7月28日(日)説教「聖書―出会いの書―命の書」

2019年7月28日(日)秋田教会牧師就任記念伝道礼拝説教

聖 書:イザヤ書55章6~13節

   テモテへの手紙二3章10~17節

説教題:「聖書―出会いの書―命の書」

 聖書は「大いなる出会いの書である」と言われます。それには、二つの理由があります。一つは、聖書には神と人間との出会いについて書かれているからです。神と人間との出会いは、人間が経験する出会いの中で、最も偉大なものであるといってよいでしょう。

人間は生まれてから多くの出会いを経験して成長します。親や家族との出会い、友人、先輩との出会い、文学や絵画、芸術作品との出会いなど、多くの良き出会いの経験を与えられている人は幸いです。その人の人生は豊かになります。それ以上に、人間が神と出会うということは、その人の生き方を根本から変える大きな出会いとなるでしょう。ある哲学者は神を絶対他者であると言いました。人間の自由にはならない絶対他者である神との出会いによって、人間は自ら相対化される、それによって全く予想もできないような新しい自分というものを発見することができるのだと。

最初から少し難しいお話になってしまいましたが、大切なことは、よい出会い、真実の出会いを経験することが、わたしたちの人生をさらに豊かにするということです。

聖書の初めの書である創世記には、神がご自分の形に似せて人間を創造されたと書かれています。神と人間との形が似ているということは、近い関係にある、お互いが顔と顔とを合わせて対話ができるということです。神は最初に創造された人間アダムとエヴァと出会われました。神は人間にとって絶対他者としての存在ですが、しかし神は人間を対話の相手として、神と人間とが出会う存在として、また人間同士も互いに出会う存在として創造されたのです。それが、神の形に似せて創造されたという聖書のみ言葉の意味です。

聖書に書かれている神と人間との出会いが偉大な出会いであると言われるのは、人間が神と出会うために何らかの努力をしなければならないというのではなく、神ご自身が人間と出会うために、わたしたち人間の方に近づいて来てくださるという出会いだからです。実は、これがクリスマスの出来事の意味なのです。世の多くの宗教は、人間が神を見出す、人間の方から神に近づくという道をたどります。けれども、聖書では、キリスト教ではそうではありません。天におられる聖なる神が、絶対他者である神が、ご自身の身を低くされ、卑しくされて、地に下って来られ、この世の罪と汚れのただ中にお住まいになり、わたしたち人間と同じお姿になられ、ナザレのイエスとして、貧しい家畜小屋でお生まれになり、神に背いていたわたしたち罪びとたちと出会ってくださったという、特異な、特別な出会いなのです。

旧約聖書と新約聖書の中には、数多くの神と人間との特別な出会いの物語が書かれています。彼らは神との偉大な出会いによって、その人生が大きく変えられました。それまでは、自分や自分の周辺にいる人々のために生きていた人が、神と出会ってからは、神のために、主イエスにお仕えするために、そしてすべての隣人のために自分をささげて生きる人生へと変えられていきました。わたしたちはそれらの聖書の物語を読むことによって、神と彼らとの出会いの出来事を追体験することができます。

聖書が大いなる出会いの書であると言われるもう一つの、さらに大きな理由は、聖書の中に神と人間との出会いが多く描かれているというだけでなく、聖書のみ言葉によって、神が今、ここで、この礼拝において、わたしたち一人一人と出会ってくださるということです。そして、実はこの出会いこそが、わたしたちにとって決定的な意味を持つのです。聖書の中に描かれている神と人との出会いの物語をどれほど多く読んでも、熱心に研究しても、それだけでは神とわたしの決定的な出会いは起こりません。神が今、ここで、このわたしに、命のみ言葉をお語りくださる、救いのみ言葉を語ってくださる、わたしと対話をしてくださる、そしてここで、神とわたしの出会いが起こるのです。

