1月26日説教 「わたしはこの目であなたの救いを見た」

2020年1月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書52章7~10節

    ルカによる福音書2章22~38節

説教題:「わたしはこの目であなたの救いを見た」

 ルカによる福音書は主イエスの誕生の記録に続いて2章21節では生まれて8日目の割礼と命名の儀式について、それから22節以下では40日間の清めの期間を経てからの初子の奉献の儀式(23節)と清めの儀式(24節)について記しています。これらは旧約聖書の律法に定められていたいたことであり、イスラエルのどの家でも長男が誕生した際には行われる習わしでした。主イエスはおとめマリアの胎から聖霊なる神によってお生まれになった神のみ子ですが、一人の人間として、人の子として、神がお選びになった神の契約の民イスラエルの一人としてお生まれになりました。主イエスはまことの神であられ、同時にまことの人となられました。ここではまずそのことが確認されます。

 ガラテヤの信徒への手紙4章4~5節で使徒パウロはこのように書いています。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした」。主イエスは神のみ言葉である律法の下にお生まれになり、その律法を完全に成就され、それによって律法の下にあったイスラエルの民と全人類の罪を贖われ、すべての人の罪をゆるす救い主となられました。ルカ福音書2章に記されているこれらの儀式は、ヨセフとマリアという一つの家庭内で行われている小さな儀式ですが、そこにはすべての律法を完全に成就される主イエスの救い主としてのお働きがすでに暗示されていることをわたしたちはきょうのみ言葉から知らされます。

 21節には、生まれて8日目の割礼と命名の儀式について書かれています。【21節】。割礼はイスラエルの家に生まれた男子が神に選ばれた契約の民であることのしるしとして受ける儀式です。主イエスは神の契約の民の一人として誕生されました。しかも、契約の民イスラエルが旧約聖書の中で長く待ち望んできたメシア・キリスト・救い主として誕生されたということが、次の命名の儀式で暗示されています。「イエス」(これはギリシャ語ですが)、ヘブライ語では「ヨシュア」、その名の意味は「神は救いである」という彼のお名前は、本来は父親が付けるのですが、主イエスの場合には、すでにわたしたちが1章31節で聞いたように、彼がお生まれになる以前に神によってあらかじめ決められていたお名前であり、そこには神の永遠の救いのご計画と強い意志が言い表されていました。すなわち、神はご自分がイエス、神は救いであると名づけられるご自身のみ子によって、ご自身の救いのみわざを完全に成就されるという神の強い意志が、この命名によって明らかにされているのです。この日にヨセフとマリアの家で行われた割礼と命名の儀式は、他のイスラエルの家で同じように行われる儀式とは違った、特別の意味を持っていたということをわたしたちは知らされるのです。

 22節の清めの期間についてはレビ記12章に定められています。男の子を出産した婦人は40日間宗教的な汚れの状態にあるとされました。その期間が過ぎてから、エルサレム神殿で1歳の雄羊かあるいは2羽の山鳩ないしは家鳩をささげることで清められると定められていました。ヨセフとマリアは結婚して間もない貧しい家庭でしたので、例外で認められていた2羽の鳩をささげたと24節に書かれています。

けれども、貧しくても、汚れの期間が終わり再び神との交わりが回復されることへの喜びは大きかったと推測されます。二人はガリラヤのナザレからエルサレムまでの100キロ以上もの困難な旅を、清めの期間が終わるや否や、神へ感謝のささげものをするために、幼子を抱いて出かけるのです。2章の初めに書かれていた2か月近く前にエルサレム近郊のベツレヘムに旅した際は、ローマ皇帝の権力に強制されてでしたが、このたびは違います。神から約束されていた男の子が与えられたことに対する感謝と、清めの期間が満たされて再び神との豊かな交わりがゆるされたことの感謝の思いに満たされて、二人は信仰の喜びの中をエルサレムへと向かいました。

23節に書かれていることは「初子の奉献」と言われる儀式です。初子の奉献の起源は出エジプトの出来事にあります。神はエジプトで長い間奴隷としての労役に苦しめられていたイスラエルの民を救い出すために、ある夜エジプト全土に滅ぼす者を遣わし、エジプト人の家庭に生まれた長男の命をすべて奪い取られましたが、滅ぼす者はイスラエルの家の前を過ぎ越して、イスラエルの家は神によって守られたということが出エジプト記12章に書かれています。これがのちの過ぎ越しの祭りの起源となりました。この救いの出来事から、イスラエルの家に生まれた長男の命は神のものであるゆえに神にささげられなければならない。ただし、動物の血を贖いの供え物としてささげることによって、買い戻すことができると定められていました。

主イエスの両親であるヨセフとマリアはこの律法の規定に従って長男を神にささげ、贖いの供え物をささげて神を礼拝したのです。ここで律法の規定を満たしているのは親であるヨセフとマリアですが、しかしわたしたちは知っています。初子の奉献の律法を本当の意味で、完全に成就されるのは主イエスご自身であるということを。

また、ここで行われている清めの儀式と初子奉献の儀式は、ヨセフとマリアというガリラヤ地方の小さな新婚家庭内で起こっている出来事ですが、しかしそれは一つの家庭内にとどまらず、神の契約の民イスラエルとさらには全人類とにかかわっているできごとなのだということを、わたしたちに予感させます。すなわち、清めの儀式は、やがて主イエスがご自身の十字架の死によってわたしたちのためになしてくださる罪の汚れからの清め、罪のゆるしと救いをあらかじめ先取りしていると言ってよいでしょう。また、初子奉献の儀式は、主イエスがご自身のご生涯全体とそのお体とその命そのものを父なる神に完全におささげし、ご自身が聖なる贖いの供え物となられることによって、すべての人を罪と死の奴隷から贖い出し、救ってくださるということを目指していると言ってよいでしょう。

