12月15日 説教「ザカリアの賛歌―解放の預言」

2019年12月15日(日) 秋田教会待降節第三主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書40章1~11節

    ルカによる福音書1章67~80節

説教題:「ザカリアの賛歌―解放の預言」

 ルカによる福音書1章68節以下は「ザカリアの賛歌」と言われます。46節以下の「マリアの賛歌」が、その最初の言葉「あがめる」のラテン語からマグニフィカートと呼ばれるのに対して、ザカリアの賛歌は「ほめたたえる」のラテン語でベネディクトゥスと呼ばれています。この二つの賛歌にはいくつもの共通点があります。きょうはその共通点に注目しながら、ザカリアの賛歌で歌われている福音の恵みを聞き取っていきましょう。

 共通点の第一は、マリアもザカリアも主なる神をあがめ、ほめたたえているということです。【67~68節a】。マリアの場合は【46~47節】。二人とも神の恵みと奇跡によって子どもが与えられ、親になろうとしており、また親になったからです。マリアの場合には、まだ婚約中であり、ヨセフと一緒になる前に、神の霊、聖霊によって神のみ子を宿すという約束を与えられました。ガリラヤ地方の貧しいおとめが神に選ばれて、神のみ子の母になろうとしているのです。マリアはその恵みの大きさに驚きつつ、喜びの声をあげています。

 ザカリアの場合には、長い間子どもが授からず、年老いて全くその可能性が消えかかっていた時に、神の恵みと奇跡によって妻エリサベトが身ごもり、今、月満ちて男の子が誕生し、洗礼者ヨハネが生まれました。彼は最初、神の約束のみ言葉を聞いた時にはそれが信じられず、疑ったために、神の裁きを受けて口がきけなくされましたが、今は、自らの目で子どもの誕生を見たゆえに、疑うことができません。神はザカリアの疑いと不信仰を貫いて、それを超えて、ご自身の救いのご計画を進めてくださいました。そして、ザカリアは神によって不信仰を取り除かれ、今や信じる人とされ、、神にゆるされて口を開き、神を賛美し始めました。彼の口が開かれたのは、この賛美の歌を歌うためです。主なる神をほめたたえるためです。

 このように、待降節の中を歩んでいるマリアとザカリアは、すでにここにおいて、来るべき降誕節、クリスマスの大きな喜びと祝福に満たされながら、主なる救いの神を賛美しているのです。

 第二の共通点は、いずれの賛歌もそれぞれの家庭内で起こった出来事を感謝して歌っているのですが、その内容は神に選ばれたイスラエルの民全体の救いについて、いや、それのみでなく全世界のすべての民の救いについて歌っているということです。マリアの賛歌では、主なる神が貧しく低いマリアを顧みてくださり、全世界の婦人たちの中で最も幸いな婦人としてくださったこと、全世界の中で高いところにいた者がすべて低くされ、低いところにいた者がすべて高くされるという大逆転が神によって引き起こされるであろうということ、そしてそれによって、神がアブラハムとその子孫イスラエルの民にお与えになった約束を成就してくださったということをマリアは歌っています。

 ザカリアの賛歌では、前半で、主なる神がイスラエルの解放と救いをお与えになったことを賛美し、感謝しています。【68節b~75節】。マリアの賛歌では、「イスラエルと全世界における神の大逆転のみわざ」が歌われているとまとめることができるでしょう。ザカリアの賛歌では、「イスラエルと全世界における神の解放と救いのみわざ」が歌われていると言ってよいでしょう。そして、ザカリアの賛歌のもう一つの大きな特徴は、ここでザカリアは自分たち夫婦に与えられた男の子、すなわち洗礼者ヨハネのことを歌っていると予想されますが、しかしその内容の多くは、ヨハネのあとにおいでになるメシア・救い主・主イエス・キリストのことを歌っているということです。ヨハネについてはっきりと語っている箇所は76節だけであり、他のすべてはヨハネが預言し、その道を整えた後においでになる降誕節の主・イエス・キリストについてであると言ってよいでしょう。ザカリアの賛歌では主イエス・キリストによる解放と救いのみわざが賛美され、預言されているのです。