神は今も、わたしたち人間を探し求め、たずね求めておられます。神は今も、様々な思い煩いや労苦や試練の中にある人と出会ってくださいます。孤独で、一人悩み苦しんでいる人と出会ってくださいます。病んでいる人や道に迷っている人、不安や恐れの中にいる人と出会ってくださいます。神から離れ、神に背いているわたしとも出会ってくださいます。そして、主イエス・キリストによる救いと平安を与えてくださるのです。わたしたちは主の日ごとの礼拝で、聖書のみ言葉をとおして、今も生きて働いておられる神との出会いを経験することができるのです。これこそが、わたしが人生の中で経験する最も偉大な出会いです。

旧約聖書の預言者イザヤは55章で、わたしたちをお招きくださる神のみ言葉を告げています。【1~3節、6~7節、11~12節】(1152ページ)。神は力強い命のみ言葉をもって、わたしたちをまことの命へと、大いなる喜びと平和へと、招いておられます。

次に、新約聖書のテモテへの手紙二3章のみ言葉に耳を傾けましょう。この手紙は、キリスト教の初期の最大の伝道者であったパウロが弟子のテモテにあてて書いた手紙です。パウロは第二回世界伝道旅行の初めころ、それは紀元49年ころと思われますが、小アジア地方のデルベという町で若いテモテと出会い、彼に洗礼を授けました。そのことについては、新約聖書の使徒言行録16章に簡単に書かれていますが、きょうの説教のテーマとの関連でパウロとテモテの出会いのことを考えてみれば、それは本当に大きな意味のある出会いであったと言えるでしょう。おそらくはまだ二十歳にもなっていなかった若いテモテが、主イエスの福音を宣べ伝えるために町にやってきた伝道者パウロと出会い、パウロの説教を聞いて主なる神との偉大な出会いを体験し、それ以来、テモテはパウロの弟子、同労者、また信仰のために共に戦う戦士となり、小アジアの小さな町、生まれ故郷を出て、パウロと共に全世界をめぐって、困難な伝道活動に加わることになったのでした。

ここで、この手紙の著者であるパウロがどのようにして神と出会ったのかをも思い起こしてみたいと思います。そのことは使徒言行録9章に書かれているのですが、パウロは初めは熱心なユダヤ教徒であり、キリスト教を迫害する先頭に立っていました。彼が属していたユダヤ教ファリサイ派の考えによれば、人は神の律法を忠実に守り、行うことによって、神に救われ、神の国に入ることができる。けれども、キリスト教によれば、人はみな生まれながらに神の律法の一つにも従うことができない罪びとであり、だれも律法を行うことによっては救われない。ただ、罪びとたちに代わって十字架で死んでくださり、三日目に復活された主イエス・キリストを信じるならば、その信仰によって、だれでも律法の行いなしに救われると教えている。それは、神の律法を軽んじることであり、神を冒涜することだ。そう考えて、ユダヤ教ファリサイ派の熱心な学徒であったパウロはキリスト教会を迫害していたのでした。

ところが、ある日パウロが迫害の息を弾ませてダマスコという町の入口までやってきたとき、突然に天からの、真昼の太陽の光よりも強烈な光に撃たれて地に倒れました。彼は目が見えなくなり、天からの声を聞きました。それは復活された主イエスのみ声でした。「パウロ、パウロ、なぜわたしを迫害するのか。わたしはあなたがこれからなすべきことを教えよう」。三日ののちに、彼の目が再び開かれたとき、彼はそれまで迫害していた主イエス・キリストを神のみ子であり、全世界の救い主であると宣教するキリスト教の伝道者に変えられていました。それからは、パウロはかつての同僚であったユダヤ人から迫害を受ける人になりました。迫害する人から迫害される人へと変えられました。律法によって生きる人から、主イエスの福音によって生きる人へと変えられました。

テモテとパウロ、聖書には他に多くの神と人との偉大な出会いの物語があり、人間の予想をはるかに超えた大きな人生の変化の物語があり、神によって与えれた祝福され、幸いな信仰の歩みの物語があります。

