3月1日説教「人間の罪と神の裁き」

2020年3月1日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記3章8~19節

    ローマの信徒への手紙8章1~11節

説教題:「人間の罪と神の裁き」

 蛇の誘惑に負けて神に禁じられていた木の実を取って食べ、罪を犯した人間アダムとエバは、神のみ前から身を隠して生きる者となりました。「アダムよ、お前はどこにいるのか」との神の語りかけに対して、アダムは10節でこのように答えます。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」けれども、この答えは神の問いかけに対する正しい応答でないことは明らかです。次の11節のみ言葉がアダムの誤りを二つの点で浮かび上がらせます。【11節】。

一つは、彼が裸であったので、神を恐れて身を隠したという理由が正しくないということです。アダムが裸であることを知ったのは、7節に書いてあったように、善悪の知識の木の実から取って食べ、彼の目が開かれたからであって、もともとアダムもエバも裸であったけれど、二人ともそれを恥ずかしがりなしなかったと2章25節に書いてありましたから、裸であることは神のみ前でも一緒に生活していたエバの前でも決して恥ではなく、恐れでもなかったのです。

そうであったのに、お互いが恥を覚え、また神のみ前で恐れを覚えるようになったのは、神の戒めに背いて罪を犯したからにほかなりません。そこで神は「取って食べるなと命じた木から食べたのか」と、彼らの背きの罪を直接に指摘されます。彼が神を恐れなければならなくなったのは、彼が神の戒めを破って罪を犯したからにほかなりません。神はアダムにその罪を自覚させるのです。

ここでの、アダムの正しい応答はどうあるべきか、その答えは、これまで創世記を学んできたわたしたちには、また主イエス・キリストによって罪ゆるされていることを知らされているわたしたちには、その答えが分かります。それは、神のみ前にひれ伏し、罪を告白をし、悔い改めることにほかなりません。きょうの礼拝の初めに、交読詩編6編で告白したように、「主よ、怒ってわたしを責めないでください。主よ、憐れんでください。主よ、立ち帰り、わたしの魂を助け出してください。わたしを救ってください」と祈り求めることこそが、神によって罪を知らされたアダムに求められていることなのです。

しかし、続けてわたしたちが12節以下で聞くように、アダムとエバは神のみ前に罪を告白し、悔い改めて神に立ち帰ることができませんでした。ここで、わたしたちはあらかじめ一つのことを確認しておくべきでしょう。神の戒めに背いて罪を犯し、神から離れてしまった人間は、だれも自分の意志や自分の努力で自らの罪を知ることはできないし、罪を悔い改めて神に立ち帰ることもできないのだということです。人間はただ罪の道を進むことしかできず、罪に罪を重ねて、ついには滅びに至ることしかできないのだということでです。

使徒パウロはローマの信徒への手紙7章18節以下でこのように語っています。【18~20節】(283ページ)。そして【24~25節a】。わたしたち人間は主イエス・キリストの十字架の福音によって罪ゆるされていることを信じる時にはじめて、自分の罪に気づかされ、また、神の悔い改めへの招きに応えることができるのです。

では、創世記に戻りましょう。【12節】。神の語りかけによって自らの罪に気づかされたアダムはどうしたでしょうか。わたしたちが内心期待していたように、自分の罪を認め、その責任を取ることができたでしょうか。否、そうではありませんでした。彼は自分で自分の罪の責任を負うことができなかっただけでなく、その責任を妻であり、エデンの園で共に生きるべきパートナーであるエバに負わせようとします。いや、それだけではありません。あたかも自分の罪の責任が神にあるかのように、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が」と言うのです。何という言葉でしょうか。「あの女に責任がある。しかも、あの女をわたしの妻としたのはあなたなのだから、最終的にはあなたにわたしの罪の責任がある」と言うのです。何と恐るべき、人間の罪の姿でしょうか。

