2019年9月8日(日) 秋田教会主日礼拝説教 説教題:「福音の前進のために」

2019年9月8日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:申命記26章5~11節

    フィリピの信徒への手紙1章12~18節

説教題:「福音の前進のために」

 フィリピの信徒への手紙はパウロの獄中書簡の一つです。そのことが、きょう朗読された箇所で明らかになります。【12~14節】。パウロは今主キリストのために監禁されています。「キリストのため」とは、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えたために迫害を受けてという意味です。主イエス・キリストが全世界の唯一の救い主であり、だれでも主イエスの十字架の福音を信じるならば、罪ゆるされ、救われ、神の国の民とされるという十字架の福音を宣べ伝えために、パウロは捕らえられ、獄につながれています。

パウロを訴えた人たち、迫害している人たちがだれであるのかは、この手紙からははっきりしませんが、使徒言行録やパウロの他の手紙から推測すれば、二つの勢力が考えられます。一つには、ユダヤ教の指導者たちです。ユダヤ教では、罪びとである人間が救われるのは、神の律法に従い、律法の一つ一つを守り、神の要求に応えることによってであると教えます。けれども、パウロが語る主キリストの福音はこうです。「だれも律法をその一つをも完全に守ることはできない。ただ主キリストの十字架の福音を信じるなら、その信仰によってすべての人は救われる。なぜならば、主キリストが罪びとたちに代わって神の律法のすべてを完全に成就されたから。それによって、信じる人をすべての罪から解放してくださったから」。このパウロが語る主キリストの福音は、ユダヤ教からみれば律法を軽んじ、神を冒涜するものだと考えられました。それが、パウロが、また初代教会がユダヤ人から迫害を受けた理由でした。主イエスご自身も同じ理由からユダヤ人指導者たちによって十字架へと引き渡されました。

もう一つは、ローマ帝国の指導者たちです。パウロが宣べ伝えている新しい宗教は、ローマ皇帝の権威を傷つけるもの、国家に反逆するものだと考えられました。「ローマ皇帝カイザルだけが全世界の主であり、すべての民はこの主のもとにひれ伏さなければならない。けれども、キリスト教はカイザル以外に主がいると教えている。国家の秩序を乱す新しい宗教は禁止されねばならない」。それがもう一つのキリスト教迫害の理由でした。パウロの時代以後、紀元1世紀の終わりからは、ローマ帝国による国家的な迫害が初代教会を大いに苦しめるようになりました。

ところで、パウロがどこの町で監禁されていたのかについても、確かなことはわかっていません。13節に「兵営全体」と書かれていますが、この兵営という言葉は、ローマの都にある皇帝の親衛隊の兵舎を指す場合も、あるいは地方都市にある総督の官邸を指す場合もあり、パウロの監禁場所がローマであるのか、エフェソかカイサリアか、特定できません。

いずれにしても、パウロはここから「わたしの身に起こったこと」を語りだします。パウロは自分が今どのような状態にあるのかをフィリピ教会のみんなに知ってもらいたいと願っています。というのは、フィリピ教会が獄中のパウロを心配して教会員のエパフロディトを派遣し、支援物資などの贈り物を届けてくれたので、それに対するお礼とともに、パウロの今の様子をフィリピ教会に伝える必要があると考えたからです。エパフロディトの派遣と贈り物については2章19節以下と4章10節以下に詳しく書かれています。

パウロはここで自分の身に起こったことを語っているのですが、しかしその内容は、パウロ自身のことというよりは、彼が宣べ伝えている主キリストの福音のことです。彼は主キリストの福音を宣べ伝えたために捕らえられ、獄につながれ、裁判を受けています。しかし、そのような彼自身の境遇のことを語ろうとしているのではなく、そのことが主キリストの福音の前進となったということ、そのことをこそパウロはフィリピ教会のみんなに知ってもらいたいのだと語っているのです。

12節の「かえって」という言葉の内容について考えてみたいと思います。パウロが当初予想していたこと、つまり、自分が獄に捕らえられることによって、福音を語る機会が失われるのではないか、福音の停滞になるのではないかという彼自身の不安や恐れに反して、しかし実際にはそのことが彼の予想に反して福音の前進となったという意味に理解できます。二つには、フィリピ教会の人たちがパウロのことを心配し、投獄されたことによって彼自身の気力や体力が低下したり、彼の福音宣教の働きが妨害されることになるのではないかという不安に反して、あるいは、一般的に、迫害を受けて獄につながれれば、だれであってもそのように思うであろうという予想に反して、「かえって」パウロの投獄が福音の前進となったとパウロは言うのです。

どうしてそのようなことが起こったのでしょうか。13~14節にその理由が書かれています。3つにまとめましょう。第一には、パウロが監禁されているのは主キリストのためであるということがローマ帝国の兵営に勤務するローマの官憲たち全員に知れ渡るようになったからです。彼らはローマ皇帝を主と崇め、ローマ皇帝に仕えている人たちです。しかしながら、今自分たちの管理下にあるこの男、パウロという人物は、ローマ皇帝以外にキリストと言われる方が全世界の主であると主張し、そのキリストのために自らの命を懸けて証しているではないか。彼らは今までに聞いたことがない、予想したこともない新しい教えに驚かざるを得ません。

