10月27日説教「マリアの賛歌」

2019年10月27日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:サムエル記上2章1~11節

    ルカによる福音書1章46~56節

説教題:「マリアの賛歌」

 ルカによる福音書1章46節以下は「マリアの賛歌」と言われています。ラテン語訳聖書の冒頭の「あがめる」という言葉から「マグニフィカート」と呼ばれ、古代から教会音楽の中で歌われてきました。きょうはこのみ言葉から、主イエスの誕生の意味と主イエス・キリストによって与えられた救いの恵みについて聞いていきたいと思います。

 【46~47節】。このマリアの賛歌は、すぐ前のエリサベトの祝福の言葉に対するマリアの応答として歌われています。前の場面で、洗礼者ヨハネの母となるエリサベトと主イエスの母となるマリアとの出会いが描かれていました。その中で、二人の母になろうとしている婦人の胎内にいる洗礼者ヨハネと救い主・主イエスとがすでに出会い、あいさつを交わしているという驚くべき出来事が起こっていることをわたしたちは聞きました。そのときエリサベトは42節以下でこのように告白します。【42~45節】。このエリサベトの信仰告白に対するマリアの応答としての信仰告白が46節以下のマリアの賛歌です。

 日本語の翻訳では、45節と46節との間に数行の空間が設けられ、46節からのマリアの賛歌が独立してあるような印象を受けますが、これもまだ二人の婦人の出会いの場面の続きです。神に選ばれて、全世界の救い主・主イエスの母となろうとしているマリアが聖霊によって身ごもったことの確かなしるしとして、すでに神の奇跡によって洗礼者ヨハネを身ごもっている親族のエリサベトと出会い、二人の胎内にいるヨハネと主イエスとが出会うという出来事を通して、45節に書かれているように、「主なる神のみ言葉が必ず実現すると信じた人の幸い」をマリアはここで歌っているのです。マリア自身は、自分のおなかの中に新しい命が芽生え始めたという自覚はまだ全くないけれども、親族エリサベトにすでに起こっている奇跡を見て、まだ実現していない神の約束のみ言葉を信じた、それがマリアの幸いなのです。まだ見ていない事実を確認すること、それがマリアの信仰なのです。

 したがって、46節以下のマリアの賛歌は、まだ起こっていない神のご計画、まだ成就していない神の救いのみわざが、すでに起こっている確かな事実であるということを告白しているのです。わたしたちもまた、マリアの賛歌のみ言葉を聞いて、「神がお語りになったみ言葉が必ず成就する」と信じる、幸いな信仰へと招かれています。

 賛歌の冒頭で、「わたしの魂は、わたしの霊は」と繰り返していますが、これは強調する言い方です。わたしの心も体も、わたしの全身で主をあがめる。わたしの全存在をもって、わたしの全生涯を貫いて、わたしの生活全体を通して、わたしの命をかけて、主なる神をあがめ、喜びたたえるという意味です。これこそが、神の奇跡によって救い主の母になろうとしているマリアがなすべきことです。

 「あがめる」とは大きくするという意味を持っています。「主をあがめる」とは、主なる神だけを大きくし、他のすべてを小さくするということであり、わたしを含めてわたしの周囲にあるすべてのものを、主なる神のみ前で限りなく小さくするということです。特に、わたし自身を主なる神のみ前に小さくする、自らを貧しくし、謙遜になる。そして主なる神だけをあがめ、喜びたたえる。そうすることによって、すべての良きものを主なる神から期待し、神が最も良き道をわたしのために備えてくださることを信じ、神の約束のみ言葉がすべて成就することを信じる。それが、神の奇跡によって救い主の母になろうとしているマリアがなすべきことです。またそれが、主イエス・キリストの救いに招かれているわたしたちがなすべきことです。わたしたちが自らを小さくし、低くすればするほどに、神はわたしたちによってあがめられるようになり、また神から与えられる恵みと祝福は豊かになり、神からの幸いに満たされるようになるのです。

 47節でマリアは神を「救い主」と呼んでいます。ここには二つの意味が含まれています。一つは、マリアは救い主を必要としている罪びとであるという告白です。マリアは全世界の唯一のメシア・救い主である主イエスの母となるために神によって選ばれました。それゆえに、42節にあったように、「女の中で祝福された方」であり、マリア自身も48節で、「今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう」と歌っていますが、しかし、彼女が祝福された人であるのは、彼女の胎内に宿っている神のみ子・救い主なる主イエスが祝福された方であるからであって、彼女自身に何らかの優れた点があったからでは全くなく、むしろ彼女自身は38節と48節で「わたしは主のはしためです」、わたしは貧しく低きに住む者、罪びとに過ぎませんと繰り返し告白しているのです。このようなマリアの謙遜な信仰こそが、彼女を祝福された、幸いな人としているのです。

 「救い主」のもう一つの意味は、マリアがあがめ、喜びたたえている神は救いの神であるということです。もちろん、マリアにとってそうであるだけではありません。全世界のすべての人にとって、わたしたちにとっても、神は救いの神であり、わたしたちを罪から救ってくださる神であるからこそ、主イエスの父なる神は人々によってあがめられ、喜びたたえられるのです。わたしたちが信じている主イエス・キリストの父なる神は救いの神です。他の何らかの神ではありません。商売繁盛の神とか、地の豊作をもたらす神とか、健康や交通安全の神とか、そのような類(たぐい)の神ではありません。そのような神々は、一時的に、一部の人に、あがめられることがあるとしても、すべての人にとっての永遠なる、そして唯一の神ではありません。わたしたちが全生涯を貫いて、わたしの全存在をもって、わたしの命をかけてあがめるべき神は、わたしたちを罪と死と滅びから救い出される神であり、そのために独り子なる主イエスをこの世にお送りくださり、その尊いみ子を十字架の死に引き渡されるほどにわたしたち罪びとを愛してくださる救いの神、この神をこそわたしたちはあがめ、喜びたたえるべきです。また、そうするようにと招かれています。

 次に、マリアは神をあがめる理由を具体的に語ります。【48~50節】。「身分が低い」とは、マリアの社会的な地位の低さ、あるいは経済的な貧しさを指していると思われます。マリアは26節にあるようにガリラヤ地方のナザレの町の出身の、おそらくは農家の娘でした。神はそのようなマリアをみ心にとめ、メシア・救い主の母としてお選びになったのです。

 当時、ガリラヤ地方は多くの異邦人(ユダヤ人以外をこう呼ぶ)が住み、民族と宗教の純粋性を重んじるユダヤ人からは異邦人の地と呼ばれ(イザヤ書8章23節、マタイ福音書4章15節参照)、軽蔑されていました。神はイスラエルの首都であったエルサレムの都に住む、王家の娘とか、宗教家、政治家の娘ではなく、低く貧しいナザレのマリアをお選びになったのです。ここに、51節以下で語られる大いなる逆転が、すでにマリア自身の選びの中で起こっていることに気づかされます。【51~53節】。

 神はマリアを救い主の母としてお選びになることによって、そして、このマリアからお生まれになる主イエスの誕生によって、この世界とわたしたちの人生に、大いなる逆転を起こしたもうのです。神を恐れることなく、思い上がる者たちや、自らを誇っている傲慢な者たちが主なる神のみ力によってその所から追い散らされ、この世の権力にしがみついている者たちはその座から引き下ろされ、富に頼る者たちが空腹のままで追い返されるということが起こり、反対に、身分の低い人、この世で誇るべきものを何一つ持たない人が神の所にまで引き上げられ、飢え、乾き、ひたすらに神を慕い求めるほかにない人が、神から与えられる最も良きもので満たされるという、大きな逆転が起きるのです。このことについては、後でまた触れることにしましょう。

 48節でマリアは、彼女自身に大きな逆転が起こったのは「主がわたしに目を留めてくださったからだ」と告白しています。目を留めるとは、神がみ心にかけてくださり、顧みてくださったということです。だれも目を留めることがないような、小さく貧しいものに、神は目を留めてくださいます。人間の目は多くの場合、大きなもの、高いもの、華やかなものに向けられます。そうでないものは見捨てられ、時に目を背けられます。けれども神の目は隠されているもの、この世にあっては虐げられているもの、低きにあるものに注がれます。そのようなものを神は見いだしてくださるのです。神の目には何も隠されてはいません。そして、そのようにして神の目によって見出された人こそが、いつの世にあっても幸いな人と言われるのです。

 48、49節ではマリア個人に与えられた神の恵み、慈しみについて歌われていますが、50節からはイスラエルと全世界のすべての人に与えられる神の恵みと慈しみが歌われます。マリアの信仰は旧約聖書の民イスラエルから、新約聖書の民教会へと受け継がれます。それは、マリアの胎内に宿っておられるメシア・救い主であられる主イエスが、旧約聖書の民イスラエルによって長く待ち望まれ、新約聖書の民教会によってその救いの福音が全世界に告げ知らされていくことに似ています。

 【50節と54節】。「神の憐れみ」とは、神の恵みと同様に、それを受けるに値しない人に無償で与えられる神の愛に満ちたご配慮のことです。それゆえに、だれもがマリアのように、神への大きな感謝と恐れとをもってそれを受け取るほかにありません。神を恐れ、神のみ前に自らを低く貧しくする人こそが、いよいよ豊かな神の恵みと憐れみとを受け取ることがゆるされるのです。

 わたしたちはだれもが神の憐れみを必要としています。マリアは今はまだ年が若く、貧しいけれども、やがて成長して豊かになり、神の憐れみを必要としないときがくるというのでは決してありません。いやむしろ、信仰の道を進めば進むほどに、礼拝の回数を増せば増すほどに、頭に白髪が増えるごとに、いよいよ神の憐れみを必要としている自分であることを悟り、神の憐れみなしにはきょうの一日がないことを知って、神を恐れる人となる、そのような信仰へとわたしたちは招かれているのです。

 最後に、51~53節で歌われていた大いなる逆転について、それがいつどのようにして起こるのかを考えてみましょう。先にわたしたちは、マリアの選びの中ですでにそのことが起こっていると言いましたが、そのことが決定的に起こるのは主イエスのご生涯と十字架の死によってであるということを付け加えなければなりません。

 主イエスはルカ福音書6章の弟子たちへの説教の中でこのように言われました。【6章20節b~26節】(112ページ)。主イエスは幸いがないところに天の神からの幸いを創り出してくださいます。しかし、この世の幸いを求め、それで満足する者からは神は遠ざかるほかありません。

 もう一か所を読んでみましょう。【フィリピの信徒への手紙2章6~11節】(363ページ)。これこそが、神が起こしたもうた最も偉大なる逆転です。この主イエス・キリストの十字架の福音を信じる人に、神は滅びから救いへ、死から命への大いなる逆転の恵みをお与えくださるのです。

 (祈り)

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