そのことが、さらにこのあとに続くシメオンとアンナという二人の預言者によって、より明らかにされていきます。シメオンについては、【25~26節】。また、アンナについては、【36~38節】。この二人の預言者がエルサレム神殿で幼子主イエスと出会うことによって、この幼子こそが旧約聖書でイスラエルの民が長く待ち望んできたイスラエルと全人類の救い主、メシア・キリストであるということを証しするのです。

この二人の預言者に共通している第一の点は、二人とも神の約束が成就される時を待ち望むことが彼らの生涯の、また彼らの預言者活動の中心であったということです。いや、それがすべてであったと言うべきでしょう。シメオンは、神がイスラエルの民と結ばれた契約が成就され、イスラエルと全人類の救いをもたらすメシア・キリスト・救い主が到来する時を待ち望んでいました。しかも、そのメシア・キリストに出会うまでは死ぬことはないという約束まで与えられていたのでした。彼は彼の全生涯をかけて、文字どおり彼の命をかけて、救い主をひたすらに待ち望んでいたのでした。

女預言者アンナは夜も昼も一日中神殿で神にお仕えし、祈りと断食の日々に明け暮れていたと書かれています。彼らにとっては、待ち望みつつ神に仕えていたというよりは、神の約束の成就の時を待ち望むことこそが最もよく神に仕えることであったのです。それゆえに、待ち望んでいるメシアに会うまでは彼らの生涯は決して満たされることはありません。

待ち望むということは、ある意味では、とてもつらい務めです。いまだに確かな事実を見ることができずに、確実な実りを手にすることなく、いつまでたっても満たされることがない、それゆえにいつも餓えと乾きを覚えながら、ただひたすらに約束を信じて待ち望む以外にないからです。詩編42編の詩人はこのように歌っています。「涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める」(1節)と。また、詩編130編の詩人も待ち望む信仰とそのつらさを歌っています。「わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。わたしの魂は主を待ち望みます/見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにも増して」(5~6節)と。

それでも彼ら二人の預言者には、ほかにこの世の楽しみを見いだそうとはしませんでした。家族とくつろいだり、旅行をしたり、おいしい食卓を囲んだりなどということには、全く楽しみも喜びも見いだそうとはせずに、ただひたすらにメシアを待ち望みました。そのことだけに、唯一の楽しみと喜びとを求め、そうすることで彼らは年老いてからも生き生きとした信仰に生きていたのです。

彼らがそうできたのはなぜでしょうか。それは、待ち望む信仰者は、彼自身の可能性とか忍耐力とか、あるいは信仰の強さとかによって生きているのではなく、待ち望まれている神の約束の内容、その対象であるメシア・キリストに引っ張られるようにして、待ち望まれているその方の力と恵みによって生きているからなのです。イザヤ書40章31節に書かれているように、「主の望みを置く人は、新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。そのように、待ち望まれているその方に捕らえられつつ、その方から絶えず新たな力を与えられつつ、常に若々しく、生き生きとと、待ち望む信仰に生きることができるのです。

二人の預言者に共通している第二の点は、彼らは待ち望みながら、何もしないで、暇を持て余して待っていたのでは決してなかったということです。シメオンは常に聖霊なる神に導かれながら、約束のメシアに出会う日を今か今かと希望をもって待ち望み、神殿での礼拝生活を続けていました。アンナは毎日熱心な祈りと断食とに励みながら神にお仕えし、一日一日が決して無駄に終わることがなく、確かな成就の時へと向かっている大切な、かけがえのない日々であることを信じて生きていました。神の約束の成就を待ち望む信仰者の歩みは、決して空しく終わることはありません。

第三に、二人の預言者たちの待望の時は、今や幼子主イエスと出会って、その成就を見たということです。長く、つらい待望の期間がついに終わりました。彼らの待望は確かに空しく終わることはありませんでした。彼らは人生の終わり近くになってようやくその最後の目標に到達しました。と言うよりは、彼らが待ち望んでいたメシアに出会ったことによって、彼らの生涯が満たされ、最後の目標に達したと言うべきでしょう。それゆえにシメオンは29、30節でこのように告白するのです。【29~30節】。

信仰者にとっては、いやすべての人間にとっては、救い主に出会うことによってこそ、その人生が本当の意味で満たされたものとなります。他の何かによっては、この世のいかなるものによっても、真の慰め、本当の平安を得ることはできません。この世にあるものはみな罪と死とに支配されているからです。

しかし、ただお一人、主イエス・キリストこそがわたしたちの罪のために十字架で死んでくださり、三日目に死の墓から復活され、わたしたちを罪と死と滅びから救ってくださったのです。この主イエス・キリストに出会うとき、わたしの人生は本当の意味で満たされます。死によっては終わらない復活の命が約束されているからです。

わたしたちは今その成就の時に生きています。「わたしはこの目であなたの救いを見た」というこのみ言葉から教会の歩みは始まります。わたしたち一人一人のきょうの一日、この1週の歩みが始まります。そのようにしてわたしに与えられている一日一日を希望と喜びをもって歩むことがゆるされるのです。

(祈り)

1月19日 説教「アダムとエバの罪 ― 原罪」 

2020年1月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記3章1~7節

    ローマの信徒への手紙3章9~20節

説教題:「アダムとエバの罪―原罪」

 創世記3章のみ言葉から、わたしたちはキリスト教教理の重要な柱の一つである人間の罪について教えられます。人間の罪の最初はどうであったか、人間はどのようにして罪に落ちたのか、いわゆる原罪(英語でoriginal sin)について教えられます。原罪というキリスト教教理は、創世記3章に書かれている最初の人間アダムとエバが犯した罪のゆえに、アダム以後のすべての人間がその罪の支配のもとに置かれているという教えです。使徒パウロはこの原罪についてローマの信徒への手紙5章12節でこう言っています。「このようなわけで、一人の人によって罪がこの世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」。これが原罪です。

 原罪という言葉は聖書の中にはありませんが、すべての人間が生まれながらにして罪に傾いており、その罪の結果としての死に支配されているという考えは聖書全体に貫かれています。また、それが人間の現実の姿であるということを旧約聖書も新約聖書も、赤裸々にというか、冷静に、しかも詳細に描いています。原罪とは、アダム以来の全人類をすっぽり覆っている罪であり、すべての人間を強力な力で、だれも逆らえないほどの力で支配している罪であり、それはまた、わたしたち一人一人を支配している罪のことでもあります。わたしたちは創世記3章から、神によって創造された人間が、神のかたちに似せて、エデンの園で神と共に生きるべきものとして創造された人間が、なぜ、どのようにして、神に背く罪びととなったのかを教えられるのです。

 しかし、その際に重要なことは、使徒パウロがローマの信徒への手紙5章の続きで書いているように、一人の人アダムの不従順によって罪と死とが全人類を支配するようになった、それよりもはるかに大きな神の恵みによって、一人の人主イエス・キリストの従順により、すべての人が正しい者とされ、生きる者とされているという、主キリストの福音から人間の罪を考えるべきであるということです。罪は、すでに主イエス・キリストの十字架の死と復活の福音によって、その毒牙を抜き取られているのであり、罪と死の支配はすでに主イエス・キリストによって無効にされているのであり、わたしたちはすでに主イエス・キリストによって罪ゆるされ、救われている者たちであるということを知りつつ、信じつつ、そのことに感謝しつつ、わたしたちの罪について学ぶのだということです。

 では、1節から読んでいきましょう。【1節】。ここに蛇が登場します。蛇は女に(彼女は20節でエバと名づけられます)語りかけます。この蛇の語りかけによって、アダムとエバは罪へと誘惑されます。ここでの蛇の役割について、さまざまな議論がなされてきました。その議論のポイントは、神のかたちに似せて良き者として創造された人間の中にどうして罪が入り込んできたのかということにあります。もし、人間の中に罪の種とか罪の原因となるものがあったとすれば、それは神の創造のみわざが不完全であったということになるのではないか。それはあり得ない。そうだとすれば、罪は人間の外から入ってきたと考えなければならない。そこで、誘惑者蛇が悪魔の手先になって人間を罪へと引きずり込んだということになる。そこから、ユダヤ教や初期のキリスト教会の伝統では、蛇を悪魔・サタンと同一視するという考えが生まれました。

ところが、それで問題が解決されたわけではありません。むしろ、より大きな問題が生じることになります。蛇に罪の責任があるのだとしたら、人間にはその責任がないということになり、神のみ前で罪の責任を問われなくてもよくなって、人間の罪を真剣に考える必要がなくなるからです。それは、聖書全体が語っている人間の罪の大きさ、重さ、深刻さと符合しませんから、正しい理解とは言えなくなります。神の戒めに背いて罪を犯したのは、まさに人間アダムとエバであり、蛇ではありません。まさに、人間そのものが罪の責任を負わなければならないのであり、まさにその人間の罪のために神のみ子が人間となられたのであり、その人間の罪をゆるすために十字架で死んでくださったのですから、罪の責任を少しでも人間から減らしたり、人間以外の何かに責任を転嫁したりすることはできないということは明確です。ユダヤ教や初期キリスト教会の伝統的な考え方は訂正されなければなりません。

創世記3章の蛇は、何か悪魔的な性格を持つものとしては描かれてはいません。むしろ、人間に対する優しさと理解を示しながら語りかけています。ただ、ここではっきりしていることは、蛇もまた主なる神によって創造された被造物の一つであるということです。蛇は「神が創られた生き物のうちで、最も賢かった」と書かれていますが、何か神と並ぶ力を持った被造物以上のものでは決してありません。その蛇の賢さによって罪に誘惑され、罪を犯したのは、人間にほかなりません。蛇は悪魔の手先と言うよりは、ここではあくまでもわき役を演じており、人間の罪の責任を人間から取り除こうとしないように、むしろ罪の責任が人間にこそあるのだということを浮き上がらせるような役割を果たしているように思われます。

そこで、わたしたちが注目すべきは、蛇が何を語ったのか、そしてエバがそれをどう聞いたのか、どう反応したのかということです。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と蛇は問いかけます。ここには蛇の多少悪意に満ちた賢さが表れています。蛇は、本来神から禁じられていた園の中央にある善悪の知識の木については、あえて触れていません。最初の罪の誘惑は本題から少し外れたところから、神のみ言葉を少しだけ中心からそらしたところからやってきます。神の命令は2章16、17節にあるように、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし……」という最大の自由を与えるみ言葉でした。蛇はそのみ言葉を少しだけ言い換えています。しかし、その内容は神から与えられている最大の自由を最大の不自由へと変えてしまう要素を含んでいます。

それだけでなく、「などと神は言われたのか」と疑問を投げかけるような言い方で(この個所は口語訳では「本当に神はそう言われたのか」と訳しており、その方が原語に近い訳ですが)、ここで蛇は、半分は「まさか、神がそんなことをなさるはずはないだろう」と神を弁護しているかのように、しかし半分は「もし、神がそんなことをなさるとすれば、神は何と権威主義的で人間を不自由にする厳格な方であるのか」と、神を非難する思いを誘導しているように思われます。

蛇はここで、神の戒めが女エバにとって好ましいものであるのか、そうでないのか、自分にとって都合がよいものか、そうでないかを、彼女自身に判断させようとしています。神のみ言葉を人間の基準で良し悪しを判断し、自分の好みで選択をする、そこに疑いが生じ、神への不信、罪が生じるのです。それは、人間を創造され、人間を最も深く愛され、人間が生きるに必要な一切のものを備えてくださる神に対する疑いであるからです。

ところで、ここで蛇は女エバと対話していますが、男アダムはこの時一体どこに行っていたのでしょうか。エデンの園で共に喜びつつ神に仕えていくようにと創造された男と女、互いにふさわしい助け手として、差し向かいで生きるべき連帯的人間として創造されたアダムとエバ、「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉」と呼び、一体となるべき男と女、しかしここでは一緒にいなかったのでした。蛇は女エバが一人でいるところをねらって誘惑したのかもしれません。ここにも蛇の賢さがあるように思われます。

共に生きるべき連帯的人間として創造された人間は、共に神に仕えるとともに、共に罪の誘惑に対して抵抗し、それと戦うのでなければなりません。けれども、共に戦うべき男アダムはそこにいませんでした。アダムは6節になって初めて姿を現します。しかし、そこでも、共に罪に抵抗して戦うアダムではなかったことを、わたしたちはあとで知らされます。

さて、蛇に誘惑された女エバは、蛇の問いに答えます。【2~3節】。女エバはここで初めて自分の方から本題である園の中央にある善悪を知る木について語りだします。そのとき女エバは、誘惑者蛇と同じように、半分は神を弁護しながら、半分は神に対する不満と批判の思いを言い表しています。彼女はまず蛇が言ったことを否定します。食べることを禁じられているのは園の中央にある木の実だけだと言います。ここでは、彼女は神を弁護しているかのように見えます。けれども、彼女はすぐに続けて「触れてもいけない」と、本来神が命じていなかったことまでも付け加えています。神の戒めを誇張しています。誘惑者蛇と同じように、神の戒めを厳しいものと感じ始めています。人間に自由を与えるものであった神の戒めを人間の行動を制限し、人間をしばりつける不自由な戒めに変えようとしています。新約聖書に登場してくる律法学者たちが一つの戒めからたくさんの小さな規定を作り出し、人間に重荷を負わせていたように、彼女は神の戒めを誇張し、自らに律法の重荷を負わせようとしているように思われます。そのようにして、神の戒めに対する疑いや不満、批判が生じてくるのです。

さらに彼女は付け加えます。「死んではいけないから」と。しかし、神はそうは言われませんでした。17節にあるように、「食べると必ず死んでしまう」と断定している神のみ言葉を、彼女は自分に都合の良いように言いかえています。彼女は神のみ言葉を自己流に理解しています。神がわたしを気遣ってくれて、わたしが死なないようにそう言われたのに違いないと、自分の利益になるように神のみ言葉をねじ曲げて理解する時、しかしそこにはいつも逃げ道が用意されています。それを食べてもなおも死なないように神がご配慮くださるに違いないと思い始めています。ここにも、神のみ言葉を自分の都合に合わせて理解しようとする罪が顔をのぞかせています。

次に、突然に誘惑者の最後の、とどめの言葉が発せられます。「あなたは決して死ぬことはない」(4節)と。今や、あからさまに神のみ言葉の真理が否定されます。誘惑者によって、神が偽り者とされます。誘惑者は追い打ちをかけるように言います。【5節】。誘惑者蛇はこのように言います。「神は知っていてそうされたのだ。神は意地の悪い方なのだ。神は本当は人間のことなど少しも考えてはいないのだ。神は嫉妬深い方なのだ。人間が神のようになっては困るから、そのように言われたのだ」と。

誘惑者の言葉は人間を罪に誘うには十分の魅力を持っています。「人間が神のようになる」、人間にとってこれほどに魅力的な言葉があるでしょうか。いったいだれがこのような甘い誘惑を無下に退けることができるでしょうか。アダムとエバの最初の罪から今日に至るまでの人間のあらゆる罪の根源には、この誘惑が潜んでいると言ってよいでしょう。神のみ言葉を疑い、それを勝手にねじ曲げ、さらには神を偽り者とし、ついに自ら神のようになろうとし、一人一人が小さな神々として君臨しようとする、罪とはまさにそのようなものです。

ここまでくればもはや誘惑者の手助けは必要なくなります。【6節】。罪の誘惑は甘く、美しく、好ましく思われます。たちまちにして目の欲望、肉の欲望に支配されていきます。神の戒めを疑い、それを投げ捨てると、人間は直ちにさまざまな欲望のとりこになっていきます。そして罪を犯す者はいつでも同伴者を求めます。罪に誘惑された者は他の人を罪に誘惑する者になっていくのです。

神は人間アダムとエバを、共に生きる連帯的人間として、互いに差し向かいで生きる助け手として、共に神のみ言葉を聞き、喜んで神に仕えるパートナーとして、また共に罪の誘惑に対して抵抗し、戦う同労者として創造されたのですが、しかし今アダムとエバは共に神の戒めを破り、共に罪に落ちる、罪びととしての運命を共にする者たちとなっていきます。その中に、わたしたち一人一人もまた加わっています。

