9月29日(日)説教「主キリストにある生と死」

2019年9月29日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書40章1~11節

    フィリピの信徒への手紙1章19~26節

説教題:「主キリストにある生と死」

 パウロの「獄中書簡」また「喜びの書簡」と言われるフィリピの信徒への手紙を続けて学んでいますが、1章18節に「喜ぶ」という言葉が2度用いられています。この二つの「喜ぶ」という動詞は日本語の翻訳でははっきりしませんが、文法的に言えば、前の喜ぶは現在形で、今喜んでいるという意味で、後の方は未来形で、これからもずっと喜び続けるであろうという意味です。4節で最初に出てきた「喜び」は名詞形ですが、「いつも喜びをもって祈っている」と言われています。

これらの3つの「喜ぶ、喜び」の言葉の用い方からも推測できるように、パウロがこの手紙で語っている喜びは、わたしたちが日常で感じる喜びとは何か違う、特別な喜びであるように思われます。パウロの喜びは、いつでも、どのようなときでも、変わることのない喜びであり、今がどのように困難であれ、これからどんな困難が予想されるとしても、それでもなおも決して変わらない喜びなのです。つまり、パウロの周囲を取り巻いている現実やパウロ自身の現実には全く左右されない喜びなのです。その喜びは、わたしたちがすでに聞いてきたように、この地上でわたしたちが経験したり見たり聞いたりしている喜びではなく、天から、天の父なる神から与えられる喜びなのであり、したがってその喜びは、地上のいかなるものによっても変化したり消えたりすることがない永遠の喜びなのです。

そのようなパウロの特別な喜びを、きょうの礼拝で朗読された19節以下のみ言葉からも、わたしたちは聞くことができます。18節の前の方の今喜んでいることの内容は、18節までに書かれていたことを指し、後の方のこれからも喜ぶであろうと言われていることの内容は19節以下で書かれていることを指すと考えられます。

そのような理解から、ある翻訳では、18節の最後の文章「これからも喜びます」、直訳すると「それだけでなく、わたしは喜ぶであろう」となりますが、ここから新しい段落にしているものがあります。ちなみに、今日の聖書につけられている章や節の区分、段落などは、最終的には宗教改革時代に定着しましたが、元来のヘブライ語とギリシャ語の原典にはそれらはありませんでした。日本語訳の口語訳聖書でも新共同訳聖書でも18節のところに段落はつけていませんが、英語やその他の翻訳では、「それだけでなく、わたしは喜ぶであろう。というのは……」から新しい段落が始まるようにしているものがいくつかあります。

では、前の方の、今喜んでいることの内容を、前回学んだ箇所ですが、それをもう一度確認しておきましょう。一つは、パウロが迫害を受けて捕らえられ、公の裁判が開かれることになり、パウロが証言台に立つことによって、その町の役人たちや市民たちの多くが、主キリストの福音について聞く機会が与えられた、そのことをパウロは喜んでいるというのです。第二には、パウロが獄に拘束されるようになったために、他の伝道者の中には、自分たちの伝道の機会と範囲がより広げられるチャンスだと考え、パウロに対する競争心をより強くしている人もいるが、パウロはそのことをも喜ぶと言います。いずれの場合も、パウロ自身にとっては、とても喜びであるはずのないことが、しかしそれにもかかわらず、主キリストの福音の前進になっているのだから、わたしは喜んでいる、とパウロは言うのです。パウロの喜びは、彼自身が今経験している迫害、束縛、苦難、恐れ、不安、彼に対する妬みや敵対心、それらのすべてを超えて、それらのすべてを貫いて、彼を喜びで満たしています。それが、天の神から与えられている主イエス・キリストの福音からくる喜びなのです。

次に、後の方の「それだけでなく、わたしは喜ぶであろう」の内容は、19節の「というのは」以下によって説明されています。ここには、これから将来にわたってもパウロが喜び続けることの理由が書かれています。その理由は、「このことがわたしの救いになる」からです。このこととは、パウロの投獄が予想に反して福音の前進になったということ、それがパウロ自身の救いになるからだというのです。パウロの投獄と福音の前進、それが彼自身の救いになることとはどのように結びつくのでしょうか。

そのことを考えるうえで重要なポイントは、「あなたがたの祈り」です。フィリピ教会は獄中のパウロのために熱心に祈り、また支援の物資を送り届けるために教会員のエパフロディトを派遣しました。パウロもまたフィリピ教会のためにいつも祈っていることが4節と9節に書かれていました。パウロとフィリピ教会とは祈りによって固く結ばれています。そこには聖霊なる神が働くからです。キリスト者の祈りには聖霊なる神が執り成してくださり、祈りの霊と祈りの言葉とを授け、祈りが確かに聞かれるという確信をお与えくださり、さらには祈りによる交わりを与え、時と場所を超えて祈る群れを一つに結びつけてくださいます。獄中にあるパウロとフィリピの町にある教会とが祈りによって一つに結び合わされ、それによってフィリピ教会はパウロの福音宣教の働きに具体的に参加しているのです。福音宣教によって迫害され、獄につながれ、この世の悪しき勢力と信仰の戦いをしているパウロの戦いに、フィリピ教会も共に祈りによって参戦しているのです。ある人は、「祈りは、使徒パウロと教会との共同戦線である」と言っています。パウロは30節でこのように言います。【30節】。

そして、そのことこそが、パウロ自身の救いになるのだと彼は言うのです。この世の悪しき力や迫害や試練によっても、主キリストの福音は決して後退せず、神の言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれず、それゆえに主キリストの教会もまた迫害や試練を乗り越えて前進していく希望が与えられている。そのことを、パウロとフィリピ教会との祈りによる共同の戦いによって証ししている。それによって、獄中のパウロの信仰はいよいよ強められ、救いの確信が与えられている。多くの教会とキリスト者にとっても、福音の前進のときとなり、福音宣教の機会となる。だから、わたしはこれからもずっと喜び続けるのだとパウロの言うのです。たとえ、この後の判決で死刑を言い渡されることになろうとも、わたしはそれを喜ぶであろうとパウロの言うのです。

