12月8日説教「十字架の死に至るまで従順であられた主イエス」

2019年12月8日(日) 秋田教会待降節第二主日礼拝

聖 書:イザヤ書53章1~10節

    フィリピの信徒への手紙2章1~11節

説教題:「十字架の死に至るまで従順であられた主イエス」

 フィリピの信徒への手紙2章5節にこのように書かれています。【5節】。この言葉が前半の1~4節と後半の6節以下とを結んでいます。きょうはまずこの結びつきについて考えてみましょう。1~4節では、使徒パウロは教会の一致と謙遜と互いに仕え合うことを勧めています。そして、6節以下では、主イエス・キリストがご自身を低くされ、僕(しもべ)のようになられ、父なる神のみ前で謙遜に、十字架の死に至るまで従順にお仕えになったことが語られています。この二つのことはどのように結びついているのでしょうか。

 一つは、主キリストの生き方がわたしたちキリスト者の生き方の模範、手本として示されているという理解です。これは、パウロが他の個所では「主キリストにならいなさい」と勧めていることと同じです。それとともに、ここではさらに深いつながりがあるように思われます。主キリストがそのようなキリスト者の生き方を可能にされた、そのような生き方の道を開かれたということも含まれています。つまり、主キリストが十字架の死に至るまで従順に父なる神に服従されたことによって、主キリストがわたしたちのために救いの道を開いてくださり、わたしたちキリスト者がその道へと招き入れられているということです。わたしたちキリスト者が愛の交わりによって一致を保ち、互いに謙遜と尊敬とをもって仕え合うことができるのは、主キリストの十字架の死によって罪ゆるされ、父なる神との豊な交わりの中に置かれているからなのです。キリスト者は主キリストによって開かれ、備えられた新しい存在、新しい生き方へと招き入れられているのです。

 そこで、パウロは6節以下で、主イエス・キリストの十字架について語りだします。そこに、わたしたちキリスト者の生き方の出発点、基礎、土台、そして目標があるからです。

 6節以下は「キリスト賛歌」と言われます。この賛歌は整った詩のような形式になっており、パウロの創作と言うよりは、パウロ以前の初代教会の礼拝の中で伝承されたものではないかと考えられています。全体は2部に分かれ、6~8節では、神と同じ高さにおられた主キリストが僕(奴隷)の低さにまで下られたことが語られています。これを「キリストの謙卑(けんぴ)」と言います。9~11節では、神が十字架で死なれた主キリストを高く引き上げられ、全世界、全宇宙の主とされたことが語られています。これを「キリストの高挙」と言います。この主キリストの謙卑と高挙がわたしたちキリスト者の新しい存在と生き方とを開くのです。

 では【6~7節a】。「主キリストは神の身分であったが、僕(奴隷)と同じ身分になられ、人間と同じ姿になられた」。ここでは、最も高きにおられた方が最も低きに降りてこられたと言われています。これが、わたしたちが間もなく迎えようとしているクリスマスの出来事、主イエスのご降誕の出来事の意味です。「神の身分」とは次の「神と等しい者」と同じ内容を語っています。主キリストは神と本質を同じくする神のみ子であり、世界が創造される前から神と共におられた、聖なる、永遠なる方です。

 そのような主キリストが「自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になった」という、驚くべきことが語られています。神が人となられたという、この驚くべき奇跡、これがクリスマスの出来事の意味です。主キリストは神のみ子として、本来はすべての者たちに仕えられるべき高きにいます聖なる方でしたが、しかしその権威と権利とをすべて投げ捨てられ、ご自身を空しくされて、全く何も持たない僕として罪のこの世においでになり、すべての罪びとたちのために仕えくださったのです。罪なき聖なる方が罪のこの世においでくださり、罪びとの一人となられたのです。永遠なる方が過ぎ去り滅ぶべきこの被造世界においでくださり、罪の奴隷であった人間の一人となられたのです。

 7節冒頭の「かえって」という言葉は、主キリストの最初の高い地位と彼が選び取ったのちの低い身分とをつなげています。しかも、逆説的な意味合いでつなげています。主キリストは神と同じ身分という特権を他のことのために用いるという自由を持っておられました。その特権をご自分の権力を誇り、それを行使するために用いるとか、ご自分の喜びや楽しみのために用いることもできたのでした。しかし、彼はそうなさいません。むしろ、主キリストは彼に与えられている自由を、ご自分が持つ高い地位や特権を喜んで放棄するために用いたのです。主キリストは他を支配し、他に仕えられるという特権を放棄し、むしろ罪びとたちに仕える僕の身分を選び取るためにその自由を用いたのです。彼は何かに強制されてそうしたのでは全くありませんでした。神と同じという身分をだれかによって奪い取られたのでもなく、やむなく落ちぶれて僕の身分になったのでもありません。主キリストは全き自由の中で、「ご自分を無にして」、自ら進んで自己放棄と自己を犠牲としてささげる道をお選びになったのです。

 ここで、主イエスが選び取られた自由と、最初の人間アダムが誤って用いた自由とを比較してみたいと思います。最初の人間アダムとエバは神のかたちに似せて創造され、神との豊な交わりの中で、神から与えられた恵みをほしいままに受け取る自由と権利とを与えられていました。創世記2章にはアダムがエデンの園、喜びの園で神と共に生きる姿が描かれています。ところが、アダムはこの自由と特権を、自ら神のようになろうとし、神の高きにまで達するために用いました。そして、神から禁じられていた知識の木の実を取って食べ、神の戒めに背きました。これが、原罪(オリジナル・シン)と言われるものです。神に対して罪を犯した人間アダムはそれ以後神から身を隠して、神なき世界で、罪に支配され、罪の奴隷となって生きるほかなくなったのです。人間アダムは神のみ前での自由を失ってしまいました。

