1月19日 説教「アダムとエバの罪 ― 原罪」 

2020年1月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記3章1~7節

    ローマの信徒への手紙3章9~20節

説教題:「アダムとエバの罪―原罪」

 創世記3章のみ言葉から、わたしたちはキリスト教教理の重要な柱の一つである人間の罪について教えられます。人間の罪の最初はどうであったか、人間はどのようにして罪に落ちたのか、いわゆる原罪(英語でoriginal sin)について教えられます。原罪というキリスト教教理は、創世記3章に書かれている最初の人間アダムとエバが犯した罪のゆえに、アダム以後のすべての人間がその罪の支配のもとに置かれているという教えです。使徒パウロはこの原罪についてローマの信徒への手紙5章12節でこう言っています。「このようなわけで、一人の人によって罪がこの世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」。これが原罪です。

 原罪という言葉は聖書の中にはありませんが、すべての人間が生まれながらにして罪に傾いており、その罪の結果としての死に支配されているという考えは聖書全体に貫かれています。また、それが人間の現実の姿であるということを旧約聖書も新約聖書も、赤裸々にというか、冷静に、しかも詳細に描いています。原罪とは、アダム以来の全人類をすっぽり覆っている罪であり、すべての人間を強力な力で、だれも逆らえないほどの力で支配している罪であり、それはまた、わたしたち一人一人を支配している罪のことでもあります。わたしたちは創世記3章から、神によって創造された人間が、神のかたちに似せて、エデンの園で神と共に生きるべきものとして創造された人間が、なぜ、どのようにして、神に背く罪びととなったのかを教えられるのです。

 しかし、その際に重要なことは、使徒パウロがローマの信徒への手紙5章の続きで書いているように、一人の人アダムの不従順によって罪と死とが全人類を支配するようになった、それよりもはるかに大きな神の恵みによって、一人の人主イエス・キリストの従順により、すべての人が正しい者とされ、生きる者とされているという、主キリストの福音から人間の罪を考えるべきであるということです。罪は、すでに主イエス・キリストの十字架の死と復活の福音によって、その毒牙を抜き取られているのであり、罪と死の支配はすでに主イエス・キリストによって無効にされているのであり、わたしたちはすでに主イエス・キリストによって罪ゆるされ、救われている者たちであるということを知りつつ、信じつつ、そのことに感謝しつつ、わたしたちの罪について学ぶのだということです。

 では、1節から読んでいきましょう。【1節】。ここに蛇が登場します。蛇は女に(彼女は20節でエバと名づけられます)語りかけます。この蛇の語りかけによって、アダムとエバは罪へと誘惑されます。ここでの蛇の役割について、さまざまな議論がなされてきました。その議論のポイントは、神のかたちに似せて良き者として創造された人間の中にどうして罪が入り込んできたのかということにあります。もし、人間の中に罪の種とか罪の原因となるものがあったとすれば、それは神の創造のみわざが不完全であったということになるのではないか。それはあり得ない。そうだとすれば、罪は人間の外から入ってきたと考えなければならない。そこで、誘惑者蛇が悪魔の手先になって人間を罪へと引きずり込んだということになる。そこから、ユダヤ教や初期のキリスト教会の伝統では、蛇を悪魔・サタンと同一視するという考えが生まれました。

ところが、それで問題が解決されたわけではありません。むしろ、より大きな問題が生じることになります。蛇に罪の責任があるのだとしたら、人間にはその責任がないということになり、神のみ前で罪の責任を問われなくてもよくなって、人間の罪を真剣に考える必要がなくなるからです。それは、聖書全体が語っている人間の罪の大きさ、重さ、深刻さと符合しませんから、正しい理解とは言えなくなります。神の戒めに背いて罪を犯したのは、まさに人間アダムとエバであり、蛇ではありません。まさに、人間そのものが罪の責任を負わなければならないのであり、まさにその人間の罪のために神のみ子が人間となられたのであり、その人間の罪をゆるすために十字架で死んでくださったのですから、罪の責任を少しでも人間から減らしたり、人間以外の何かに責任を転嫁したりすることはできないということは明確です。ユダヤ教や初期キリスト教会の伝統的な考え方は訂正されなければなりません。