【20節】。「恥をかかず」とは、神のみ前でという意味です。主キリストの僕として、証し人として、その務めを果たし得ないで、神からの恥を受け、神に裁かれ、見捨てられることが決してないようにというのが、パウロの切なる願いだというのです。もし、神のみ前で恥を受けるのならば、この世でどれほどの誉れを受けても、それが何になるでしょうか。しかしもし、人間から受ける恥を恐れて主の証し人であることをためらうならば、神からの恥を受けなければならないでしょう。わたしたちが神からの恥を受けないことを願うならば、すなわちどのようなときにも神のみ言葉の証人として語り続けるならば、人間のどのような辱めの中でも、固く立って倒れることなく、喜び続けることができるでしょう。

さらに20節の後半では、より積極的に自分の生と死、生きることと死ぬこととを通して、主キリストが崇められることこそがわたしの唯一の願いであり、希望であると言います。パウロは今生と死の瀬戸際にいます。どんな人間にとっても、生きるか死ぬかという分岐点に立たされるということは、重大で深刻な事態であることは言うまでもありません。ある人は生きることをすべてに優先させて考えます。そして、自分が生きるために、かなりのことをすることができます。人はまたある時には、生きることよりも死ぬことに意味を見いだすこともあります。彼にとって死はおそらくは何の価値もないに違いないのに、それでも生きるよりは死ぬ方がまだましだと思えるから、彼は生きることを捨てて死ぬことを選びます。かつて、生と死とを真剣に考えた劇中の人物は「生きるべきか、それとも死ぬべきか、それが問題だ」と叫びました。

しかしながら、パウロにとっての生か死かは、彼自身のための選択なのではありません。彼自身の価値判断とか、彼自身の願いとか、彼自身の利益のための選択なのではありません。彼の生と死によって主キリストが崇められること、そのことだけがパウロの切なる願いであり希望なのです。パウロの生死は、もはやここでは重要ではありません。主キリストが崇められるということの中では、彼の生死の問題はどちらでも構わない小さなことになっています。パウロが死の判決を受けて死ぬことになろうとも、あるいは無罪放免になってさらに宣教活動を続けることになろうとも、そのどちらであっても、彼にとってはどちらでも構わない。そこで主キリストのみ名が崇められ、主キリストの福音が前進すること、それがパウロにとっての最大の関心事であり、目指すべき目標なのです。

人がもし自分の名誉を守ることとか自分の正義のためとかを第一に考えている場合には、彼の生死を天秤にかけて、どちらを選ぶべきか迷うでしょう。しかし、パウロにとっては、彼の生死の二つを一緒にしても、それよりもさらに重いものがあると告白しています。それが主キリストです。パウロの生死がそれよりもはるかに大きく重い主キリストの中に包み込まれていることを、彼は知っています。だから、パウロは生きることからも死ぬことからも自由にされています。生きることへの執着からくる人間の欲望から、生きるつらさや苦しみからも、そして死の恐怖からも、生きることに絶望して死を選ぶ誘惑からも、自由にされています。主キリストにある信仰者の生と死は、人間を本当の意味で自由にするのです。

ただし、主キリストにある生と死は、どちらも意味がないから、どちらでも構わないということではありません。その逆であって、人が主キリストにあって生きることと死ぬことから自由にされたときには、その両方が共に、それまでとは違った、より積極的で大きな意味をもってくるようになります。

【21~26節】。パウロはここで生と死の二つの道のどちらを選ぶべきか迷っています。しかしそれは、どちらが自分にとって好ましいか好ましくないかということを問題にしているのではなく、またどちらも意味がないからというのでもなく、そのどちらもが有益であり、望ましい道だからです。パウロのこの迷いは、生と死のはざまに立たされている人の不安や恐れや思い煩いによる迷いではなく、喜びながらの、主キリストにある信仰者の迷いです。このような両方が共に望ましい二つの道の板挟みや迷いならば、わたしたちもぜひとも経験したいものです。

パウロは23節で、わずかに彼自身の願いを言います。彼にとっての死は、最後の終わりでも敗北でもなく、主キリストと永遠に共にいることであり、その方を望んでいると言います。たとえ獄中で殉教の死を迎えることになっても、それは彼にとって少しも恐怖ではなく、むしろ望ましいと言います。死は彼を支配していません。死は主キリストの復活によって勝利に飲み込まれてしまったからです。主キリストによって死のとげは抜かれてしまったからです。主キリストにある死は、勝利への入り口だからです。

でも、24節以下でパウロは肉のうちにとどまり、生きながらえることもまた、あなたがたのためにはもっと必要だとも言います。24節以下では、「あなたがた」という言葉が繰り返されています。パウロが自分のためにこの道を選ぶのではありません。わたしのための生ではなく、わたしのために生きるのではなく、あなたがたのために生きる生、命がここにあるのです。

主キリストにある死を信じる信仰者には、そして死の恐れや不安から解放されている人には、新しい積極的な生の道が開かれます。「生きているのはもはやわたしではない。主キリストがわたしのうちに生きておられる」(ガラテヤの信徒への手紙2章20節参照)という生があります。主キリストがわたしたちのためにお生まれになり、わたしたちのために生きられ、わたしたちのために十字架で死なれ、そしてわたしたちのために復活されたゆえに、わたしはこのよみがえられた主キリストのために生き、主キリストによって生かされている他者のために生きるという、新しい生を与えられているのです。

(祈り)

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