9月15日(日)説教「主イエス誕生の予告」

2019年9月15日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:サムエル記下7章8~17節

    ルカによる福音書1章26~38節

説教題:「主イエス誕生の予告」

 ルカによる福音書は洗礼者ヨハネの誕生と救い主、主イエスの誕生とを互いに関連づけながら語っています。きょうもそのことに注目しながら、30節以下のみ言葉を学んでいきたいと思います。【30~31節】。これは、ザカリアに告げられた洗礼者ヨハネの誕生予告の13節に対応しています。【13節】。いずれも、神の奇跡によって、神の大きな恵みによって、子どもが与えられるはずがない二人の婦人から、男の子が生まれると予告され、またその子の名前があらかじめ告げられます。

 当時の習慣によれば、生まれて8日目に、男子であれば割礼の儀式を行い、父親が名前を付けます。ところが、この二人の場合にはそうではありません。生まれる前に神によってすでにその名前が決められているのです。親は、この子が将来このような人間に成長してほしいという願いを込めて子どもに名をつけます。それと同じように、否それ以上に、ここには名づけ親であられる主なる神の強い意志と深いみ心が示されているのです。イエスという名は、「神は救いである」という意味です。神は、ご自身がイエス「神は救いである」と名づけられたご自身の独り子によって、実際に全人類を、わたしたちすべての人間を、罪と死と滅びから救い出されるというみわざを成就し、完成してくださるのです。わたしたちがこの救い主、主イエスのお名前を信じ告白するならば、この主こそがわたしの唯一の、永遠の救い主であると信じ告白するならば、わたしたち一人ひとりにも神の強い意志と深いみ心が働き、神の救いのみわざがわたしにとって現実となり、成就するのです。

 32、33節では、主イエスがどのような方であるのかが語られています。【32~33節】。この個所も15~17節と対応しています。洗礼者ヨハネの場合には、彼の先駆者としての役割、すなわち彼の後に来られるメシア・救い主のために道を整え、人々を救い主を迎えるために準備させるという役割でしたが、主イエスの場合は、彼こそが神のみ子であり、神の救いのご計画を成就し、完成されるということが強調されています。

 「いと高き方」とは神のことです。つまり、主イエスが神のみ子であると言われています。洗礼者ヨハネは「神のみ前に偉大な人」となると15節にありましたが、主イエスは神のみ子です。ヨハネは最も近くで来るべきメシアを預言し、証ししているゆえに人間の中で最も偉大な人ですが、彼は人間です。メシア・救い主ではありません。ヨハネはただひたすらに来るべきメシア・救い主を証し、このメシアのためにお仕えすることによって、彼に神から託された尊い務めを果たすことができるのです。彼はのちに、3章16節でこのように告白しています。【3章15~16節】(106ページ)。

 主イエスは神のみ子であり、神の独り子であり、その務めは、父ダビデの王座を受け継ぎ、その王国を永遠に支配するであろうと言われています。これは、主イエスこそが旧約聖書全体が預言しているメシア・救い主であり、イスラエルの民が待ち望んでいた永遠なる神の国の王であるということです。地上の王国を支配する王は、どれほどに偉大であっても、永遠であることはできません。地上の王国には終わりがあります。けれども、神の国の王である主イエスのご支配は永遠に続きます。主イエスは罪と死とに勝利する王だからです。復活して永遠の命に生きておられる王だからです。主イエスは永遠なる神の国で、神の民のために愛と救いの恵みとをもってお仕えくださり、またその民を治められます。地上の王たちは権力や武力によって民を治め、支配し、民によって仕えられることを喜びとします。けれども、神の国の王であられる主イエスは、民のためにお仕えくださることを喜びとされ、民のためにご自身の命を十字架におささげくださるほどに、ご自身の民を愛される王です。権力や武力によって支配する王国はやがて倒れます。けれども、愛によって互いに仕え合う王国は豊かに祝福され、永遠に続きます。主イエスはこのような永遠なる神の国を完成される王としてこの世においでになったのです。

 「神は彼に父ダビデの王座をくださる」と書かれているのは、いわゆる「ダビデ契約」の成就です。サムエル記下7章12~13節を読んでみましょう。【12~13節】(旧約聖書490ページ)。これが預言者ナタンによって語られた「ダビデ契約」と言われる神の契約です。旧約聖書の民イスラエルはこの神の約束を信じて、やがてダビデ王家から永遠の王であるメシア・油注がれた王・キリストが出現することを待ち望んでいました。今や、その約束の成就のときが来たのです。

 主イエスがダビデ王家に連なるダビデの子孫であるということは、母親のマリアの側から確認することはできません。36節によれば、マリアは洗礼者ヨハネの父である祭司ザカリアの妻エリサベトと親類関係にあったと書かれていますので、もしかしたらマリアも祭司家系に属していたということが考えられますが、ダビデの家系だとは言われていません。主イエスの父ヨセフは27節でダビデ家に属すると書かれていますし、3章23節以下の系図でもそうなっています。また、マタイ福音書1章の系図でもヨセフはダビデの家系に連なっています。主イエスは父ヨセフによってダビデ家に連なっているということは確認できますが、しかし、ヨセフは主イエスの誕生には人間として全く関与していませんから、つまり主イエスはマリアがまだヨセフと一緒になる前に、聖霊によって主イエスを身ごもったのですから、厳密に言えば、人間的な血縁関係としてはダビデの家系に連なっているとは言えないことになります。

