12月1日説教「エデンの園で神と共に生きる人間アダム」

2019年12月1日(日) 秋田教会待降節第一主日礼拝説教

聖 書:創世記1章4~17節

    ヨハネの黙示録2章1~7節

説教題:「エデンの園で神と共に生きる人間アダム」

 創世記2章の人間創造のみ言葉によれば、神は人間アダムを土のちりで造り、その鼻から命の息を吹き入れることによって、人間は生きた者となったと書かれています。中世初めの偉大な神学者アウグスチヌスはこのように言いました。「人間は神によって造られた者であるゆえに、造り主なる神のもとに帰るまでは、本当に魂の安らぎを得ることはできない」と。

 いったい、現代の人間は、またわたしたち一人一人は本当に魂の安らぎを得ているのでしょうか。神を失い、神なき世界で不安と孤独の中にある人間の魂、神の戒めに背き、罪びととなってエデンの園を追放され、暗黒と死の恐怖におののいている人間、そして争いと奪い合いを繰り返し、神を恐れることをしないこの世界、そこに本当の魂のやすらぎはあるのだろうか。神はこのような世界を顧みてくださるのだろうか。滅びゆく魂に救いを与えてくださるのだろうか。

 アドヴェント、待降節を迎えたこの時期に、わたしたちは世界の平和と人間の魂の平安を特に強く願い求めます。アドヴェントは本来ラテン語で「接近、到来」を意味します。日本語では待ち望むという人間の側の姿勢を言い表しますが、本来は神がこの世界に到来することを意味しています。神がこの世界に近づいて来てくださる、神がわたしたちの所に到来されるということです。神を見失い、滅びに向かっているこの世界を、そして不安と孤独の中をさまようわたしたちの魂を、神は決してお見捨てにはならず、この暗黒の世界を再びエデンの園とするために(エデンとは喜び、歓喜という意味ですが)、この世界でわたしたち人間が再び神と共に生きる喜びと平安に満たされるために、神はご自身の独り子、救い主なる主イエス・キリストをこの世界にお与えくださったのです。

 では、きょうは創世記2章8節から読んでいきましょう。【8節】。また【15節】。神は人間アダムをエデンの園に置いた、そこに住まわせたと繰り返されています。人間がエデンの園に住むことは神の強い意志であり、お導きなのです。人間は偶然にそこにいるのではありませんし、自分の意志や努力によってそこを手に入れたのでもありません。神が人間を創造されたことが神の強い意志であったように、人間がエデン・喜び・歓喜の園に住むこともまた、神の意志であり、神の大きな愛によることなのです。この神の深いみ心と大きな愛とを知り、神に感謝して神と共に歩み、神の導きに従って生きる時に、そこに本当の意味での喜び・歓喜があり、魂の平安があるのです。

 ここでもう一つ重要なポイントは、エデンの園は神がお造りになり、神が人間をそこに住まわせたのであって、それは神の所有であり、神がその園のご主人であるということです。人間はそれを自分の手で開拓したのではありませんし、それを自分の意のままに取り扱ってよいのでもありません。あるいはその中で自分の喜びを見い出したり、造り出していかなければならないのでもありません。園のご主人である神がすべてを備えてくださいます。

 そのことが、次の9節で具体的に語られています。【9節】。エデンの園では、神がすべての良きものを備えてくださいます。神はエデンの園に「見るからに好ましく、……あらゆる木を地に生えさせ」、さらに10節以下に書かれているように、豊かな川の流れによってその地を潤してくださり、人間アダムが生きるに必要なすべてを備えてくださり、彼が喜びと感謝とを持って、園のご主人である神と共に生きることができるように配慮しておられます。ここにこそ、人間の魂の安らぎ、本当の喜びがあります。

 15節によれば、神が人間をエデンの園に住まわせられたのは、人間アダムがその地を耕し、その地を管理し、守るという神から託された奉仕の務めを果たすためです。1章26節と28節で語られていたことと同じです。人間は神が創造されたこの世界とすべての被造物を治め、管理し、また美しいエデンの園を耕し、守るという神から託された務めに生きることによって、神と共にあり、神に従って生きる時に、本当の喜び、平安に生きることができるのです。

 エデンの園は具体的に地球上のどの地域を暗示しているのかということが議論されてきました。ヒントになるのが4つの川の名前です。今日までその名が知られているのは、14節のチグリス川、ユーフラテス川です。ピションとギホンは川の名前としては聖書ではここだけであり、特定することはできませんが、ピションはインダス川、ギホンはナイル川という説もあります。しかし、おそらくどこかの地域を特定する必要はないと思われます。10節の「四つの川」の四という数字は、聖書では完全数と言われ、全方向、全世界を意味していますから、エデンの園とは神が創造された世界全体と考えてよいと思います。

 エデンの園で、神と共に喜びのうちに生きる人間の最も基本的な姿が16~17節に書かれています。【16~17節】。人間がエデンの園で神と共に喜びのうちに生きるということは、具体的にはこの神のみ言葉を聞いて生きるということにほかなりません。16節の冒頭に、「主なる神は人に命じて言われた」とあります。人間は神のみ言葉を聞いて生きるべき存在です。神の命令を聞いて生きるのです。ここでは「命じて」とあり、続けて「食べなさい」も命令形ですが、神の命令は同時に許可であり、許しです。人間は神の命令によって、神の許しのもとで生きるのです。ここにこそ、人間の最大の自由があります。他の何ものによっても、あるいは自分自身によっても、生きることを制限されない、生きることと死ぬことを強制されない、「あなたは生きよ、生きてよろしい」と言われる主なる神の命令とゆるしの中で、人間は生きるのです。