ここには人間の罪が行き着く究極の姿が表れています。それは、神に罪ありとし、神を裁こうとする人間の傲慢です。自らの罪を覆い隠すために、造り主なる神に罪の全責任を負わせようとするのです。そのような人間の罪の究極的な姿を、わたしたちは神のみ子主イエス・キリストの十字架に見るのです。神がイスラエルと全人類を罪から救うためにこの世にお遣わしになったメシア・キリスト、罪なき聖なる神のみ子を、人々は偽り者、神を冒涜する者、犯罪人として裁き、十字架に引き渡したのです。ここに、人間の罪の頂点があります。けれども、神はこの人間の罪の頂点を救いの中心に変えてくださいました。

アダムはエバを「女」と呼び、彼女に罪の責任を負わせています。エバもまた13節で自分の罪の責任を蛇に負わせようとしています。【13節】。ここで完全にアダムとエバの関係はこわれています。アダムとエバはお互いに向かい合う、差し向かいの関係ではなくなっています。アダムにとってエバは神がお与えくださったふさわしい助け手、パートナー、共に生きるべき連体的人間でした。けれども、今や、罪によって、その関係は崩れ去りました。エデンの園で神のみ言葉を共に聞き、共に神に仕えるように創造された人間アダムとエバは、今や、相対立する関係、敵対する関係となり、分裂してしまいました。罪によって神との関係がこわれると、必然的に人間と人間との関係もこわれてしまいます。彼らは一緒になって罪の底に沈んでいくしかできません。彼らは共に罪に抵抗し、あるいは共に罪を告白し、悔い改めをする信仰の仲間ではありません。自分の罪の責任を自分で負うことをせず、他者にその責任を転嫁し、人間の関係を分断することしかできない、罪の悲惨な姿をわたしたちはここに見るのです。これが、人間の罪の現実です。

14節からは、神の裁きが語られます。【14~15節】。まず、蛇に対する神の裁きが語られます。ここで神は蛇に対しては一方的に裁きと呪いの言葉を語っています。アダムとエバに対しては9~13節で、神は彼らと対話をしておられます。その対話の中で神は、人間が悔い改めて神に立ち帰る機会を与えておられたのだということをわたしたちはすでに聞き取ってきました。ここではまだ神と人間との特別に近い関係がそのまま維持されていることに気づきます。神に創造された被造物の中でただ人間だけが神と対話できます。人間が罪を犯した後でも、神はその神と人間との特別な関係を人間から取り去りはしていません。ここにすでに、罪を犯した人間への神の愛と憐れみがあることを知らされるのです。

それに対して、蛇には何の弁解の余地も与えられずに、裁きと呪いの言葉が直接に語られています。蛇は野の獣の中で呪われたものとなったと言われているのは、地を這いまわるその姿が不気味に思われたという理由からだけでなく、それ以上に、蛇が人間を罪へと誘惑する者となったからです。蛇そのものがサタンと同じだと言われている箇所は聖書にはありませんが、その不気味な姿を隠しながら、甘い言葉で人間を罪に誘惑する得体のしれないサタンや悪魔の姿を蛇は象徴的に表していると言えます。

15節では、そのサタンの象徴である蛇と、アダムの子孫である人間との果てしない戦いについて語られています。アダムとエバの罪以来、人間は常にサタンの誘惑にさらされ、罪との戦いをしなければならなくなりました。時に血を流し、ときには命をかけた罪との果てしない戦いが、人類の歴史の中で繰り返されていくのです。その戦いがいつまで続くのか、その結末がどうなるのか、わたしたちはすでにその答えを知らされています。わたしたちの救い主なる主イエス・キリストが、罪と死とに勝利され、今は天におられ、父なる神の右に座しておられ、この地を支配しておられることを。

16節では女エバに対する裁きが、17~19節では男アダムに対する裁きが語られます。この個所を読むにあたって、わたしたちがあらかじめ心得ておくべきことは、ここから聖書が女性とはこのような者だとか、男性とはこのような者だと言っていると単純に結論づけるべきではないということです。ここに書かれていることは神の裁きとしての男アダムと女エバの姿であって、わたしたちはこの個所を、主イエス・キリストの福音によって罪ゆるされている者たちとして、主キリストのうちに置かれている男と女を読み取っていくべきだということです。

