11月24日説教「洗礼者ヨハネの誕生」

2019年11月24日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記17章9~14節

    ルカによる福音書1章57~66節

説教題:「洗礼者ヨハネの誕生」

 ルカによる福音書1章から、わたしたちはこれまでに二人の子どもの誕生予告について聞いてきました。一人は、年老いて子どもがいなかったザカリアとエリサベトに神の大きな恵みと奇跡によって与えられるであろうと約束された洗礼者ヨハネです。【13節】。もう一人は、婚約中でまだ一緒になる前のヨセフとマリアに神の聖霊と奇跡によって与えられるであろうと約束されたメシアなる主イエスです。【30~31節】。

 そして、きょう朗読された最初のみ言葉で、ザカリアとエリサベトに語られた神の約束が成就し、彼らに男の子が誕生したということをわたしたちは聞きます。【57節】。では、もう一方はどうなるでしょうか。あらかじめ、2章を先取りして、それを確認しておきましょう。【2章6~7節】。ヨセフとマリアに語られたもう一つの神の約束が成就し、彼らに男の子が誕生したと書かれています。このように、神の約束は必ず成就します。神が語られたみ言葉は一つとしてむなしく消えることはありません。預言者イザヤが言うように、雨が天から降って地を潤し、芽を出させる。それと同じように、神の口から出るみ言葉も神が望み給うことを成し遂げ、神がお与えになった使命を必ず果たすのです(イザヤ書55章8節以下参照)。

 57節に2章6節でも同じですが、「月が満ちて」と書かれています。これは、妊娠の期間が満ちて、出産の時が来たという意味のほかに、神の約束の時が成就したという意味も含まれています。というのも、この男の子は神の約束によって与えられ、誕生した子だからです。神がザカリアとエリサベトにお語りになった約束の時が到来し、それによってエリサベトの妊娠の期間が満ち、神が約束された子どもの出産の時が来たのです。神の約束のみ言葉を聞き、その成就の時を信じて待ち望む人は、決して空しく待つことはありません。必ずやその時が満たされ、約束の成就の時を迎えます。それによって待ち望んでいる信仰者もまた喜びと感謝に満たされるのです。

 ある人は教会を妊娠している婦人にたとえています。教会は神の約束のみ言葉を聞き、終わりの日の神の国が完成される日、救いが完成され、永遠の命が与えられる時を待ち望みながら生きている信仰者たちの群れです。それはちょうど、胎内に子どもを宿し、出産の時を待つ婦人と同じだというのです。妊娠した婦人は日々に新しい命の鼓動を強く確かに感じながら、出産の時が確かに近づいて来ていることに喜びと希望を抱きながら、月が満ちるのを待ち望んでいます。それと同じように、わたしたち教会の民も、神の約束のみ言葉を聞きつつ、胎内に子どもを宿しているように、そして確かに約束の成就の時が近づいて来ていることを確信しつつ、「主よ、来たりませ」と祈りながら、時が満ちるのを待ち望んでいるのです。それゆえに、神の約束のみ言葉を聞きつつ待ち望むわたしたちの待望の時は決して空しく終わることはありません。その時は必ずや満たされます。

 次に【58節】。ザカリアとエリサベトの年老いた夫婦の喜びが、その家庭内にとどまらずに、多くの人々の喜びになりました。それというのも、彼ら夫婦の喜びが彼ら自身の力や能力で獲得した喜びとか、偶然に手に入れた喜びとかではなく、主なる神の大きな慈しみによって与えられた、天からの、神の奇跡によってもたらされた喜びであるからです。人間が自分の力で手に入れることができる地上の喜びには、その背後に争いや妬みや傲慢を伴いますが、またそれはやがて悲しみや不安に変わりますが、天からの、神からの喜びは、無限に大きく、永遠に続き、共に喜び合う群れを形成していきます。教会は神から与えられた永遠の救いの喜びを共にし、それゆえにまた悲しみや痛みや重荷をも喜んで共にする人たちの群れなのです。

 実は、このザカリアとエリサベト一家とその周辺に広がった喜びは、後で2章に描かれているクリスマスの喜びの反映であり、主イエスの誕生の喜びの照り返しであるのだということを、わたしたちはあらかじめ確認しておきたいと思います。【2章10~11節】(103ページ)。ザカリアとエリサベト夫婦に与えられた子どもヨハネが、来るべきメシア・キリストである主イエスのために道を整える務めを持ち、主イエスを証しし、指し示し、主イエスのために仕える働きをすることによって、主イエスと密接につながっている人物であるゆえに、クリスマスの大きな喜びがここにすでに差し込んできているのです。

 59節から、生まれてから8日目の割礼と命名の儀式のことが記されています。旧約聖書の律法に定められているように、イスラエルの家に生まれた男子は、生まれて8日目に、神の契約の民の一人であることのしるしとして、男性の生殖器の一部に傷をつける割礼と、命名の儀式を行いました。その二つは重要な儀式として、親戚や近所の人たちが多く家に集まってきて行われます。その時に、不思議なことが起こりました。

 名前を付けることは父親の務めでした。けれども、父親のザカリアは20節に書かれていたように、神の約束のみ言葉を信じなかったために、神の裁きを受けて、口がきけません。みんなの前で子どもの名前を発表することができません。そこで、親戚や近所の人たちが父親の代役を果たそうとします。彼らは父親と同じようにザカリアという名にしようと相談しました。ところがその時、妻のエリサベトが立ち上がります。「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と、彼らの考えに反対を表明します。

