9月1日(日)説教「人間の創造」

2019年9月1日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記1章26~31節

    コロサイの信徒への手紙1章9~20節

説教題:「人間の創造」

 神の天地創造の第6日目は、創世記1章24節から始まっています。この第6日目の前半では、地の生き物たち、すなわち「家畜、這うもの、地の獣」が創造されました。そして、まだこの日の神のみわざがすべて終わっていないのに、このあとに人間の創造がさらに続くはずであるのに、25節には、これまで一日の終わりに書かれていた「神はこれを見て良しとされた」というみ言葉がすでに書かれています。あたかも、この日の前半の地の生き物の創造によって、これまでの創造のみわざが一段落したかのように、「神はこれを見て良しとされた」と書かれている理由は、前回にも少し触れましたように、これによって最後の人間創造の準備がすべて整った、人間がこの世界に登場するにふさわしい舞台がすべて整ったということを強調しているのです。神の天地万物の創造は、最後の人間創造を目指していたのであり、それによって完成するのだということを聖書は語っているのです。

 26節に「神は言われた」と書かれています。すでに、第6日目の初めである24節に「神は言われた」と書かれていました。また、同じ第6日目に、28節でも「神は彼らを祝福して言われた」、29節でも「神は言われた」と繰り返されています。第6日目には、実に4度も「神は言われた」と書かれているのです。神はこの第6日目にこそ、最も多くのみ言葉をお語りになられます。何度も語ること、多くの言葉を語ることは、特別な感情のあらわれです。神はこの第6日目に、人間が創造されるこの日に、特別の関心を、情熱を、愛を傾けておられ、最も力を込めて、最も多く、最も重要な創造のみわざをなさるのです。

 そのことは、27節に「創造する」という言葉が3度用いられていることからも確認できます。【27節】。「創造する」という言葉は1章1節にありました。【1節】。そこでもお話ししましたように、聖書原典のヘブライ語「バーラー」という言葉は神が主語の時にしか用いられません。人間が何かを造るとか何かをなすという場合には、別のヘブライ語が用いられます。「バーラー」は神の特別な創造のみわざを言い表すための専門用語だと言えます。では、それがどのような意味を持つのかをいくつかのポイントにまとめてみますと、第一には、神はみ言葉を語ることによって、何もないところに、み言葉のままに、神のみ旨とご計画によって、あるものを存在せしめ、あることを起こさせ、あることをなされる、それは神のみ言葉のままに、何一つ欠陥なく、完全に、それを完成される、それが神の創造のみわざだということです。別の言葉で言うならば、無からの創造、無から有を呼び出だし、混沌から秩序を生み出し、闇から光を生み出すみわざであると言ってよいでしょう。

 第二には、無から有を呼び出すだけでなく、死から命を生み出す創造のみわざだということです。神のみ言葉は造られたものたちに命を与えます。生きる意味と喜びを与え、生きる目的と豊かな実りを与えます。神の創造のみわざは、繰り返し襲ってくる死の力と戦い、死に勝利し、絶えず新しい命を注ぎ込むのです。

 第三に、バーラーで言い表される神の創造のみわざは、終わりの日、神の国の完成を目指しているということです。神の創造のみわざは何一つ途中で未完のままで終わるものはありません。神は創造された被造物をそのまま放っておかれません。造られたすべてのものは神の永遠の救いのご計画の中に、神の摂理とご配慮の中に置かれ、終わりの日の完成を約束されているのです。

 これが、ヘブライ語のバーラーの意味する内容です。その言葉が、この第6日目の人間の創造の個所で連続して3回も用いられているのです。以上のことが、特別に人間の創造にあてはめられているということなのです。

 ここでわたしたちは、創世記が語っている人間創造について、最も重要な点二つをまとめておきたいと思います。一つには、人間はすべての被造物の頭として、冠として創造されたということです。第1日目の光の創造から、第2、第3、そして第6日目前半の地の生き物たちの創造に至るまでの神の創造のみわざは、最後の人間の創造を目指していたのだということ、人間の創造によって神の天地創造のみわざが完成するのだということです。ここには、多くの神のみ心とご計画、そして神の大きな愛が込められているということを、わたしたちは聖書の中から読み取ることができますが、きょうは主イエスの二つのみ言葉を思い起こしましょう。

 一つは、主イエスが山上の説教の中で教えられていることです。主イエスは弟子たちに「空の鳥をご覧なさい。野の花をご覧なさい」と言われました。「種をまくことも刈り入れもしないのに、神は空の鳥たちを養っていてくださるではないか。働きも紡ぎもしない野の花たちを神はあんなにも美しく装っていてくださるではないか。ましてや、神の特別なご配慮と大きな愛によって創造されたあなたがた人間に、神は必要なものを備えてくださらないことなどあり得ようか。だから、何を食べようか、何を着ようかと思い煩うな。まず、神の国と神の義とを求めなさい」と主イエスは教えられました(マタイ福音書6章25節以下参照)。

 また、主イエスはこうも言われました。「わたしについて来たいと者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(マタイ福音書16章24~26節)。神が特別な愛とご配慮とをもって創造された人間の存在と命は、全世界のすべてのものよりも重たく、尊いのです。聖書は天地創造のみ言葉によって、わたしたちにそのことを教えるのです。