創世記3章の蛇は、何か悪魔的な性格を持つものとしては描かれてはいません。むしろ、人間に対する優しさと理解を示しながら語りかけています。ただ、ここではっきりしていることは、蛇もまた主なる神によって創造された被造物の一つであるということです。蛇は「神が創られた生き物のうちで、最も賢かった」と書かれていますが、何か神と並ぶ力を持った被造物以上のものでは決してありません。その蛇の賢さによって罪に誘惑され、罪を犯したのは、人間にほかなりません。蛇は悪魔の手先と言うよりは、ここではあくまでもわき役を演じており、人間の罪の責任を人間から取り除こうとしないように、むしろ罪の責任が人間にこそあるのだということを浮き上がらせるような役割を果たしているように思われます。

そこで、わたしたちが注目すべきは、蛇が何を語ったのか、そしてエバがそれをどう聞いたのか、どう反応したのかということです。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と蛇は問いかけます。ここには蛇の多少悪意に満ちた賢さが表れています。蛇は、本来神から禁じられていた園の中央にある善悪の知識の木については、あえて触れていません。最初の罪の誘惑は本題から少し外れたところから、神のみ言葉を少しだけ中心からそらしたところからやってきます。神の命令は2章16、17節にあるように、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし……」という最大の自由を与えるみ言葉でした。蛇はそのみ言葉を少しだけ言い換えています。しかし、その内容は神から与えられている最大の自由を最大の不自由へと変えてしまう要素を含んでいます。

それだけでなく、「などと神は言われたのか」と疑問を投げかけるような言い方で(この個所は口語訳では「本当に神はそう言われたのか」と訳しており、その方が原語に近い訳ですが)、ここで蛇は、半分は「まさか、神がそんなことをなさるはずはないだろう」と神を弁護しているかのように、しかし半分は「もし、神がそんなことをなさるとすれば、神は何と権威主義的で人間を不自由にする厳格な方であるのか」と、神を非難する思いを誘導しているように思われます。

蛇はここで、神の戒めが女エバにとって好ましいものであるのか、そうでないのか、自分にとって都合がよいものか、そうでないかを、彼女自身に判断させようとしています。神のみ言葉を人間の基準で良し悪しを判断し、自分の好みで選択をする、そこに疑いが生じ、神への不信、罪が生じるのです。それは、人間を創造され、人間を最も深く愛され、人間が生きるに必要な一切のものを備えてくださる神に対する疑いであるからです。

ところで、ここで蛇は女エバと対話していますが、男アダムはこの時一体どこに行っていたのでしょうか。エデンの園で共に喜びつつ神に仕えていくようにと創造された男と女、互いにふさわしい助け手として、差し向かいで生きるべき連帯的人間として創造されたアダムとエバ、「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉」と呼び、一体となるべき男と女、しかしここでは一緒にいなかったのでした。蛇は女エバが一人でいるところをねらって誘惑したのかもしれません。ここにも蛇の賢さがあるように思われます。

共に生きるべき連帯的人間として創造された人間は、共に神に仕えるとともに、共に罪の誘惑に対して抵抗し、それと戦うのでなければなりません。けれども、共に戦うべき男アダムはそこにいませんでした。アダムは6節になって初めて姿を現します。しかし、そこでも、共に罪に抵抗して戦うアダムではなかったことを、わたしたちはあとで知らされます。