 ここで、最初の不思議なことが起こりました。当時のイスラエルは男性中心の社会で、公の場での女性の発言はほとんど認められていませんでした。子どもの名前を付ける権利もありませんでした。そうであるにもかかわらず、エリサベトは多くの男たちの前ではっきりと自分の意見を述べています。しかも、多くの男たちの考えに反して、またその家系に伝わる名前を子どもに引き継ぐという当時の習慣に反して、全く新しい名前、だれも思い浮かばないヨハネという名前にしなければいけないと強く主張しているのです。これは驚くべきことです。なぜエリサベトはそう言うのでしょうか。なぜエリサベトは多くの男たちに断固として反対意見を述べ、当時の社会の常識や慣習をも破って、このように言うのでしょうか。彼女をこれほどまでに大胆にさせ、勇気ある一人の人間とさせているのは、何でしょうか。

 その答えは、ただ一つ、わたしたちがすでに知っているように、エリサベトが神のみ言葉を聞き、それに従っていたからにほかなりません。13節に書かれていたように、「その子をヨハネと名付けなさい」とお命じになった神のみ言葉を、エリサベトもまた聞いていたからにほかなりません。神のみ言葉に聞き従うとき、このようにして彼女を強く立たしめ、多くの男たちに反対して、また当時の社会の慣習にも反対して、またそのような古い社会を変革していくことができる、神のみ前に立つ一人の信仰者として、エリサベトを固く、強く立たしめているのだということを、わたしたちはここから教えられるのです。神のみ言葉は、わたしたちの日常の生活やこの時代の中でも、その力と命とを発揮して、信じるわたしたちを一人のキリスト者として固く、強く立たしめてくれるであろうことを信じたいと思います。

エリサベトが神のみ言葉に聞き従って立ち上がった時に、さらに不思議なことが起こりました。【62~63節】。ザカリアは口がきけませんでした。そのために、書き板によって自分の考えを示しました。すると、ザカリアとエリサベトの意見が一致します。周囲の人々はみな驚かざるを得ません。なぜ、この夫婦はこのようなことで一致するのでしょうか。

これもまた、神のみ言葉による一致であることは言うまでもありません。二人が共に、同じ神の約束のみ言葉を聞き、共に神を信じ、共に神に従っているところに与えられる一致、ここにこそ夫婦の、そして人間と人間との真の一致があるのです。単に、考え方や趣味が同じだとか、人生観や価値観が同じだとか、あるいは性格が似ているとか、そのようなことからくる一致ではありません。そのような一致は、時が経過し、状況が変化すれば、やがて崩れていく他ありません。神のみ言葉からくる一致、共に神のみ言葉を聞き、共に神に従うことによる一致によってこそ、共に家庭や社会や国家を変革し、世の習わしや常識を打ち破って新しい秩序と共同体を形成していく力と命が与えられるのです。教会にはそのような神のみ言葉による一致を与えられています。

神のみ言葉に聞き従ったザカリアは再び語りだしました。【64節】。かつて、神の約束のみ言葉を信じることができなかったザカリアは、口がきけませんでした。イスラエルの民の祭司として、礼拝で神のみ言葉を語る務めを授けられていましたが、彼は神の裁きを受けて言葉を失っていました。しかし今、彼は神を信じる人となりました。神のみ言葉に従う人となりました。その時、彼は再び口を開き、語るべき言葉を与えられます。

彼は何を語るべきでしょうか。「神を賛美し始めた」と書かれています。他の言葉を語るために彼の口が開かれたのではありません。自分を誇ったり、だれかを非難したり、不満や不平を言うために彼の口が開かれたのではありません。そのことのために、彼の口があるのではありません。彼が語るべきは、彼に約束のみ言葉をお語りになり、その約束を確かに成就された主なる神を賛美する言葉に他なりません。この言葉を語るためにこそ、彼の口はひとたび閉ざされ、今また再び開かれたのです。ザカリアが神を賛美して語った内容は具体的には67節以下のザカリアの賛歌です。わたしたちは次回それを学びます。

わたしたちはここで、自分に何のために口が与えられ、言葉を語ることがゆるされているのか、その理由を知らされます。わたしの口が救い主なる神をほめたたえるため、主イエス・キリストの十字架の福音を語るため、そのためにこそわたしに口があり、言葉が授けられているのだということを知らされます。その時、わたしたちに与えられている口は最も良い働きをするのです。

【65~66節】。ここには、ザカリアとエリサベトの家庭に起こった不思議な出来事に対する周囲の人々の反応が描かれています。それは神への恐れであり、これから先に何が起こるのであろうかという不安と期待に満ちた問いかけです。わたしたちはここに、この出来事の6カ月後に起こるであろうあのクリスマスの出来事がかすかに暗示されているように感じるのです。年老いた夫婦の家庭に神の奇跡によって男の子が誕生したこと、神の約束のみ言葉を信じることができず、神の裁きを受けて口がきけなくなったザカリアが、神のみ言葉を信じる人へと変えられ、罪ゆるされて神を賛美する言葉を語る人とされたこと、ユダヤの地方の多くの人々がこの一家に起こった出来事を見て神を恐れ、やがて神がなそうとしておられるさらに偉大な出来事へと思いをはせていること、そのすべての出来事が6カ月後のクリスマスの時に、より確かな神の救いの出来事として成就することになるのです。すなわち、おとめマリアが聖霊なる神の奇跡によって男の子を生む、神が人となられてこの世においでくださったという大いなる奇跡が起こされる。また、その神のみ子の誕生がイスラエルのみならず、全世界すべての人々にとっての大きな喜びとなり、彼らを罪から救う出来事となる。そして、罪と死と滅びとに支配されていたこの世界が神のみ子の十字架の死と復活によって解放と勝利が約束されているという出来事が起こる。やがてわたしたちはそれらのことが成就する時を迎えるのです。

(祈り)

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