1月5日説教 「 神に栄光あれ、地に平和あれ 」

2020年1月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書9章1~6節

    ルカによる福音書2章8~21節

説教題:「神に栄光あれ、地に平和あれ」

 ルカによる福音書を続けて読んできました。今年も同じように、ルカ福音書と創世記、フィリピの信徒への手紙を連続して読んでいくことにします。これまで読んできたルカ福音書は二人の人物の誕生について交互に語っていました。まず、洗礼者ヨハネの誕生の予告とそのあとにメシア・救い主、主イエスの誕生の予告があり、それに続いて洗礼者ヨハネの誕生が語られました。神が年老いたザカリアとエリサベトに約束されたみ言葉は人間の不可能や不信仰を超えて、神の奇跡として必ず成就するということをわたしたちは確認しました。

 次に、2章から主イエスの誕生の記録が語られます。ここでも、神がヨセフとマリアに約束されたみ言葉は、この二人はまだ婚約中であり、一緒に住んではいなかったのに、神の聖霊がおとめマリアの胎内に神のみ子を宿らせるという、人間の不可能や罪を超えた神の奇跡によって、成就されていくということをわたしたちは見てきました。ルカ福音書1章から2章へと章をまたいでいますが、また聖書を読んでいるわたしたちの時代は2019年から2020年へと年をまたいでいますが、神の救いのご計画は時や時代の変化に全く左右されずに、着実に進められているのです。洗礼者ヨハネの誕生に続いて、彼の後においでになるメシア・救い主、主イエス・キリストが誕生されます。これによって、旧約聖書の民イスラエルが長く待ち望んでいた救いの時が成就しました。

 そこで、神の約束の成就の時、神の救いの恵みの時が開始された最初のクリスマスの出来事を、きょう与えられたみ言葉からご一緒に聞き取っていきたいと思います。2章8節以下を概観すると、8~12節では、羊飼いたちが最初にクリスマスの福音を聞いたことについて、少しとんで、15~20節では、羊飼いたちがベツレヘムに急いで幼子主イエスを礼拝したことについて描かれており、その中に挟まれるようにして、13、14節には、天使と天の軍勢とが神を賛美したことについて書かれています。ここでは、クリスマスの出来事の二つの相反する特徴が結合されているように思われます。一つは、クリスマスの出来事の貧しさ、目立たないみすぼらしさです。もう一つは、クリスマスの出来事の大きさ、まばゆいほどの輝きです。クリスマスにはこの二つが結合しています。わたしたちはこの二つの特徴を見落とさないようにしなければなりません。この二つの特徴の中にクリスマスの深い意味が現われているからです。

 第一の、クリスマスの貧しさについてですが、それは羊飼いたちに与えられたクリスマスのしるしに象徴されています。【12節】。羊飼いたちに与えられたクリスマスのしるしはこのように貧しく小さくみすぼらしいものでした。神が全人類を罪と死と滅びから救い出すために人となられ、この世においでくださったという偉大なみわざは、全く目立たない小さなしるしとして与えられているのです。このクリスマスのしるしを見るために、わたしたちは心の目を集中させなければなりません。「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」に、じっと目を凝らさなければなりません。ここから目を離さないようにしなければなりません。わたしの周囲にある華やかなものや目を奪う価値あると見えるすべてのものから目をそらし、あるいはわたしを覆っている暗黒の雲やわたしに襲いかかってくるあらゆる恐れや不安からも目をそらして、クリスマスのしるしとして与えられているこの目立たない貧しく低い幼子に、わたしの思いと心と信仰とを集中させ、さらにはこの幼子のご生涯とその苦難と十字架へと向かう道から決してそれないようにしなければなりません。

 讃美歌256番で、ドイツの17世紀の詩人パウル・ゲルハルトはこのように歌っています。「きらめく明か星/うまやに照り/わびしき乾草/まぶねに散る。こがねのゆりかご/錦のうぶぎぞ/きみにふさわしきを。この世の栄を/望みまさず/われらに代わりて/悩みたもう/知りえしわが身は/いかにたたえまつらん」。わたしたちの罪のために貧しく低くなられ、十字架の死に至るまで父なる神に従順に従われた主イエスを仰ぎ見ながら、この方から決して目を離さずに、この一年を歩んでいきたいと願います。

 クリスマスの貧しさは羊飼いたち自身によっても象徴されています。ここに登場する羊飼いたちは、ある期間に主人から羊の群れを預かり、牧草を求めながら、また羊たちを狼などの攻撃から守りながら、群れと一緒に移動するのが仕事でした。その羊飼いの仕事は重労働であり、困難でした。当時の羊飼いたちは「地の民」と呼ばれ、信仰深いユダヤ人からは軽蔑され、罪びとの仲間とされていました。そのような貧しく卑しい務めであった羊飼いたちに、最初のクリスマスの福音が伝えられたと聖書は語っているのです。エルサレムのヘロデ王の宮殿では明るいローソクの光に囲まれた豪華な食卓で夜遅くまでにぎやかな宴が催されていたのかもしれません。当時の宗教的指導者であったファリサイ派の学者たちやサドカイ派の祭司たちは熱心に聖書を研究し、神殿での務めを果たしていたのかもしれません。けれども、彼らはクリスマスの福音を聞くことはできませんでした。そうではなく、神は貧しく卑しい務めの羊飼いたちをお選びになりました。家も財産をも持たず、危険な重労働に明け暮れ、この世では軽蔑されるような彼らこそが、最初のクリスマスの喜ばしい知らせを聞くために神によって選ばれたのです。