さらに、それ以上に重要なことは、神が人間の罪をお裁きになるのはなぜかということです。その意味を考えてみましょう。一つには、神は人間の罪を見過ごしにはなさらないということです。神は罪を憎まれます。なぜならば、神はご自身の戒めが人間の罪によって軽んじられ、踏みにじられることをおゆるしにならないからです。神の戒め、神のみ言葉は神の意志であり、神のみ旨であり、それゆえに命と恵みに満ちています。それは、本来は、人間を生きた存在にし、人間を喜びと感謝で満たすものです。神はご自身のみ言葉の真理を守られます。また、神は義なる神であり、ご自身の義をお守りになります。神の義が、人間の罪や邪悪や不正によって傷つけられることをおゆるしになりません。神はご自身が義なる存在であると同時に、人間との間の義なる関係をもお守りになられます。

したがって、神が人間の罪をお裁きになるのは、罪を犯した人間に対する怒りとか復讐心とか、単なる懲らしめとか罰ではありません。神の裁きは、むしろ、罪びとを罪の中に放っておかれず、罪の中で滅びてしまうことをおゆるしにならない、神の義と愛と憐れみによるのだということをわたしたちはあらかじめ確認しておかなければなりません。

そして、そのような神の罪びとに対する裁きと、その中にある神の義と愛と憐れみとが最も鮮やかに現わされたのが、主イエス・キリストの十字架なのです。主イエス・キリストの十字架の死は、人間の罪に対する神の最も厳しい裁きでした。神はその罪びとに対する最も厳しい裁きをご自身のみ子に下したもうたのです。主キリストはわたしたち罪びとが受けるべき神の厳しい裁きを、わたしたちに代わってお受けになられ、それによって、わたしたちを神の怒りと呪いから救い出し、わたしたちを罪の奴隷から贖い出してくださったのです。この主キリストの福音から、きょうのみ言葉で語られているアダムとエバに対する裁きを読んでいかなければなりません。

15節では、女エバに対する神の裁きが二つ語られています。一つは、子どもを出産する時の苦しみ、もう一つは男が女を支配するという関係です。出産の時の苦しみについて、主イエスはヨハネによる福音書16章21節以下で弟子たちにこのように言われました。「女が子どもを産むとき、苦しむけれども、子どもが生まれると、それが大きな喜びに代わる。それと同じように、わたしが十字架で死ぬときにはあなたがたは悲しむ。けれども、復活したわたしに再会するとき、あなたがたは喜びに満たされる」と。出産の苦しみよりも、主キリストにある新しい命の誕生の喜びの方がはるかに大きいと主イエスは言われます。

男と女の支配関係については、主キリストにあっては男も女もない、ただお一人、主キリストだけがすべての人の唯一の主であるということをわたしたちは知らされています。男と女は共に一人の主イエス・キリストにお仕えしていく一つの信仰者の群れとなるのです。

16節以下の男アダムに対する裁きは労働の苦しみが主な内容になっています。男は額に汗して荒れ地を耕し、パンを得るために一生労苦しなければならない。そしてついには、死んで土にかえっていくほかないと語られています。主イエスはマタイによる福音書4章4節で、悪魔の誘惑をお受けになった時にこのように言われました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と。主イエス・キリストの福音を信じる信仰者には、この世の朽ち果てるしかない食物のために生きるのではなく、永遠の命に至る神のみ言葉によって生きる道が備えられています。

(執り成しの祈り)

〇わたしたちの命と死とをみ手のうちのご支配しておられる全能の父なる神よ、どうぞわたしたちに天からのまことの命のパンをお与えください。わたしたちが、永遠のみ国を待ち望みつつ、あなたのみ言葉に聞き従っていく信仰の道を進むことができますように、お導きください。

〇主なる神よ、いま世界が恐れと不安の中で混乱しています。どうぞ、あなたのいやしと平安をお与えください。特に、弱い立場にある人たちをお守りください。

〇全世界のすべての国民、すべての人々に主キリストにある救いの恵みと平和をお与えくださいますように、切に祈ります。

 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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