 そうであるとしても、主イエスはヨセフとマリアの子としてお生まれになったと聖書は告白しています。ローマの信徒への手紙1章3節で、「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ」とパウロは書いています。神はこのようにして、ご自身の永遠の救いのみわざを、人間の思いや肉のつながりをはるかに超えて、しかもそれをお用いになって、不思議な仕方で、実現されたのです。

 神の救いのみわざの不思議さは、ダビデ契約の実現の過程にも見ることができます。神がダビデ王とこの契約を結ばれたのは紀元前10世紀の前半、主イエス誕生のおよそ1000年前でした。しかも、ダビデ王家は紀元前587年のエルサレム滅亡で完全に途絶えてしまいました。神は切り倒され、ほとんど死にかけていたダビデの木の切り株から、奇跡によって、新しい芽を生え出させるようにして、その契約を成就されました。主イエスの誕生には、いくつもの神の奇跡が重なっています。

 では次に、主イエス誕生の中での最も大きな奇跡である「おとめマリアからの誕生」についてみていきましょう。わたしたちが礼拝で告白している『使徒信条』では、「主は聖霊によって宿り、処女(おとめ)マリアから生まれ」と告白していますが、この告白は主にルカ福音書のきょうの個所とマタイ福音書1章18節以下のみ言葉に基づいています。【ルカ福音書1章34~35節】。【マタイ福音書1章18節】(1ページ)。

いわゆる「処女降誕」という告白は主イエスの十字架の福音と密接に結びついているということを見落としてはなりません。「処女降誕」という奇跡だけを十字架の福音から切り離して取り上げても正しい理解を得ることはできません。その両者の関連を考えてみましょう。

 マリアは婚約していたヨセフと一緒になる前に聖霊によって身ごもり、神の奇跡によって、神のみ子主イエスを生むであろうと35節に予告されています。そして次の36節では、マリアの親類エリサベトも神の奇跡によってすでに身重になり、6カ月になっていると言われています。この二つの神の奇跡による子どもの誕生は、旧約聖書に記されている神の奇跡による子どもの誕生、年老いたアブラハムとサラの子イサクの誕生や、イサクの子ヤコブの誕生、あるいは預言者サムエルの誕生と共通しています。それらの子どもの誕生は、人間的には子どもが授かる可能性が全くないときに、ただ神からの一方的な憐れみと恵みによって、無から有を呼び出だし、死から命を生み出す神の奇跡のみ力による誕生でした。主イエスの誕生は、それらのイサク、ヤコブ、サムエル、そして洗礼者ヨハネという一連の神の奇跡による子どもの誕生の、いわば頂点にあるのです。

 しかも、イサクからヨハネに至る子どもの誕生は、人間の営みが全くなかったわけではありませんが、主イエスの誕生の場合には、マリアもヨセフも人間的なかかわりが全くなく、いわば100パーセント神の奇跡なのです。マリアは34節で、そのような神の奇跡に驚きをもって答えています。「どうして、そのようなことがあり得ましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」。そこには人間の関与は一切ありません。これは神の奇跡の中の奇跡です。神は命を生み出す可能性が全くないところに、新しい命を創造し、しかも最も尊く、光輝き、すべての命の源となる命を、創造されるのです。

 このような奇跡によって誕生した人は、その命の源をすべて神に由来しているゆえに、その人の生涯全体も神のものであり、神にささげられます。これが奇跡による誕生の意味であり、目的です。その人の命は神の恵みによって与えられたのですから、その人は与えられた命を神に感謝して、神に仕える生涯を歩む者となるのです。主イエスのご生涯は、この点においても、アブラハムの子イサクから洗礼者ヨハネに至るまでの奇跡によって誕生した人たちの頂点に立っています。主イエスはそのご生涯を父なる神にお仕えし、最後にはその尊い命そのものを、わたしたち罪びとの罪をあがなうための供え物として、与え主であられる父なる神におささげになりました。

 「処女(おとめ)マリアから生まれた」という信仰告白のもう一つの重要なポイントは、主イエスは、人間の営みが一切なく、聖霊なる神のみ力によって誕生された聖なる神のみ子であるということです。この点においては、洗礼者ヨハネやイサクとは全く違っています。彼らは神の奇跡によって誕生し、生涯神に仕えましたが、しかし彼らは罪びとたちの一人でした、。生涯を神にささげ、神の救いのみわざのために仕えましたが、自らは罪びとであり、他の人を罪から救う力をもってはいませんでした。

 しかし、主イエスは聖霊なる神のみ力によって誕生された神のみ子です。聖なる、罪なき方です。わたしたち人間のすべての弱さや貧しさを知っておられ、ご自身もすべての試練や苦難を経験され、わたしたち罪びとの一人となられましたが、罪なき神のみ子として、それらのすべてに勝利されました。そのような聖なる神のみ子だけが、わたしたち人間の罪を贖い、罪から救うことができます。

 最後に、主イエス誕生の予告を聞かされたマリアの反応についてみてみましょう。【38節】。マリアにとってこの奇跡は信じがたいことでした。あり得ないことでした。しかし、そうであるにもかかわらず、マリアは神のみ言葉を信じます。ただ信仰によって、神のみ前にひれ伏し、神のみ言葉の成就を待ち望む者となりました。ここに、マリアの祝福された道があります。神の約束のみ言葉を聞きつつ、その成就に向かって進み行くマリアの幸いな信仰の歩みがあります。

(祈り)

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