 69節の「僕ダビデの家から起こされた」とは、二つの意味を含みます。一つは、神がダビデにお与えになった契約、いわゆる「ダビデ契約」が主イエスによって成就されるということです。「ダビデ契約」とはサムエル記下7章で神が預言者ナタンによってダビデに語られた約束です。その個所をご一緒に読んでみましょう。【サムエル記下7章12~13節】(490ページ)。神はこの約束を主イエス・キリストによって成就され、永遠に神が支配される王国である神の国を来たらせてくださいます。しかも、68節に「主はその民を訪れて」とあるように、天におられる主なる神ご自身が人の子となられて、イスラエルの民の中に、この世界に、おいでになって、ダビデとの契約を成就してくださり、救いのみわざを成し遂げてくださったのです。72、73節でもこのように告白されています。【72~73節a】。73節では、創世記12章から何度も繰り返して書かれている、いわゆる「アブラハム契約」の成就が語られています。神は天地創造以来の、また族長アブラハム以来の救いのご計画を、主イエス・キリストによって成就されるのです。

 もう一つの意味は、主イエスが肉のつながりによれば、ダビデ王家の子孫だということです。1章27節に、「ダビデ家のヨセフ」と書かれていました。使徒パウロもローマの信徒への手紙1章3節で、「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ」と告白しています。ダビデ王家は、実際には、紀元前587年のエルサレム陥落とユダ王国滅亡によって、イスラエルの王家としては歴史から消えてしまいましたが、しかし神はご自身の契約を決してお忘れにならず、ダビデの切り株から、ひとたび死んだようなダビデの家から、メシア・救い主・主イエスを誕生させてくださったのです。神の解放と救いのみわざはイスラエルとダビデ王家の滅亡の歴史をはるかに超えて、全世界の中で前進していくのです。

 70節では、メシア・救い主なる主イエスの誕生は旧約聖書の預言者たちによって預言されていたことの成就であることが語られています。わたしたちは旧約聖書は預言の書、新約聖書は成就の書と表現します。旧約聖書はその全体が、創世記からマラキ書に至るまで全39巻すべてにおいて、来るべきメシア・救い主・主イエス・キリストを預言し、その到来を待ち望んでいる書であると告白しています。神のみ言葉は何一つ空しく語られることはありません。そのすべてが成就するのです。

 71節と74節に、「敵からの救い」と言われています。敵からの救いとはどのようなことをいうのでしょうか。旧約聖書を読むと、イスラエルの民は多くの敵対する国によって攻撃され、苦しめられてきたことが分かります。エジプトがまず挙げられます。アブラハムの子孫はエジプトで400年の間、寄留の民として、時に奴隷のように扱われていました。約束の地カナンに定着してからは、ペリシテ、シリア、アッシリア、バビロニア、ペルシャ、ギリシャ、そしてその当時はローマの諸国によって支配され、苦難の歴史を歩んできました。敵とは、そのようなイスラエルを苦しめた諸国を指すとも考えられますが、しかし本当のイスラエルの敵はそうではありません。もしイスラエルの民が主なる神を信頼し、神のみ言葉を信じているならば、それらの敵はイスラエルに何をなし得るでしょうか。神は彼らをすべての敵の手から守り、救い、ご自分の民として選ばれたイスラエルとの契約を必ずや実行されるであろうということを、神は預言者たちによって繰り返して語られたのではなかったでしょうか。イスラエルの最も力強い味方として、いつの時にも主なる神が与えられていたのではなかったでしょうか。神がイスラエルの味方であるならば、諸国はどれほど強い武器を持っていようとも、イスラエルの敵にはなり得ません。