第二には、兵営の外にいるこの町の人々も、パウロの裁判の席に連なり、パウロがなぜ捕らえられ、裁判を受けているのかを知ることとなったということです。エルサレムで十字架につけられ処刑された主キリストが、三日目に復活し、すべての人たちの罪の贖いとなってくださった、すべて信じる人たちに新しい永遠の命を約束していてくださるということを、この町の人々もパウロの裁判と証言によって聞くことができたのでした。

第三には、パウロが捕らえられている町の周辺に建てられている教会やその他の信仰の仲間たちが、パウロが法廷で力強く証している様子を知り、またそれによって主キリストの福音がローマ帝国の至る所で語られている事実を見て、主キリストの福音の力、広がり、豊かさを実感するようになった。そして、落胆したり、沈黙したりすることなく、以前よりももっと大胆に、勇敢に福音を語るようになったというのです。

神がなさる救いのみわざは人間の予想をくつがえし、それをはるかに超えて進みます。主キリストの福音は人間と世界のあらゆる妨害や抵抗にもかかわらず、前進していきます。神の言葉は決してつながれてはいません。

次に、15節からはもう一つの福音の前進のことが語られます。【15~18節】。この個所は前の14節と関連しています。14節で「兄弟たちの中で多くの者」と言われていたのは、「善意でキリストを宣べ伝える者」(15節)、また「愛の動機からそうする者」(16節)のことであり、数としてはその方が多いのですが、そうでない者たちもいくらかはいた。その人たちは「妬みと争いから」(15節)、「自分の利益を求めて、獄中のパウロを苦しめようという不純な動機からキリストを宣べ伝えている者たち」(17節)である。しかし、たとえそうであっても、いずれの場合にも主キリストの福音が宣べ伝えられているのであるから、わたしはそれを喜んでいる、とパウロは語っています。パウロはここで、人間たちの不純な、悪意に満ちた行動からでも、主キリストの福音はなおも力強く前進していくのだという事実を見ています。

初代教会においては、使徒パウロが福音宣教の中心的な働き人でしたが、パウロとそのグループ以外にも、エルサレム教会の指導者であった12弟子のひとりペトロや雄弁な説教家として知られていたアポロといった伝道者たちが各地を巡り歩いて福音宣教のために仕えていました。その中の一部のグループはパウロに対抗意識を持ち、自分たちの伝道の範囲を拡張しようとする熱意のあまり、ときにはパウロを敵対視したりしていたのではないかと推測されます。彼らにとっては、パウロが獄に捕らえられたことは、自分たちの勢力を広げる良い機会と考えていたようです。

そのことは、獄に捕らわれているパウロにとっては、心を痛めることであり、彼の苦しみをより大きくすることであることは言うまでもありません。同じ伝道者として、パウロに同情したり、獄中のパウロを何らかの形で支援したりすることが求められているのにもかかわらず、彼らの福音宣教の動機は妬みや争いであり、不純で悪意すら感じられます。

けれどもパウロはそのことに対して腹を立てたり、怒ったりしてはいません。彼自身の個人的な感情によってそのことをとらえてはいません。パウロはひたすらに主キリストの福音そのものに目を向けています。主キリストの福音そのものの力、その中にある命、それが持っている豊かさを信じています。そして、悪意や嫉妬から福音を宣べ伝えている人たちがいるとしても、そこで主キリストの福音が宣べ伝えられているという事実にこそ注目するのです。

もちろん、パウロは偽りの福音が語られたり、福音の真理がゆがめられる場合には、決してこれに妥協することはありませんでした。厳しくその誤りを指摘します。たとえば、この手紙の中では、【3章2節】、また【18~19節】。パウロは他の手紙の中でも、繰り返して、偽りの福音との激しい戦いをしています。

けれども、この場合には、不純な動機からであっても、あるいはそこにパウロに対する嫉妬心や競争心、または敵対心があったとしても、パウロは「それが何であろう」と言います。パウロはそのような個人的な感情に捕らわれて、彼らを批判したり、その働きをやめさせようとはしません。いや、むしろ喜んでいるのです。自分に向けられている悪意や敵意をすらも主キリストの福音のゆえに受け入れ、そのことが福音の前進になっていることを喜ぶのです。ある人はこういいます。「主キリストはその使者たち、仕え人たちよりも偉大である」と。また「主キリストの福音はその宣教者たちを超えて、みずからが圧倒的な力を発揮する真理である」と。

わたしたちもまたそのことを信じるべきであり、信じてよいのです。わたしたちが主キリストの福音のために仕えるとき、神はわたしたちの小さな奉仕をも、あるいは時として欠けや破れの多い働きをも、豊かにお用いくださいます。そのことを信じて、どんな困難や険しい道があろうとも、主キリストの福音の力と豊かさを信じ、パウロと共に喜んで福音宣教のためにお仕えしていきましょう。

(祈り)

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