い、またガリラヤ湖の嵐をみ言葉によって静められた主イエスの奇跡は、そのような背景の中で起こった神の驚くべき力を強調しているのです。

三日目の後半には、地に草と果樹を芽生えさせたことが書かれています。ここでは地に特別な使命が与えられています。神は地に命じて「芽生えさせよ」と言われます。地は神がお与えくださる豊かな実りを生み出す母としての使命を与えられています。ここではまた、神が地に対して特別の関心を持っておられることをも暗示しているかのようです。神はご自身の住まいである天よりも、あるいは神がその悪魔的な力をご支配された海よりも、より大きな関心を地に対して持っておられるように思われます。神はのちに、この地の上に生き物を創造され、人間を創造され、この地の上でご自身の救いのみわざをなさいます。

三日目には「神はこれを見て、良しとされた」という言葉が10節と12節とに二度繰り返されていますが、そして実は二日目にはこの言葉が欠けているのですが、それがどういう理由によるのかはよく分かっていません。二日目に水が天の上と下とに分かられたことが、三日目になって海と陸とに分けられたことで完了するからとか、神が地に対して特別の大きな関心を寄せておられるからなどと説明されます。

いずれにしても、神がご自身が創造されたもの、すべての被造物を良しとされました。神によって創造されたものはみな良きものです。みな神のみ心によってそこにあり、みな神のみ心によって生き、みな神のみ心によってその使命、務めを与えられているのです。

(祈り)

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