10月13日(日)説教「神のかたちに似せて創造された人間」

2019年10月13日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記1章26~31節

   エフェソの信徒への手紙4章17~24節

説教題:「神のかたちに似せて創造された人間」

 神は天地創造の第6日目に、すべての被造物の最後として人間を創造されました。神は人間が生きるために必要な舞台をすべて整えてから、人間を被造世界の頂点として、全被造物の冠として、創造されました。そこには、人間に対する神の深い愛と特別な配慮があるように思われます。そして、このことの中に、わたしたちがきょうの礼拝で学ぼうとしている神の像、すなわち、人間が神のお姿に似せて創造されたというキリスト教教理の中心的な意味が含まれています。

 創世記1章26~27節にこのように書かれています。【26~27節】。このみ言葉から、キリスト教会は「神の像」という教理を形成しました。ラテン語では「イマゴ・デイ」と言います。「神の像、イマゴ・デイ」の教理は、神の創造に関する教理である創造論の中での重要な教えであるだけでなく、人間の罪に関する教えである堕罪論、あるいは、人間の救いに関する教え、救済論とも深く関連しています。それらとの関連を考えながら、神の像、人間が神のお姿に似せて創造されたとはどういうことなのかをご一緒に学んでいきましょう。

 まず、27節に「創造された」という言葉が3回続けて用いられていることに注目しましょう。以前にも1章1節で学びましたように、「創造する」、ヘブライ語で「バーラー」という言葉は、神が主語のときにしか用いられない特別な用語であり、これは、神がみ言葉をお語りになることによって、その創造的な力強い命のみ言葉によって、無から有を呼び出だすようにして、死から命を生み出すようにして創造されることを強調しています。これは、神だけがなさる、なすことがお出来になる、特別な創造のみわざのことです。人間やこの世のものには限界があり、不可能があります。けれども、神にはできないことは一つもありません。神のみ言葉には不可能はありません。神がお語りになるとそのようになり、神がなさることはすべて完全です。神は全能であり、永遠であり、完全です。わたしたちはそのような神のみ言葉を信じるようにと招かれているのです。

 その特別な用語である創造するという言葉が、1章1節の後しばらく保留されていたのですが、この日、第6日目の人間創造の日に、3回も続けて用いられるということから、わたしたちはここからも人間創造に対する神の特別なみ心を読み取ることができます。第6日目の人間創造によって、神の創造のみわざは最終目的に達したと言えます。

 次に、26、27節に、「かたどり」と「似せて」という言葉が用いられています。しかも、「かたどって」が3回も続けて用いられています。非常に強調されています。人間だけが、他の被造物ではなくてただ人間だけが、神にかたどって、神に似せて創造されたということが何重にも強調されているのです。ここでもまた、人間創造に対する神の特別なみ心が言い表されているのです。では、その神の像とは何か。それを探っていきましょう。

 「かたどって」と「似せて」は、元のヘブライ語でも違った言葉ですが、両者の意味の違いがあるのかどうかについては、意見が分かれます。わたくしは違いはないと考えてよいと思いますが、ローマ・カトリック教会では違うと考えます。そして、そのことが人間の罪と救いの教理にも微妙に影響してきます。神のみ言葉に背いて罪を犯した人間は、神の像をどの程度失ったのか、またそれをどのようにして回復するのかという議論が展開されます。このことについては、後ほど触れることにします。

 では、神の像とは具体的に何か。どのような点で、人間は神に似ているのか。そこに神のどのようなみ心があるのか? 2千年のキリスト教会の歴史の中で、またそれ以前のユダヤ教、イスラエル宗教の中で、多くの学者が、さまざまな角度から、この問いに対する答えを見いだそうと研究を重ねてきました。ある学者が数えたところによれば、その答えは二百数十にものぼると言います。皆さんも是非考えてみてください。わたしたち人間が他の生き物とは違って、ただ人間だけが神のかたちに似せて創造されている、その人間だけに備えられている神のかたちとは何か?

 その答えは大きく二つの種類に分類できます。一つは、外見上の姿、形、あるいは目に見えるかたちでの人間の能力において神に似ている点。二つには、精神的、抽象的な意味での類似点。前者の代表的な答えのいくつかを紹介してみましょう。ある人は、人間が二本の足で立って歩く、二足歩行の姿が神に似ていると考えました。あるいは、頭があり、手と足が二本あり、目、耳、鼻、それらの体の機能をうまく使いながら細かい運動や作業をする能力があること、道具を器用に活用できる能力、あるいはまた、複雑な言語で互いに情報を交信したり、高度な文化や技術、科学を発達させる能力があることを挙げる人もいます。

 けれども、それらの外見上の類似点は、確かに人間にだけ与えられている優れた能力であることは認められるとしても、それが神のかたちであると言うには決定的な説得力に欠けると言わざるを得ません。なぜなら、そもそも聖書で証しされている神は、人間の目に見られる何らかの形を持っておられる神ではなく、また、モーセの十戒の第二戒で、神の存在を刻んだ像で表現してはならないと命じられているからです。神ご自身の外形は人間にはわからないのですから、神と人間の外見上の類似点は比較されようがありません。

 二つ目の精神的、抽象的な類似点で第一に挙げられるのは、人間には理性や悟性が備わっているということです。他の生き物はすべて本能のままに行動するのに対して、人間は本能を理性でコントロールし、自分と周囲とを総合的に判断して行動することができる、この点において人間は神に似ていると考えます。あるいは、だれかを、何かを愛する、同情する、悲しみや喜びを表現する、感情や心を持っている、等々。そういったことも、他の生き物にはない、人間独自の優れた点であると言えるかもしれません。しかし、まだ決定的な答えであるとの確証はありません。