けれども、わたしたちがきょうの説教の初めに確認したように、人となられた神のみ子主イエス・キリストは死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、従順に父なる神に服従を貫かれることによって神の義を全うされ、罪と死に至る道を救いと永遠の命へと向かう道へと方向転換してくださったのです。そして、わたしたち一人一人もまたその救いと命への道へと招き入れられているのです。一人の人アダムによって入ってきた罪と死の支配よりも、一人の義なる人、主イエス・キリストによる救いの恵みの支配の方がはるかに大きいことをわたしたちは知っています。

(祈り)

1月12日説教 「共に喜び合う礼拝者の群れ」

2020年1月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編126編1~6節

    フィリピの信徒への手紙2章12~18節

説教題:「共に喜び合う礼拝者の群れ」

 フィリピの信徒への手紙には二つの別名が付けられています。一つは「獄中書簡」、もう一つは「喜びの書簡」です。パウロはこの手紙を獄中から書いています。使徒言行録の記録によれば、パウロはローマ、エフェソ、カイサリアの町々で何度も投獄されましたから、そのいずれかの町と思われます。主イエス・キリストの福音を宣べ伝えたために、ユダヤ人とローマ帝国から迫害を受け、捕らえられましたが、しかし、神の言葉はこの世のいかなる鎖によっても決してつながれることはないという事実を証明するためにも、パウロは獄中から諸教会に何通もの手紙を書きました。他に獄中書簡と言われているのはエフェソの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙です。

もう一つの名前「喜びの書簡」は、この手紙には「喜ぶ、喜び」という言葉が十数回も用いられ、全体としても喜びに満ち溢れた手紙だからです。獄中書簡でありながらも、しかし喜びに満ち溢れているという、不思議ともいえるこの二つのつながりが、この手紙の大きな特徴です。そして、今日の個所でも、その相反する二つが実際に固く結ばれていることをわたしたちは読むことができます。【17~18節】。

獄中のパウロはここで、やがて裁判の判決が下り、自分が死刑になることを予感しているように思われます。「わたしの血が注がれる」とは彼の殉教の死を意味していると推測できます。パウロはフィリピ教会の礼拝の祭壇に自分の血が注がれ、彼らと一緒に礼拝することを喜んでいます。この個所を正しく理解するためには、旧約聖書時代の礼拝の習慣と、その礼拝が主イエス・キリストによって完全に成就されたということを知る必要があります。

旧約聖書時代のイスラエルでは、エルサレムの神殿で毎日動物の血を犠牲としてささげる礼拝が行われていました。それは、動物の血が人間の罪をあがなうと考えられていたからです。人間はみな神に対して罪を犯しており、神から死の判決を受けなればなりません。けれども、憐れみ深い神は人間の命の代わりに動物の血を犠牲としてささげることで、人間の罪をゆるすと言われました。ただし、動物の血は人間の罪をあがなうには不十分で、一時的な効力しかありませんから、エルサレムの神殿では祭司が毎日繰り返して牛や羊の血を犠牲としてささげなければなりませんでした。これが旧約聖書時代のイスラエルの礼拝でした。

ところが、神はご自身のみ子、主イエス・キリストの聖なる、汚れなく、尊い十字架の血によって、全人類の罪を、完全に、永遠にあがなってくださり、すべての人の罪をおゆるしくださいました。そのことが、6節以下で語られていました。まことの神であられ、まことの人間となられ、十字架の死に至るまで父なる神に服従を貫かれた主イエス・キリストによって、神の義の要求が完全に満たされ、また同時に人間の罪をあがなうための完全な犠牲がささげられたのです。したがって、主イエス・キリストを信じるフィリピ教会の礼拝では、もはや動物の犠牲がささげられる必要はありません。罪ゆるされた教会員が救われた感謝のささげものとして自らの体全体を神にささげて礼拝するのです。これが、新約聖書時代に属するわたしたちの礼拝です。ローマの信徒への手紙12章1節にこのように書かれているとおりです。【1節】(291ページ)。

パウロは今日の個所で、主イエスによって完成されたこのような礼拝を背景にして語っています。パウロはここで礼拝を司る祭司の務めを果たしながら、また同時に祭司がささげるささげものという二役を演じているように思われます。

彼は礼拝を司る祭司として、「信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に」、わたし自身の血をも一緒にささげると言っています。もちろん、フィリピの教会員がささげるいけにえであれ、パウロがささげる血であれ、それが人間の罪をあがなうのでは全くなく、それらは主イエス・キリストによって完全にあがなわれ、罪をゆるされていることに対する感謝のささげものであるのですが、パウロはここでお互いに遠く離れており、一方は獄につながれている彼とフィリピ教会とが今一つの神礼拝の群れとなって、共に感謝のささげものを携えて神を礼拝しているのです。だから、共に喜んでいるのです。主イエス・キリストの十字架の血によって完成された礼拝に共に参加できる喜びを味わっているのです。これこそが、わたしたちキリスト者に与えられている最高の喜びなのです。詩編126編の詩人は、バビロンの捕囚の地から帰還した民が再建された神殿で礼拝をささげる喜びを歌っています。わたしたちの礼拝にはこのような喜びが満ち溢れているのです。

 パウロが感謝のささげものとして携えているのが殉教の血であるのに対して、フィリピ教会が携えている感謝のいけにえとは何でしょうか。「信仰に基づいてあなたがたがいけにえをささげ」とは、12節から語ってきたフィリピ教会の従順な信仰を指していると考えられます。【12節】。