さて、蛇に誘惑された女エバは、蛇の問いに答えます。【2~3節】。女エバはここで初めて自分の方から本題である園の中央にある善悪を知る木について語りだします。そのとき女エバは、誘惑者蛇と同じように、半分は神を弁護しながら、半分は神に対する不満と批判の思いを言い表しています。彼女はまず蛇が言ったことを否定します。食べることを禁じられているのは園の中央にある木の実だけだと言います。ここでは、彼女は神を弁護しているかのように見えます。けれども、彼女はすぐに続けて「触れてもいけない」と、本来神が命じていなかったことまでも付け加えています。神の戒めを誇張しています。誘惑者蛇と同じように、神の戒めを厳しいものと感じ始めています。人間に自由を与えるものであった神の戒めを人間の行動を制限し、人間をしばりつける不自由な戒めに変えようとしています。新約聖書に登場してくる律法学者たちが一つの戒めからたくさんの小さな規定を作り出し、人間に重荷を負わせていたように、彼女は神の戒めを誇張し、自らに律法の重荷を負わせようとしているように思われます。そのようにして、神の戒めに対する疑いや不満、批判が生じてくるのです。

さらに彼女は付け加えます。「死んではいけないから」と。しかし、神はそうは言われませんでした。17節にあるように、「食べると必ず死んでしまう」と断定している神のみ言葉を、彼女は自分に都合の良いように言いかえています。彼女は神のみ言葉を自己流に理解しています。神がわたしを気遣ってくれて、わたしが死なないようにそう言われたのに違いないと、自分の利益になるように神のみ言葉をねじ曲げて理解する時、しかしそこにはいつも逃げ道が用意されています。それを食べてもなおも死なないように神がご配慮くださるに違いないと思い始めています。ここにも、神のみ言葉を自分の都合に合わせて理解しようとする罪が顔をのぞかせています。

次に、突然に誘惑者の最後の、とどめの言葉が発せられます。「あなたは決して死ぬことはない」(4節)と。今や、あからさまに神のみ言葉の真理が否定されます。誘惑者によって、神が偽り者とされます。誘惑者は追い打ちをかけるように言います。【5節】。誘惑者蛇はこのように言います。「神は知っていてそうされたのだ。神は意地の悪い方なのだ。神は本当は人間のことなど少しも考えてはいないのだ。神は嫉妬深い方なのだ。人間が神のようになっては困るから、そのように言われたのだ」と。

誘惑者の言葉は人間を罪に誘うには十分の魅力を持っています。「人間が神のようになる」、人間にとってこれほどに魅力的な言葉があるでしょうか。いったいだれがこのような甘い誘惑を無下に退けることができるでしょうか。アダムとエバの最初の罪から今日に至るまでの人間のあらゆる罪の根源には、この誘惑が潜んでいると言ってよいでしょう。神のみ言葉を疑い、それを勝手にねじ曲げ、さらには神を偽り者とし、ついに自ら神のようになろうとし、一人一人が小さな神々として君臨しようとする、罪とはまさにそのようなものです。

ここまでくればもはや誘惑者の手助けは必要なくなります。【6節】。罪の誘惑は甘く、美しく、好ましく思われます。たちまちにして目の欲望、肉の欲望に支配されていきます。神の戒めを疑い、それを投げ捨てると、人間は直ちにさまざまな欲望のとりこになっていきます。そして罪を犯す者はいつでも同伴者を求めます。罪に誘惑された者は他の人を罪に誘惑する者になっていくのです。

神は人間アダムとエバを、共に生きる連帯的人間として、互いに差し向かいで生きる助け手として、共に神のみ言葉を聞き、喜んで神に仕えるパートナーとして、また共に罪の誘惑に対して抵抗し、戦う同労者として創造されたのですが、しかし今アダムとエバは共に神の戒めを破り、共に罪に落ちる、罪びととしての運命を共にする者たちとなっていきます。その中に、わたしたち一人一人もまた加わっています。

けれども、わたしたちがきょうの説教の初めに確認したように、人となられた神のみ子主イエス・キリストは死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで、従順に父なる神に服従を貫かれることによって神の義を全うされ、罪と死に至る道を救いと永遠の命へと向かう道へと方向転換してくださったのです。そして、わたしたち一人一人もまたその救いと命への道へと招き入れられているのです。一人の人アダムによって入ってきた罪と死の支配よりも、一人の義なる人、主イエス・キリストによる救いの恵みの支配の方がはるかに大きいことをわたしたちは知っています。

(祈り)

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