 近年の神学者は、今まで挙げたような哲学的、動物学的なアプローチではなく、聖書のみ言葉そのものから理解しようとしています。28節に、【28節】と書かれています。ここから、人間が他の被造物、宇宙や自然界、生き物を治め、統治する務めを神から委託されていることに注目して、神が人間をも含めたすべての被造物を治めておられ、それらの主権者であられるように、人間はこの地上にあって、天の神からその統治権を委託されている、それが神のかたちであると理解することができます。詩編8編の詩人もそのようにとらえていたと推測できます。【4~9節】(840ページ)。人間は地上での神の代理者として、神が創造されたこの世界を神のみ心に適って治めるという尊い使命、課題を与えられているのです。それによって、人間は天地万物を創造された神の栄光をこの世界で具体的にあらわし、証ししていく務めを果たすのです。

 もう一つの近年の神学者の理解を紹介します。それは、27節のみ言葉そのものの中に答えを見いだすことができると考えます。つまり、神のかたちに、神に似せて創造されたとは、すなわち、男と女とに創造されたことであると理解します。神は人間を男だけではなく、また女だけでもなく、男と女という、一対の人間として創造された、それが神のかたちであるという理解です。神ご自身、孤独な存在ではなく、父なる神、子なる神、聖霊なる神として、三位一体なる神として、ご自身の中で豊かな交わりを持っておられるように、人間もまた一人の個としての人間ではなく、互いに交わりを持ち、共に生きる人間として、連帯的人間として創造されている。しかも、男と女という違った性質をもった人間が、その違いを保有しつつ、その違いを認め合いつつ、尊重し合いながら共に生きる連帯的人間として生きる。そこに、神のかたち、神の像があるとその神学者は言います。この理解にわたしたちは最も共感できます。

 以上、神の像とはなにかという問いに対する答えをいくつか紹介してきました。それらのいずれもが、人間がいかに神の大きな愛と深いご配慮によって、他のすべての生き物よりもはるかに勝る者として創造されているかを強調し、表現しようとしていることが分かります。人間はサルや犬と同じものとして創造されたのではありません。空の鳥や野の花と同じものとして創造されたのでもありません。主イエスご自身が福音書の山上の説教で教えられたように、それらのすべてよりもはるかに価値あるものとして創造されているのです。それらよりもはるかに大きな神の愛と恵みとを与えられているのです。実に、神のみ子の十字架の尊い血によって贖い取られた人間たちなのです。わたしたちはそのことを知らされ、そのことを神に感謝し、ただ神の義と神の真理とを求めて生きるように、神が他のすべての必要を満たしてくださることを信じ、神の国の到来を信じて生きるようにと招かれているのです。

 では最後に、神の像の教理を人間の罪、堕罪論、また人間の救い、救済論との関連で少し考えてみたいと思います。ローマ・カトリック教会は、26節の「神にかたどって」と「神に似せて」とを区別して理解します。前者は、人間に生まれながらに与えられている特別なもの、それが他の生き物と人間とを区別しているのですが、たとえば理性とか、知性とかであり、これは罪によっても人間から失われていない。後者は、神との霊的な交わりを可能にするものであり、またそれによって形造られる神に似た姿のこと、これは罪によって失われたが、神を信じて洗礼を受けることにより回復されると教えています。

 そこから、人間が救われるためには主イエス・キリストの福音を信じることと同時に、人間の良きわざもまた必要であると教えます。罪によっても神の像の一部は失われていないと理解することによって、どこかに人間の可能性を残そうとする意図が感じられます。

 それに対して、宗教改革者は両者を区別せず、罪によって神の像は完全に失われてしまったと考えました。人類全体が、また一人の人間全体が、全的に堕落していると理解しました。それゆえに、人間の中には救いのかけらもなく、ただ神の恵みによってのみ、主イエス・キリストの十字架の福音を信じる信仰によってのみ救われるという、福音信仰を確立したのです。人間に少しの可能性を残すことによってではなく、主イエス・キリストの福音にすべての救いの恵みがあるとすることによってこそ、確かで完全な救いがあると、宗教改革は教えました。わたしたちの教会はその信仰を受け継いでいます。

 新約聖書では、罪によって神の像を完全に失ってしまった人間は、まことの神の像であられる主イエス・キリストによって、神に似たものとされると教えられています。コリントの信徒への手紙二4章4節では、キリストは神の似姿であるとあり、またコロサイの信徒への手紙1章15節でも、み子は見えない神の姿であると書かれています。神の像はみ子主イエス・キリストにこそ最も鮮やかに現わされました。わたしたちは主イエス・キリストを救い主と信じる信仰によって、主イエスのお姿に似たもの(ローマの信徒への手紙8章29節)とされていき、エフェソの信徒への手紙4章24節で教えられているように、「神にかたどって造られた新しい人」に再創造さていくのです。

 ここにおいてこそ、人間が神の像に似せて創造されたことの神のみ心と意図がはっきりしたように思われます。すなわち、わたしたちが神を礼拝し、神のみ言葉を信じ、主イエス・キリストの福音によって救われているという福音を聞いて信じることがゆるされている、これこそが人間に与えられている神の像であり、最も尊い神の賜物というべきです。

(祈り)

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