 主イエス・キリストは人間が罪のゆえに失った神のみ前での自由を、ご自身が神の身分を自ら進んで放棄するという自由によって、回復してくださったのです。今や、わたしたちには主イエス・キリストによって与えられたこの真実の自由に生きることがゆるされているのです。それゆえに、すでに1~5節で語られていたように、主キリストの十字架の愛によって教会全体が一致し、自分の喜びとか自分の利益のためにではなく、他者の益のために、他者を喜ばすために、自ら進んで僕となって他者に仕えていく自由、他者を支配したり、だれかの上に立って自らの意志を実現するのではなく、むしろ自ら低くなり、貧しくなり、自らを捨てる自由、すべての人のための僕となって仕える自由、この自由に生きる道を主キリストはわたしたちのために開かれたのです。

 【7節b~8節】。主キリストの謙卑と自由、自己を捨てるという自由、僕となり他者に仕えるという自由、そして罪の中にある人間と共に住み、共に歩まれるという自由は、何と、死に至るまで貫かれました。主キリストが選び取られた自由は、彼の死によっても脅かされることがない、死を貫いていく自由、死をも超えていく自由でした。

 「死に至るまで」と言い、すぐに続けて「それも十字架の死に至るまで」と付け加え、主キリストの従順の偉大さが強調されています。十字架刑はイスラエルでは決して行われませんでした。なぜなら、旧約聖書の申命記21章23節で「木にかけられた者は神に呪われた者である」と書かれているからです。神から賜った聖なる地を汚さないように、ユダヤ人はどのような極悪人でも木にかけることはしませんでした。そうであるのに、主イエス・キリストはローマ総督ピラトによって十字架刑を宣告され、最も屈辱的で神に呪われた十字架にかけられて死なれたのでした。これは何という神のみ子の低さ、貧しさ、謙卑、自己放棄でしょうか。主キリストは神と等しくあるという栄光の座を投げ捨てて人間となられただけでなく、人間として最も低いところにまで下られ、罪びとや犯罪人の友となられ、ついには神からも見捨てられたかのように、ただお一人で黄泉(よみ)の暗闇にまで降りて行かれ、それでもなおも父なる神に全き服従を貫かれて、十字架で死んでいかれたのです。

 では、これによって神は神であることをやめたもうたのでしょうか。神のみ子は神のみ子であることをやめられたのでしょうか。あるいは、神はほんの少しの間だけ、ナザレのイエスという人間の姿に身をやつして、この地上での短い旅を終えられたということなのでしょうか。いや、そうではありません。神は主イエスとして、完全な人間となられました。死を経験するほどに完全な人間となられました。主イエス・キリストは罪びとが受けるべき死という裁きを受けるほどに完全な人間となられました。そのようにして、神は罪びとのわたしたちと同じお姿になられ、わたしたち罪びとたちと共に歩まれ、わたしたちを完全に罪からお救いくださったのです。

 8節の「へりくだって」という言葉は、3節の「へりくだって」と同じです。フィリピ教会に謙遜を勧めていたパウロにはすでに主イエス・キリストご自身のへりくだり、十字架の死に至るまで父なる神のみ心に従順に服従された主キリストへりくだりのことが目の前に描き出されていたのでしょう。わたしたち罪びとたちの救いのために、このようにしてご自身を低く、貧しくされた神、その父なる神、神のみ心に全く服従をおささげになられた主イエス・キリスト、そこにこそ神がまことの神でありたもうことの真理があり、主キリストがまことの神のみ子であられることの真理があり、わたしたち罪びとに対する限りない愛と恵みがあるのです。それゆえにまた、そのようにして開かれた隣人に対するわたしたちのへりくだりと謙遜、愛と奉仕にこそ、わたしたちキリスト者の生きるべき道があるのです。

 キリスト賛歌の後半を読んでみましょう。【9~11節】。前半では主キリストが主語になっていましたが、後半では神が主語になります。神は死に至るまで従順であられた主キリストをお見捨てにはなりませんでした。神は最も低きところに降られた主キリストを、そのまま放置なされずに、最も高きところに引き上げられました。今や、主キリストのみ名はすべてのものの上に、君臨しています。罪と死とに勝利された主として、主キリストは今や神の右に座しておられます。

 「高く」とは、この世界にあるものたちが背比べをしてその中で最も高くという意味ではなく、この世界をはるかに超えて高く引き上げられ、天にまで引き上げられたという意味です。使徒言行録1章には、主イエスが復活されて40日目に天に引き上げられる様子が描かれています。また、エフェソの信徒への手紙1章20節以下にはこのように書かれています。【20~23節】(353ページ)。

 天にあげられた主イエス・キリストのみ名は、今や全世界の教会の民によって「イエス・キリストは主である」と告白され、証しされています。それによって教会はすべてのご栄光を神に帰するのです。それによって神の救いのみわざが完成します。主キリストの体である教会に呼び集められているわたしたちはこのようにして神を礼拝する一つの群れとなり、再び来られて神の国を完成される主イエス・キリストの再臨を待ち望むのです。それがアドヴェント(待降節)もう一つの意味です。

(祈り)

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