 二つには、実はこの方が第一に来るべきなのですが、人間は神によって創造された者であるということです。ここにも、多くの意味と内容が含まれます。人間が神によって創造された被造物であるということによって、聖書がわたしたちに語ろうとしている第一のことは、人間は神ではないし、神にはなり得ない、神以上のものではないということです。この信仰は旧約聖書の民イスラエルから新約聖書の民教会へと受け継がれてきた人間理解の根本、基本、原点です。この人間理解が他の諸宗教の人間理解とキリスト教の人間理解との決定的な違いであると言ってよいかもしれません。聖書では、天地万物を創造された主なる神だけが唯一の神であり、他のすべては、人間を含めて、神によって造られた被造物であり、いかなる意味でもそれらのすべては神ではありません。神としての地位も力も能力も持ちません。ただ、すべてのものの創造主であられる神のみ前にひれ伏し、礼拝し、服従することによって、それぞれの存在と命とを神から与えられているものたちなのです。

 聖書はまた言います。被造物が自らの被造物としての原点から離れたり、それから何らかの意味で超え出ようとしたりすることが、罪であり、神への反逆なのであると。この後、創世記2章で描かれる最初の人アダムとエヴァの罪、いわゆる原罪から始まって、聖書に描かれるすべての罪は、みなこれと同じです。人間が創造主なる神から離れ、自ら神になろうとすること、神と同じ地位や能力を持とうと欲すること、それが罪です。

 したがってまた、そのような被造物を神として崇めたり、礼拝することは、偶像礼拝の罪です。この世界にあるすべてのものは、太陽であれ月であれ、山、川、生き物、そして人間、すべては神によって造られた被造物であり、神ではなく、礼拝の対象ではありません。聖書の創造信仰に立ってみるならば、そのような偶像礼拝は全く愚かであり、神が人間をすべての被造物の頭、冠として創造されたという大きな神の愛とご配慮とを忘れ去った、それを自ら投げ捨ててしまう人間の愚かな忘恩の罪なのです。

 人間が神の被造物であるということは、26、27節で用いられている「人」という言葉にも言い表されています。ヘブライ語では「アーダーム」ですが、この言葉はここでは人間という集合名詞として用いられています。後には、3章では、最初に創造された男の個人名として用いられます。このアーダームというヘブライ語に込められている意味については、2章6節以下で具体的に語られますが、一言で説明するならば、アーダームとは、肉なる存在、土くれに過ぎず、やがて朽ち果てるほかにない弱い者という意味が込められています。

 そのような朽ち果てるほかない肉なる存在である人間は、創造主なる神から離れてはひと時も存在することができない、生きることができないという信仰が、このアーダームという言葉には込められているのです。

 では、次に26~27節のみ言葉を読んでみましょう。【26~27節】。人間が神の形に似せて創造されたということ、男と女とに創造されたということについては、別に時を改めて学ぶことにして、きょうは神がここで「我々」と言っておられることについて考えてみましょう。神はおひとりで、唯一の方ですから、ご自分のことを「我々」と言われることはあり得ないのですが、旧約聖書ではその例がいくつかあります。それを読んでみましょう。【創世記3章22節】(5ページ)。【11章7節】(14ページ)。【イザヤ書6章8節】(1070ページ)。

 これらの個所で神がご自身のことを「我々」と言われるのはなぜなのか、いくつかの理解がありますが、興味深いものを2、3挙げてみましょう。一つは、神の尊厳性、偉大さを表しているという理解です。神を意味するヘブライ語のエローヒームもエールの複数形であるということを以前にご紹介しましたが、神はご自身の偉大さ、尊厳性を強調するために、「わたしは」と言う場合、時に複数形で「我々は」と言われると考えられます。あるいは、これは神がいます天での会議の様子を言い表しているという理解もあります。神は天において、神に仕える天使たちや天の軍勢たちを従えていると考えられ、その天上での会議で神が厳かに「我々はこのように決定する」と言われているのだという理解です。さらには、これは三位一体の神を言い表しているという理解もあります。神は父なる神として、子なる神キリストとして、聖霊なる神として、ご自身の中で豊かな交わりを持っておられるので、このような言い方をするとも考えられます。

 いずれにしても、どれにも共通していることは、神は人間を創造されるにあたって、ご自身のすべてをもって、全体をもって、ご自身のすべての愛と、力と、知恵と、意志と、決断とをもって、この人間創造というみわざに取り組んでおられるのだということが、ここから理解されます。人間は神の最高の愛と知恵の結晶として創造されたのです。人間は神の最高の意志と決断とによって創造されたのです。神によって創造されている人間一人一人には、このような神の愛と知恵と意志と決断とがあるのだということを、わたしたちは忘れてはなりません。そうであればこそ、神はこの人間を罪と死と滅びから救い出すために、ご自身の最愛のみ子を十字架に引き渡されたのだということを、わたしたちは思い起こすのです。神の人間創造のみ心は、主イエス・キリストの十字架の死にまで貫かれています。

(祈り)

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