 パウロはフィリピ教会に変わらない信仰の従順を勧めています。従順とは、パウロに対する従順ではもちろんなく、教会の頭であられる主イエス・キリストに対する従順です。パウロがフィリピの町で主キリストの福音を宣教したとき、彼らは従順な信仰をもってパウロと共に教会建設のために仕えました。その時と同じように、パウロがその地を去って今は獄の中にいるとしても、同じように従順な信仰をもって主キリストに仕え、教会建設のために仕えなさいと勧めています。そして、あなたがたのその従順な信仰を礼拝の際にわたしが祭司となって神にさげましょうとパウロは言っているのです。

 フィリピ教会のそのような従順な信仰は、実は主イエスご自身の従順によって与えられものであるということを、わたしたちは前回学びました。6節以下に書いてあるとおりです。主イエス・キリストが神のみ子であられたにもかかわらず、人の子となられ、しかも罪の人間たちのために僕(しもべ)のようにお仕えになられ、十字架の死に至るまで父なる神に従順であられました。それによって、罪と死とに勝利されて、わたしたちの救いを成し遂げてくださったのです。主イエスの十字架を信じる信仰によって罪ゆるされているキリスト者は、自己中心的で自分だけを喜ばせようとする生き方から解放されて、神に喜んで仕え、従順に神のみ言葉に聞き従っていく新しい人に造り変えられるのです。そして、新しくされたわたし自身とわたしの信仰の従順を、礼拝の際に神におささげすることができるのです。主イエスが従順の道をわたしたちのために開かれ、またその道へとわたしたちを招いておられるのです。

 パウロはさらに従順であるとはどういうことかを語ります。それは、「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めること」です。「自分の救いの達成のために努めなさい」と言われると、わたしたち少し違和感を覚えます。と言うのは、救いはただ主イエス・キリストから一方的に与えられるものですから、わたしたち人間の側からの努力は必要ないと考えられるからです。それはそのとおりです。そうであるのに、パウロがここであえて「自分の救いの達成のために務めなさい」と命じているのはなぜかを考えてみなければなりません。その際重要なポイントは、「恐れおののきつつ」という言葉と一緒に考えるということです。神に対する恐れの中で、救いの達成に努め、従順を貫きとおすということが勧められているのです。そこから考えると、「救いの達成に努める」とは、自分がいよいよ救いを必要としている罪びとであることを自覚し、神のみ前に罪を悔い改め、ひたすらに主イエス・キリストの救いを願い求め、主イエスの救いの恵みなしには自分は生きることができないということを知るということにほかならないということが分かります。救いは徹底して神のみわざであり、主イエス・キリストからのみくるということを固く信じて、疑わず、つぶやかず、信仰の道を前進していくことです。13節に、【13節】と書かれてあるとおりです。神は必ずや信じる者たちを終わりの日に神の国へと招き入れてくださり、救いを完成させてくださり、永遠の命を与えてくださるからです。

 14節からは、主なる神への従順を貫きとおし、自分の救いの達成に努めている信仰者の姿が、清く、輝かしい姿として描かれています。【14~16節】。これは何と美しく、力強く、輝きに満ちたみ言葉でしょうか。これがわたしたちキリスト者に約束されている姿なのです。わたしのみすぼらしい、破れだらけで、つまずきの多い歩みがこのような輝かしいものに変えられていくのです。

信仰者には多くの誘惑や試練があります。時に、厳しい信仰の戦いを迫られます。けれども、それらの試練の中で、信仰が鍛えられ、試練から希望と喜びへと変えられます。なぜならば、信仰の道を導かれるのが主なる神であり、信仰の導き手が主イエス・キリストであるからです。

 信仰者が住んでいる現実の世界、この世は、いつの時代も、「よこしまで曲がった時代」です。神なき世界、神に背いている世界です。今なお、罪と悪とがはびこっている世界です。けれども、キリスト者は知っています。主イエス・キリストの十字架によって、罪と悪の牙はすでに折られており、死のとげはすでに抜き取られているということを。罪と死と滅びに勝利された主イエス・キリストがわたしたちのための勝利者として天に座しておられることを。それゆえに、わたしたちはどのような邪悪な時代であろうとも、その時代から逃れるのではなく、しかし決してその時代の一人となるのではなく、その時代の中にあって、「地の塩、世の光」としての使命を果たしつつ、主キリストを指し示す証し人として、それゆえに暗い世界に輝く星として、歩んでいくことができるのです。

 16節に、「命の言葉をしっかり保つでしょう」とあります。わたしたちの本当の命は神のみ言葉の中にあります。信仰者にそのような生き方を可能にするのは神の命のみ言葉です。神のみ言葉はわたしたちが生きるために必要なのはパンだけではなく、朽ちることのない神の命のみ言葉であり、神の導き、神の愛であることを教えます。神のみ言葉は暗闇が支配する世界の中でわたしが歩むべき道を照らす光であり、道しるべです。神のみ言葉は誘惑や迷いが多いわたしの歩みを支え、導く真理であり、力です。神のみ言葉はわたしの傲慢や欲望を打ち砕く鉄槌であり、あるいはわたしが絶望し、嘆き悲しむときの希望の光です。この神のみ言葉に固くしがみつくことによって、わたしたちはどのような時にも、神に対する恐れを持ちつつ、従順を貫きとおし、また共に信仰の従順をささげながら、共に喜びをもって主を礼拝する群れとして成長していくのです。

(祈り)