テモテへの手紙に戻りましょう。【3章14~17節】。ここには、神のみ言葉である聖書とは何か、それを読む人にどのような命と力とを与えるのか、ということが詳しく教えられています。いくつかのポイントにまとめてお話ししたいと思います。第一に重要な点は、聖書は主イエス・キリストへの信仰によってわたしたち人間を救いに導く神の知恵、神の真理であるということです。これがキリスト教の教えの中心です。キリスト教信仰の中心です。

キリスト教信仰は人間の罪と救いを問題にします。罪とは、神を失った人間の姿です。神なしで生きようとし、時に人間が自ら神のように傲慢になり、時に神を見失って暗闇をさまようほかにない人間のことです。神はこのような罪人を救うために、ご自身の独り子、主イエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。主イエス・キリストの十字架の死によって人間の罪を贖い、すべて信じる人をその信仰によって罪から救い、神との豊かな交わりへと導いてくださいます。聖書はこの神の救いのみわざを、救いの恵みをわたしたちに与えます。聖書以外のどのような書物も、どのような教えや知識も、わたしたちに救いの恵みを与えることはできません。また、その他のどのような方法や道によっても、人間を罪から救うことはできません。ただ、神のみ子主イエス・キリストが十字架で流された尊い、汚れなき御血潮だけが、わたしたちを罪から清め、わたしたちに新しい命を与えるのです。

したがって、わたしたちが聖書を読む場合には、聖書からこの救いの恵みを受け取ることを願って読まなければなりません。聖書を何らかの教訓の書として、文学書とか歴史書とか、あるいは哲学書として読むことも、それなりに意義あることですが、そこから救いの恵み、罪のゆるしの福音を聞き取らなければ、本当に聖書を読んだことにはなりませんし、神との真実な出会いを経験したことにもなりません。神は聖書のみ言葉をお語りくださることによって、わたしたち一人一人に救いの恵みをお与えくださり、わたしたちが罪ゆるされている神の子どもたちであることを信じるようにと導いておられます。

第二に重要な点は、聖書はわたしたちを神との交わりの中にとどめおくということです。パウロが手紙の中で弟子のテモテに繰り返して語っていることは、聖書の教えから離れるな、世の惑わしに心を奪われるな、偽りの教えを退けなさいという忠告です。紀元1世紀のパウロの時代も、今日のわたしたちの時代も、いつもそうですが、世には信仰者を誘惑する甘い言葉や美しく着飾った悪魔の力に満ちています。聖書に書かれている神のみ言葉には、それらを正しい信仰によって見抜き、判断し、それらと戦うための神からの知恵と力があります。わたしたちは誘惑の多いこの世にあって、絶えず繰り返して聖書のみ言葉を聞き続けなければなりません。そのために、信仰者は主の日、日曜日ごとに教会堂に集まり、共に聖書のみ言葉を聞き、共に神を賛美し、共に神に祈りをささげる礼拝を続けるのです。

最後に、聖書はわたしたちを喜んで神と隣人とにお仕えしていく人として造り変えます。神から離れていた罪びとは、自己中心的な生き方しかできません。自分の楽しみや自分の誉れのために、自分の幸いを求めて生きています。しかし、主イエス・キリストの福音によって罪ゆるされている人は、自己自身から解放されます。自分のためだけに生きるのではなく、わたしの罪をゆるすためにご自身の尊い命をささげつくされた主イエス・キリストのために、主イエス・キリストの福音のために、そして、主イエス・キリストに愛されているすべての隣人のために、喜んで自分をささげて生きる、新しい生き方へと導かれるのです。たとえその道が、パウロやテモテにとってそうであったように、労苦や試練に満ちた道であろうとも、あるいは自らの命をそのために犠牲にしなければならないとしても、すべては神の栄光のために、喜びと希望とをもってその道を進むための力と命とを、聖書はわたしたちに与えるのです。

(祈り)

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