 「園のどの木から……」(16節)。ここには、エデンの園で人間アダムに与えられている最大限の自由が具体的に示されています。「すべての木から取って食べなさい」。人間が生きるに必要なものすべてが神によって備えられています。人間はこの神のみ言葉を聞くとき、神からの最大限の自由の中で、その自由によって生きることができるのです。

 自由とは何か? ある哲学者は「人類の歴史は自由を求めての闘争であった」と言っています。人間はいつもみな自由を求めてきました。そのことはまた、人間はいつも自由ではなかった、いつも何かに拘束され、何かの奴隷であったということでもあります。人間はこの世の悪しき権力の奴隷にされることもあります。この世の富の奴隷になることもあります。人々の目に束縛され、自分自身の欲望に束縛されることもあります。そして、人間はだれもみな罪の奴隷です。使徒パウロはガラテヤの信徒への手紙5章で、「主イエス・キリストの十字架はわたしたちを罪の奴隷から解放し、自由にしたのだから、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」と勧めています。

 わたしたちは造り主なる神と共に生きるとき、神のみ言葉を聞いて生きるとき、本当の自由を与えられるのです。救い主・主イエス・キリストの十字架の福音を信じ、罪ゆるされることによってこそ、真の自由に生きることができます。「あなたは園のどの木からも取って食べなさい」、この神のみ言葉を聞くとき、人間は神の恵みと自由とゆるしのもとで、自由な存在とされ、真の自由の中で生きることができます。この自由はあくまでも神から与えられる自由であり、神なしで、人間が自分勝手に、気ままに生きてよいという自由ではありません。そのことは次の17節のみ言葉から明らかにされます。

 【17節】。ここには、神から与えられる自由とはどのようなものであるのかが語られています。人間は神のみ言葉の前で決断をしつつ、神から与えられた自由を選び取っていくのです。神の戒めに忠実に従って、禁じられた木の実を取って食べることをしないという決断の自由を選び取っていくのです。

 自由とは、何もしないで気ままに生きてよいという自由ではありません。もはや神さえも必要としなくなるほどに人間が自分の思いや欲望のままに生きてよいという自由でもありません。人間に与えられている自由とは、何よりもまず神のみ言葉に喜んで聞き従うという自由です。神のみ言葉に対して決断していく自由です。そのことはまた、結果的に言うならば、神のみ言葉に聞き従う自由に生きるときには、他のすべての束縛から解放されることでもあります。

 エデンの園に数多くある木の実から自由に取って食べなさいという最大の自由の中で、ただ1本の実からは取って食べてはならないというこの禁止は、人間アダムの自由を制限することになるのでしょうか。人間アダムはこのただ一つの禁止によって、「わたしには自由がない」と言って嘆くべきでしょうか。いや、決してそうではありません。むしろ、この神の禁止もまた、人間を真の自由と命へと導くための神の恵みのみ言葉なのです。と言うのは、人間はこの神の戒めに聞き従うことによって、死の危険から守られているからです。「食べると必ず死んでしまう」。だから、食べるなという神の命令は、人間を命へと導くために語られているのです。神のみ言葉はわたしたちをあらゆる死の危険から守るのです。まことの命へと導くのです。

 「善悪の知識の木」とは何かを考えてみましょう。その前に、同じように園の中央に生えていた「命の木」についても触れておきましょう。9節でその二つの木のことが語られていましたが、17節では「命の木」については何も語られてはいません。「命の木」については、のちにアダムが罪を犯した後で、3章22節以下で再び語られます。【3章22~24節】。ここでも暗示されているように、「命の木」とは、それを食べると死なずに永遠に生きることができるようになる木であるように思われます。神は2章17節では、その木の実を取って食べるなとは命じておられませんから、アダムはそれを食べてもよいし食べなくてもよかったと思われますから、そのことから推測して、エデンの園では人間アダムは本来死ぬことがない、永遠の命を与えられていたらしいと思われます。3章に入って、人間が罪を犯した後、罪びとになったアダムがいつまでも生きて、永遠に罪を犯し続けることがないようにするために、神はアダムをエデンの園から追放し、命の木から食べることができないようにされたと考えられます。

 では「善悪を知る木」とは何でしょうか。善悪を知るとは、善と悪とをわきまえるという倫理的な能力を意味するだけではなく、それをも含めて、すべての知識を言い表していると考えられます。聖書の中には、同じような用法が数多くあります。「大と小」と言えば、大きなものから小さなものまでのすべての大きさのものを言いますし、朝夕とは、一日中の意味ですし、「出ると入る」とは、家から出る時、家に入る時のすべての行動を言い表しています。「善悪を知る」とは、すべてを知る、知識の全体を知るということ、すなわち全知、全能であるということです。

 人間は「善悪の知識の木」から取って食べることは神から禁じられているのです。つまり、人間は全知でも全能でもありません。人間には限界が定められています。ただ、主なる神だけが全知全能の神であられます。そうであるゆえに、人間は全知全能の神からすべてのものを与えられ、神のみ言葉に導かれて生きるべきでありますし、生きることが許されているのです。

(祈り)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA