11月3日説教 「土のちりで造られた人間アダム」

2019年11月3日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記2章4~9節

    コリントの信徒への手紙二4章7~15節

説教題:「土のちりで造られた人間アダム」

 創世記1章1節から2章3節までに、一連の神の創造のみわざが描かれています。第一日目の光の創造に始まって第6日目の人間の創造までで天地万物が創造され、第七日目を神は安息日とされ、造られたすべてのものを祝福されました。これで、神の天地創造のみわざは完了しました。

 ところが、きょうの礼拝で朗読された2章4節以下では、新たに人間が土のちりで造られたということが語られています。これはどういうことなのでしょうか。きょうは初めにこのことについて少しお話ししたいと思います。

 今日の聖書の研究の結果から明らかになったことをいくつかご紹介します。一つは、創世記には二つの、多少ニュアンスの違った創造の記録があるということを、今日ほとんどの聖書学者は認めています。さらには、1章1節から2章3節までと2章4節から3章の終わりまでは二つの違った天地創造の記録であるけれども、しかし全く別々のことを語っているのではなくて、一つの神の創造のみわざを違った視点から語っているのであって、これによって神の創造のみわざの意味と意図、み心、神の救いのご計画が、より深く、より信仰的に、より神学的に語られているのだということで聖書学者の意見は一致しています。

 もう一つ付け加えておくならば、これは旧約聖書の民であるイスラエルの長い信仰の歴史の中で伝承されてきた資料の違いに由来しているということです。その資料の見分け方ですが、第一の天地創造の記録では、神は単に「神」と表記されています。1章1節から2章3節まではすべてそうなっていることが確認できます。この第一の天地創造の記録は、非常に整えられた文体と構造で描かれており、よく考え抜かれた神学的な内容になっています。これはエルサレム神殿で仕える祭司階級の学者が集め、編集した資料であり、祭司資料と呼び、英語のプリーストの頭文字を取ってP資料と呼びます。

それに対して、第二の創造の記録では「主なる神」となっています。2章4節からすべてそうなっていることが分かります。日本語で「主」と訳されている箇所には神のお名前が書かれているのですが、今日神のお名前をどう発音するのかが分からなくなってしまったので、神のお名前が書かれている箇所は「主」、ヘブライ語では「アドナイ」ですが、そう読むことに決められています。これをJ資料と呼びます。神のお名前をヤーヴェと推測して、その頭文字を取っています。J資料は前のP資料と違って、文体はのびのびとしており、簡潔で生き生きとした表現によって神学的に深い内容が言い表されているという特徴があります。それぞれの資料には特徴がり、そこに描かれている神のお姿と強調されている神学的内容の違いがあり、それによって旧約聖書の信仰がより深く、より幅広く表現されているのです。

 そうしますと、2章4節の2行目は「主なる神」が主語になっていますので、これはJ資料ということになります。4節の1行目は、前の創造の記録の締めくくりと理解して、P資料とするのが一般的です。

 では、【4節b~6節】。この第二の天地創造の記録では、一日目、二日目という区切りはありません。また、人間を除く他の被造物が1日目から6日目の前半までに創造されて、最後に人間が創造されるという第一の創造の記録とは順序も違っているように思われます。第二の天地創造の記録では、まだ何も造られていないときに、7節に書かれてるように、人間が最初に創造されています。人間が造られた後で、9節になって木を生えさせられ、10節で川の流れができ、19節以下で野のけものや空の鳥などの生き物を神はお造りになります。

 このように、第一の創造の記録と第二の創造の記録は大きな違いがあるように思われますが、そこで語られている中心的なこと、神が天地万物と人間を創造された深いみ心は、全く一致していることをわたしたちは確認することができます。すなわち、第一の創造の記録では、人間はすべての被造物の頂点として、その頭として、最後に創造されており、また、人間はすべての被造物を治め、管理する務めを神から賜っており、そこには人間に対する神の深い愛とご配慮、永遠の救いのみ心が語られていましたが、第二の創造の記録では、人間はすべての被造物の中心に置かれており、人間を中心にして他のすべての被造物が造られていきますが、ここでも人間はすべての被造物を治め、管理する務めを神から賜っています。神はこれほどまでに人間を愛され、み心に留められ、神のみ前で、神と共に生きる者として、神のみ前で責任ある者として創造されたのだということが、同様に強調されていることが分かります。

 5節の最後に、「また土を耕す人もいなかった」と書かれています。人間の存在なしには、地上の生き物と他のすべて被造物の存在もない。それほどまでに、神は人間に特別に深く大きな存在の意味をお与えになったのであり、人間を被造世界の中心に据えておられ、人間の存在と命を全世界よりも重いものとされ、この人間の救いのために神はすべての愛を注がれるのだということが、この創造の記録から読み取ることができます。

 【7節】。第一の創造の記録では、1章26節に書かれていたように、「我々にかたどり、我々に似せて人を造ろう」と神は言われて、神のみ言葉に言い表された強い神の意志と神の決意によって人間は創造されたということが強調されていましたが、第二の創造の記録ではむしろ人間が創造された際に用いられた素材の貧しさが強調されているように思われます。人間は土のちりで造られました。ここではどのような神の人間創造の意図が語られているのでしょうか。

 まず、第一の創造の記録と第二の創造の記録に共通していることを確認しておきましょう。それは、いずれも神が人間を創造されたということです。神が人間の造り主だということです。人間は偶然にこの世に生まれ落ちたのではありません。両親の所有物として生まれたのでもありません。国家のためとか、家の働き手のためとか、少子化を防ぐためとかに生まれるのでもありません。神がそのように望まれ、神の意志と決意のもと、神にその命の根源を持ち、神がその命と存在の主である者として、すべての人間は創造され、今あるのです。このことは、戦争やテロや飢餓によって多くの命が無意味にあるいは無残にあるいは無造作に失われていく時代の中にあって、また人間の命が他の何かと比較されては軽々しく投げ捨てられていく時代の中にあって、本当の意味での人間の命の尊厳さや重さや尊さを思い起こし、再確認するために、決して忘れてはならないことです。他のどのような思想であれ、信条であれ、宗教の教理であれ、聖書が語っているこのこと、すなわち神がすべての人間の命と存在の創造主であり、所有者であるという真理を超えるものはないのだということを、わたしたちキリスト者はもっと力を込めて発言し、証ししていかなければなりません。人間の命と存在は、だれのものでもなく、わたしのものでもなく、造り主なる神のものなのだということを、わたしたちは厳粛な思いで告白しなければなりません。

 ここで語られている第二のことは、人間は土のちりで造られたということです。ここには、ヘブライ語の言葉遊び、語呂合わせがあります。ヘブライ語で人間は「アーダーム」と言います。現在用いられているモダン・ヘブリュー(現代へブライ語)では長母音は原則ないので、新共同訳では「アダム」と書いてありますが、聖書のヘブライ語では長母音がありますので、正確には、人間は「アーダーム」、土は「アダーマ―」と発音します。人間は土「アダーマ―」から造られたゆえに人「アーダーム」なのです。またそれゆえに、3章19節に書かれているように、罪を犯して神の命の息を失ってしまった人間は、人「アーダーム」であるゆえに土「アダーマ―」に返るほかないのです。

 旧約聖書の民イスラエルの人々は、人間とは何者かを考える際に、人間「アーダーム」と発音する時にはいつも、土「アダーマ―」を同時に思いおこしたのです。人間は土から造られた者に過ぎず、やがて死んで土に返っていくほかない弱く、はかなく、貧しいものであるということを決して忘れませんでした。そうであるからこそ、命の息を吹き入れて人間を生きたものとしてくださった造り主なる神から決して離れることなく、神との生きた交わりを持ち続けるためにはどうしたらよいかを深く、真剣に考えたのでした。

 「塵」とは、日本語でも「ちりあくた」という言葉があるように、無価値なもの、ごみやほこりのようなもの、取るに足りないつまらないものを言い表しています。人間はそれ自体としてはこのようなものに過ぎません。人間にはいかなる誇るべきものも称賛されるべきものもありません。人間は神ではありません。神にはなり得ません。人間は土のちりから造られ、やがて土に返っていく者です。このことをわたしたちは何の幻想も抱かず、何のごまかしもなく、そしてまた決してそのことを隠すことなく、あるいはまた決して恥じることもなく、造り主なる神のみ前で認めるべきですし、認めてよいのです。神はそのような人間に、ご自身の命の息を吹き入れ、生きた者としてくださるのです。

 「形づくる」という言葉は、陶器師(土で器を作る人)が粘土を手でこねながら器を作っていく動作を言い表しています。また「鼻から命の息を吹き入れられた」と書かれています。あたかも神がかがんで人の鼻にご自身の口をつけられ、息を吹き込まれるかのようなリアルで生き生きとした表現が、ある意味で人間の動作に近いような表現が用いられています。これがJ資料が描く神の大きな特徴です。神はこのようにして、非常に具体的な動作をなさりながら、直接にご自身の手をかけながら、ご自身の思いを込めながら、人間を創造されたのです。

 7節の終わりに、「人はこうして生きる者となった」とあります。土のちりから造られた人間が、神の命の息を吹き入れられ、その朽ちていくしかない肉の体に神の霊が注入されることによって、人間は初めて生きる者となるのです。人間の命は直接に神の命の息である霊が人間の中に吹き入れられた命なのです。その命は100パーセント神から与えられた命であり、神に属する命なのです。人間の自由によって処理されるべきでは決してありません。また、神の命の息によらなければ、だれも本当の命を生きることはできません。

 人間は土のちりから造られた者であり、神によって命の息を吹き入れられて生きる者となるという人間理解は、旧約聖書全体に貫かれており、また新約聖書にまで貫かれています。使徒パウロはコリントの信徒への手紙一Ⅰ5章45節で、創世記2章7節のみ言葉に触れながら次のように語っています。【45(「最後のアダム」とは主イエス・キリストのこと)~49節】(322ぺーじ)。土に属し、死んで朽ち果てるほかないわたしたちが、主イエス・キリストの十字架と復活を信じる信仰によって、天に属する霊の体をお持ちの主キリストの似姿に変えられていくと約束されています。

 また、コリントの信徒への手紙二4章7節以下では、土の器であるわたしたち人間に永遠の命のみ言葉である主キリストの福音が託されていることを、使徒パウロは驚きをもって語っています。【7~11節】(329ページ)。これは何という大きな恵みでしょうか。土に属する者であるわたしたち人間に、この取るに足りない小さきもの、貧しきもの、滅ぶべき者に、全世界の人を罪から救う命のみ言葉である主キリストの福音を託され、持ち運ぶ使命が与えられているとは。  (祈り

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