 イスラエルの敵とは、彼らの不信仰であり、神に対する背反であり、偶像礼拝であり、罪であると言うべきです。それこそが、イスラエルを滅びへと導く最も恐ろしい敵なのです。したがって、敵の手からの救いとは、罪からの救いに他なりません。77節以下の後半でそのことがはっきりと語られます。

 76節は、直接洗礼者ヨハネについて語られている箇所です。【76節】。これはすでに1章14節以下で語られていた内容と一致しています。ザカリアに生まれる洗礼者ヨハネは来るべきメシア・主イエス・キリストを預言し、指し示し、主イエスのために仕えます。そこにこそ、ヨハネの人間としての偉大さがあります。ヨハネは旧約聖書の預言者の列の最後に立ち、最も近いところでメシア・キリストを預言し、また最も近いところで来たりたもうたメシア・キリストを証しし、このメシアのために彼の生涯をささげてお仕えするのです。

 77節以下の後半でも、主イエス・キリストのことが語られます。しかも、イスラエルという一つの民族の解放と救いにとどまらず、全世界のすべての人々の解放と救いを成就される主イエス・キリストが語られます。【77~79節】。71節と74節で言われていた「敵の手からの救い」が「罪の赦しによる救い」であると、ここではっきりと語られています。神を信じない罪、神のみ言葉に背く罪、神ならぬ偶像を礼拝する罪、神と隣人を愛することができず自分の欲望のままに生きることしかできない罪、主イエス・キリストは十字架の死によって全人類をその罪から救ってくださる救い主であられます。

 救いは罪のゆるしとして与えられます。罪びと自らがその罪を何らかの方法で償うとか、自分で精算しなければならないのではありません。また、人間は自らの罪を自分で精算してゼロにすることなど決してできません。神がみ子主イエス・キリストの十字架の死によって、わたしたちの罪をもはや数えることをせず、わたしたちを罪なき者として見てくださるのです。それに代わって、罪なききみ子に罪を負わせ、罪の厳しい裁きを負わせることによって、わたしたちの罪を消し去ってくださったのです。主イエス・キリストが十字架で流された尊い血潮によってわたしたちの罪を洗い流してくださったのです。

 79節はイザヤ書9章の預言の成就と考えられます。その個所を読んでみましょう。【イザヤ書9章1~6節】(1073ページ)。イザヤは全世界を覆っている暗闇を見ています。死に覆われている罪のこの世界の暗黒を見ています。しかし、今や、主イエス・キリストの誕生によって、「暗闇と死の陰に座している」全世界のすべての人々を照らすまことの光が差し込んでくるのを、イザヤは主イエス誕生の500年以上も前に預言し、それを見ています。今や、その預言が成就する時が来ました。わたしたちは次週の主の日に、その日を祝うクリスマス礼拝をささげます。

 最後に、マリアの賛歌とザカリアの賛歌のもう一つの共通点を見ておきましょう。それは、神の憐れみが強調されていることです。マリアの賛歌では、【50節】、【54節】、そして【58節】。ザカリアの賛歌では、【72節】、【78節】。神の憐れみは、紀元前1800ころのイスラエルの族長時代から、紀元前1000年ころのダビデ王の時代にも、そして紀元1世紀のザカリアの時代にも、変わることはありませんでした。神は彼らイスラエルの民と結ばれた契約を決してお忘れにならず、彼らの時代が終わっても、イスラエル王国が滅亡したのちも、その契約を覚えられ、そして主イエス・キリストによって成就されたのです。神の憐れみはイスラエルの歴史を貫き、人間の罪と背きの歴史を貫いて永遠に変わることなく、救いのみわざを成し遂げていくのです。そして、神の憐れみは暗黒と死の谷に住むわたしたちすべての罪びとたちを照らすまことの光としてこの世に現れ、さらには、この取るに足りないわたしにまで及び、わたしに信仰を与え、罪から救い、神の民としました。神の憐れみは罪の中に信仰を生み出していく力であり、死と滅びの中にまことの命を生み出していく力なのです。

(祈り)

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