1月5日説教 「 神に栄光あれ、地に平和あれ 」

2020年1月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書9章1~6節

    ルカによる福音書2章8~21節

説教題:「神に栄光あれ、地に平和あれ」

 ルカによる福音書を続けて読んできました。今年も同じように、ルカ福音書と創世記、フィリピの信徒への手紙を連続して読んでいくことにします。これまで読んできたルカ福音書は二人の人物の誕生について交互に語っていました。まず、洗礼者ヨハネの誕生の予告とそのあとにメシア・救い主、主イエスの誕生の予告があり、それに続いて洗礼者ヨハネの誕生が語られました。神が年老いたザカリアとエリサベトに約束されたみ言葉は人間の不可能や不信仰を超えて、神の奇跡として必ず成就するということをわたしたちは確認しました。

 次に、2章から主イエスの誕生の記録が語られます。ここでも、神がヨセフとマリアに約束されたみ言葉は、この二人はまだ婚約中であり、一緒に住んではいなかったのに、神の聖霊がおとめマリアの胎内に神のみ子を宿らせるという、人間の不可能や罪を超えた神の奇跡によって、成就されていくということをわたしたちは見てきました。ルカ福音書1章から2章へと章をまたいでいますが、また聖書を読んでいるわたしたちの時代は2019年から2020年へと年をまたいでいますが、神の救いのご計画は時や時代の変化に全く左右されずに、着実に進められているのです。洗礼者ヨハネの誕生に続いて、彼の後においでになるメシア・救い主、主イエス・キリストが誕生されます。これによって、旧約聖書の民イスラエルが長く待ち望んでいた救いの時が成就しました。

 そこで、神の約束の成就の時、神の救いの恵みの時が開始された最初のクリスマスの出来事を、きょう与えられたみ言葉からご一緒に聞き取っていきたいと思います。2章8節以下を概観すると、8~12節では、羊飼いたちが最初にクリスマスの福音を聞いたことについて、少しとんで、15~20節では、羊飼いたちがベツレヘムに急いで幼子主イエスを礼拝したことについて描かれており、その中に挟まれるようにして、13、14節には、天使と天の軍勢とが神を賛美したことについて書かれています。ここでは、クリスマスの出来事の二つの相反する特徴が結合されているように思われます。一つは、クリスマスの出来事の貧しさ、目立たないみすぼらしさです。もう一つは、クリスマスの出来事の大きさ、まばゆいほどの輝きです。クリスマスにはこの二つが結合しています。わたしたちはこの二つの特徴を見落とさないようにしなければなりません。この二つの特徴の中にクリスマスの深い意味が現われているからです。

 第一の、クリスマスの貧しさについてですが、それは羊飼いたちに与えられたクリスマスのしるしに象徴されています。【12節】。羊飼いたちに与えられたクリスマスのしるしはこのように貧しく小さくみすぼらしいものでした。神が全人類を罪と死と滅びから救い出すために人となられ、この世においでくださったという偉大なみわざは、全く目立たない小さなしるしとして与えられているのです。このクリスマスのしるしを見るために、わたしたちは心の目を集中させなければなりません。「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」に、じっと目を凝らさなければなりません。ここから目を離さないようにしなければなりません。わたしの周囲にある華やかなものや目を奪う価値あると見えるすべてのものから目をそらし、あるいはわたしを覆っている暗黒の雲やわたしに襲いかかってくるあらゆる恐れや不安からも目をそらして、クリスマスのしるしとして与えられているこの目立たない貧しく低い幼子に、わたしの思いと心と信仰とを集中させ、さらにはこの幼子のご生涯とその苦難と十字架へと向かう道から決してそれないようにしなければなりません。

 讃美歌256番で、ドイツの17世紀の詩人パウル・ゲルハルトはこのように歌っています。「きらめく明か星/うまやに照り/わびしき乾草/まぶねに散る。こがねのゆりかご/錦のうぶぎぞ/きみにふさわしきを。この世の栄を/望みまさず/われらに代わりて/悩みたもう/知りえしわが身は/いかにたたえまつらん」。わたしたちの罪のために貧しく低くなられ、十字架の死に至るまで父なる神に従順に従われた主イエスを仰ぎ見ながら、この方から決して目を離さずに、この一年を歩んでいきたいと願います。

 クリスマスの貧しさは羊飼いたち自身によっても象徴されています。ここに登場する羊飼いたちは、ある期間に主人から羊の群れを預かり、牧草を求めながら、また羊たちを狼などの攻撃から守りながら、群れと一緒に移動するのが仕事でした。その羊飼いの仕事は重労働であり、困難でした。当時の羊飼いたちは「地の民」と呼ばれ、信仰深いユダヤ人からは軽蔑され、罪びとの仲間とされていました。そのような貧しく卑しい務めであった羊飼いたちに、最初のクリスマスの福音が伝えられたと聖書は語っているのです。エルサレムのヘロデ王の宮殿では明るいローソクの光に囲まれた豪華な食卓で夜遅くまでにぎやかな宴が催されていたのかもしれません。当時の宗教的指導者であったファリサイ派の学者たちやサドカイ派の祭司たちは熱心に聖書を研究し、神殿での務めを果たしていたのかもしれません。けれども、彼らはクリスマスの福音を聞くことはできませんでした。そうではなく、神は貧しく卑しい務めの羊飼いたちをお選びになりました。家も財産をも持たず、危険な重労働に明け暮れ、この世では軽蔑されるような彼らこそが、最初のクリスマスの喜ばしい知らせを聞くために神によって選ばれたのです。