 ここには神の選びの不思議があります。使徒パウロはコリントの信徒への手紙一1章26節以下で、教会の選びの不思議さについて書いています。その個所を読んでみましょう。【26~31節】(300ページ)。人間のすべての知恵や誇り、傲慢な思いや自我が打ち砕かれて、ただお一人、わたしたちの罪のために十字架で死なれた主イエス・キリストだけを誇る者となるために、神は最初のクリスマスの日に羊飼いたちをお選びくださったのです。

 そこで、神によって選ばれた羊飼いたちはそのクリスマスの小さなしるしを見るためにベツレヘムへと急ぎます。15節以下に書かれているとおりです。神に選ばれた羊飼いたちは幼子主イエスに会うために、メシア・救い主を礼拝するために急ぎます。彼らは主イエスの最初の礼拝者となりました。彼らはまた主イエスのことを語り伝える最初の伝道者となりました。彼らが神に選ばれたのは、実に、このためだったのです。神が貧しいこのわたしをお選びになられたのもこのためです。

 クリスマスのもう一つの特徴、クリスマスの出来事の大きさ、輝きについては、13、14節に書かれています。【13~14節】。ここでは、先に羊飼いたちにクリスマスの福音を伝えた主の天使と、天で神のみもとにあって神にお仕えしている兵士たちの群れとが一緒になって歌う神賛美の歌が響いています。わたしたちは地上に与えられたクリスマスの小さなしるしを見るとともに、この天から響き渡る賛美の歌をも聞かなければなりません。

 ここから教えられる第一のことは、クリスマスの喜ばしい福音と神賛美の歌とは天から来るということです。「主の天使」は神がみ言葉をわたしたちに語り、伝える際の一つの手段として、聖書にしばしば登場します。神の啓示の手段の一つです。天使の登場は神の現臨です。天使が語る言葉は神のみ言葉です。天使が伝える神のみ言葉は10、11節に書かれていました。【10~11節】。このクリスマスの喜ばしい知らせ、救いの福音は天におられる主なる神からきました。地上のどこからか、あるいはだれかからではありません。したがって、わたしたちは地上の声を聞くための耳ではなく、天の神からのみ言葉を聞くための耳を持たなければなりません。そのためには、主イエス・キリストを救い主と信じる信仰を持ち、聖霊なる神の助けと導きとを願い求めなければなりません。それとともに、わたしたちが今見ているわたし自身とこの世界の現実に目を奪われないように、それに縛られないように、目と心を高く天に向ける必要があります。

 14節は「あれ」と願望の形で訳されていますが、オリジナルのギリシャ語では「あれ」「あるように」という言葉はありません。ギリシャ語原典を直訳すると「栄光、いと高いところでは、神に。地の上では、平和、神に喜ばれる人々に」となります。ここで重要なことは、今は天に神の栄光はないけれども、やがていつかあったらいいなあという人間の願望ではないということです。また、今はまだ神に喜ばれる人たちに平和はないが、やがていつかあったらいいのにという人間の願いがここで語られているのでもないということです。このクリスマスの日に、神の栄光が現れているということであり、信仰者たちに平和が訪れているということが語られているのです。すなわち、神のみ子が天から下って、人となっておいでくださったこの日に、天には神の栄光が満ち溢れており、光り輝いている。また、地上では、主イエス・キリストによって、教会の民に平和が与えられているということが、天からの神のみ言葉として語られているのです。

 では、クリスマスの日に主キリストによって実現した神の栄光、地の平和とは具体的にどういうことを意味するのでしょうか。まず最初に、この順序に注目したいと思います。初めに、神に栄光があると言われ、次に地に平和があると言われています。この順序が重要です。この順序が正しくなければ、二つとも実現しません。わたしたちは第一に、神の栄光へと目を向けなければなりません。神の栄光を仰ぎ見ることを第一にしなければなりません。そうすれば、次に地の平和を見ることができます。地上に平和が実現するのを経験することができます。

 けれども、神の栄光が曇らされ、覆い消されている世界では、真の平和は実現することはありません。神が侮られ、無視されている世界にはまことの平和はありません。わたしたちが真の平和を望み、真に平和な世界、平和な国、平和な家庭、そして真の平和に満たされた人生を送るためには、まず神の栄光を仰ぎ見、神に栄光を帰することがなければなりません。

 栄光という言葉は重さや価値あるものを意味しています。神の栄光とは、神の偉大さ、尊厳、この世にあるいかなるものとも比較されえないほどの存在の重さを意味しています。9節ではそのような神の栄光が羊飼いたちをめぐり照らしてので、彼らは非常に恐れたと書かれています。神の栄光を仰ぎ見るわたしたち人間の最も正しい態度は恐れです。神に対する恐れを抱くことです。それはまた、神の尊厳と偉大さを認めることですから、人間の側からいえば自分を小さく、低くするということでもあります。

 地には平和ということについてみていきましょう。前にも言いましたように、神の栄光、次に地の平和というこの順序をここでも確認したいと思います。つまり、平和は天の神から来るということです。神は天におられますが、いつも地を顧みてくださり、地に住む人間たちを愛しておられます。そして、地にまことの平和を与えてくださいます。そのために神はご自身のみ子を地にお遣わしになりました。そして、わたしたちの罪をゆるされ、神とわたしたちとの間の敵対関係を取り除かれ、神とわたしたちとの間に和解と平和を与えてくださいました。平和とは第一には神との平和のことです。エフェソの信徒への手紙2章14節に、「キリストはわたしたちの平和である」と書かれています。主キリストの十字架の死によって神と人間との間にあった敵意という隔ての壁が取り除かれました。神との真実の平和があるところに、人間が住むこの地上の平和が与えられるのです。主キリストを信じる教会の民は平和の福音に告げ知らせる証し人とされるのです。

(祈り)

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