 ここには神の選びの不思議があります。使徒パウロはコリントの信徒への手紙一1章26節以下で、教会の選びの不思議さについて書いています。その個所を読んでみましょう。【26~31節】(300ページ)。人間のすべての知恵や誇り、傲慢な思いや自我が打ち砕かれて、ただお一人、わたしたちの罪のために十字架で死なれた主イエス・キリストだけを誇る者となるために、神は最初のクリスマスの日に羊飼いたちをお選びくださったのです。

 そこで、神によって選ばれた羊飼いたちはそのクリスマスの小さなしるしを見るためにベツレヘムへと急ぎます。15節以下に書かれているとおりです。神に選ばれた羊飼いたちは幼子主イエスに会うために、メシア・救い主を礼拝するために急ぎます。彼らは主イエスの最初の礼拝者となりました。彼らはまた主イエスのことを語り伝える最初の伝道者となりました。彼らが神に選ばれたのは、実に、このためだったのです。神が貧しいこのわたしをお選びになられたのもこのためです。

 クリスマスのもう一つの特徴、クリスマスの出来事の大きさ、輝きについては、13、14節に書かれています。【13~14節】。ここでは、先に羊飼いたちにクリスマスの福音を伝えた主の天使と、天で神のみもとにあって神にお仕えしている兵士たちの群れとが一緒になって歌う神賛美の歌が響いています。わたしたちは地上に与えられたクリスマスの小さなしるしを見るとともに、この天から響き渡る賛美の歌をも聞かなければなりません。

 ここから教えられる第一のことは、クリスマスの喜ばしい福音と神賛美の歌とは天から来るということです。「主の天使」は神がみ言葉をわたしたちに語り、伝える際の一つの手段として、聖書にしばしば登場します。神の啓示の手段の一つです。天使の登場は神の現臨です。天使が語る言葉は神のみ言葉です。天使が伝える神のみ言葉は10、11節に書かれていました。【10~11節】。このクリスマスの喜ばしい知らせ、救いの福音は天におられる主なる神からきました。地上のどこからか、あるいはだれかからではありません。したがって、わたしたちは地上の声を聞くための耳ではなく、天の神からのみ言葉を聞くための耳を持たなければなりません。そのためには、主イエス・キリストを救い主と信じる信仰を持ち、聖霊なる神の助けと導きとを願い求めなければなりません。それとともに、わたしたちが今見ているわたし自身とこの世界の現実に目を奪われないように、それに縛られないように、目と心を高く天に向ける必要があります。

 14節は「あれ」と願望の形で訳されていますが、オリジナルのギリシャ語では「あれ」「あるように」という言葉はありません。ギリシャ語原典を直訳すると「栄光、いと高いところでは、神に。地の上では、平和、神に喜ばれる人々に」となります。ここで重要なことは、今は天に神の栄光はないけれども、やがていつかあったらいいなあという人間の願望ではないということです。また、今はまだ神に喜ばれる人たちに平和はないが、やがていつかあったらいいのにという人間の願いがここで語られているのでもないということです。このクリスマスの日に、神の栄光が現れているということであり、信仰者たちに平和が訪れているということが語られているのです。すなわち、神のみ子が天から下って、人となっておいでくださったこの日に、天には神の栄光が満ち溢れており、光り輝いている。また、地上では、主イエス・キリストによって、教会の民に平和が与えられているということが、天からの神のみ言葉として語られているのです。

 では、クリスマスの日に主キリストによって実現した神の栄光、地の平和とは具体的にどういうことを意味するのでしょうか。まず最初に、この順序に注目したいと思います。初めに、神に栄光があると言われ、次に地に平和があると言われています。この順序が重要です。この順序が正しくなければ、二つとも実現しません。わたしたちは第一に、神の栄光へと目を向けなければなりません。神の栄光を仰ぎ見ることを第一にしなければなりません。そうすれば、次に地の平和を見ることができます。地上に平和が実現するのを経験することができます。

 けれども、神の栄光が曇らされ、覆い消されている世界では、真の平和は実現することはありません。神が侮られ、無視されている世界にはまことの平和はありません。わたしたちが真の平和を望み、真に平和な世界、平和な国、平和な家庭、そして真の平和に満たされた人生を送るためには、まず神の栄光を仰ぎ見、神に栄光を帰することがなければなりません。

 栄光という言葉は重さや価値あるものを意味しています。神の栄光とは、神の偉大さ、尊厳、この世にあるいかなるものとも比較されえないほどの存在の重さを意味しています。9節ではそのような神の栄光が羊飼いたちをめぐり照らしてので、彼らは非常に恐れたと書かれています。神の栄光を仰ぎ見るわたしたち人間の最も正しい態度は恐れです。神に対する恐れを抱くことです。それはまた、神の尊厳と偉大さを認めることですから、人間の側からいえば自分を小さく、低くするということでもあります。

 地には平和ということについてみていきましょう。前にも言いましたように、神の栄光、次に地の平和というこの順序をここでも確認したいと思います。つまり、平和は天の神から来るということです。神は天におられますが、いつも地を顧みてくださり、地に住む人間たちを愛しておられます。そして、地にまことの平和を与えてくださいます。そのために神はご自身のみ子を地にお遣わしになりました。そして、わたしたちの罪をゆるされ、神とわたしたちとの間の敵対関係を取り除かれ、神とわたしたちとの間に和解と平和を与えてくださいました。平和とは第一には神との平和のことです。エフェソの信徒への手紙2章14節に、「キリストはわたしたちの平和である」と書かれています。主キリストの十字架の死によって神と人間との間にあった敵意という隔ての壁が取り除かれました。神との真実の平和があるところに、人間が住むこの地上の平和が与えられるのです。主キリストを信じる教会の民は平和の福音に告げ知らせる証し人とされるのです。

(祈り)