3月15日説教「キリスト・イエスに捕らえられているわたし」

2020年3月15日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編139編1~10節

    フィリピの信徒への手紙3章12~16節

説教題:「キリスト・イエスにとらえられているわたし」

 フィリピの信徒への手紙3章12節で、この手紙の著者である使徒パウロはこのように言います。【12節】。きょうはこの12節のみ言葉を中心にして、わたしたちキリスト者の信仰とは何か、その信仰の中心について、またその信仰に生きるとはどういうことなのかをご一緒に学んでいきたいと思います。

 まず、12節の終わりの文章ですが、「自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」と訳されている箇所は、もっと正確に訳すと、「捕らえられているということに基づいて、そのことを根拠として」という、強い意味が含まれています。キリスト・イエスによって捕らえられていることが、わたしの根拠であり、わたしの存在の、わたしが生きることの根拠である。わたしのすべては徹底して、わたしを捕えておられるキリスト・イエスに基づいている。キリスト・イエスを土台にし、キリスト・イエスから出発し、そしてまたキリスト・イエスを目標としている。そのような意味が含まれています。

 では、キリスト・イエスに捕らえられるとは、パウロにとってどういうことを言うのでしょうか。その内容は、すでに彼が7節以下で語ってきたことと関連しています。すなわち、ユダヤ教ファリサイ派の律法学者であったパウロが、それゆえに熱心な教会の迫害者でもあったパウロが、使徒言行録9章に書いてあるように、ある日突然に復活の主イエス・キリストとの衝撃的な出会いを体験し、それ以後、全く違った人間、全く違った価値観、全く違った信仰によって生きるものとされた。それゆえにそれまでは有利だと思っていたものがすべて損失となり、自ら誇っていたものがすべてちり芥となり、それまでは律法の義によって生きようとしていた者が、それ以後は主キリストを信じる信仰の義によって生きる者へと変えられた。それが、パウロにとって、キリスト・イエスに捕らえられられることだったのです。

 パウロはそのことを他の手紙の中で、いくつかの特徴的な表現で言い表しています。「主キリストによって罪の奴隷から贖われ、買い戻された」。「主キリストのもの、主キリストの所有とされた」。「主キリストの体に植えこまれた、移植された」。「主キリストを着せられた」。それが、主イエス・キリストに捕らえられることであり、主イエス・キリストの十字架の福音を信じてキリスト者になる、信仰者になるということなのです。

 このように、パウロは主キリストによって強く捕らえられているからこそ、彼自身もまた「何とかして捕らえようと努めているのです」。主キリストによって固く、強く、捕らえられているという根拠があるからこそ、その確かな事実があるからこそ、主キリストを捕えようとする彼の少しばかりの努力であっても、それは決して無駄に終わることはないし、間違ってはいないと確信できるのです。

 とは言っても、パウロは「既にそれを得たとか、完全な者になった」と思っているのでは全くありません。彼は自分の未熟と未完成を知っています。まだ道の途中にあることを知っています。このことは、6節の「律法の義については非のうちどころのない者でした」という彼の過去との対比の中で語られていると推測できます。かつてユダヤ教ファリサイ派の指導者として、律法を守ることによって完全な信仰者になろうとしていた彼は、だれよりも完璧にその道を進んでいると思っていたでしょう。律法の義を一つ一つ積み上げ、完全に近づいていると思っていたかもしれません。しかしながら、主イエス・キリストの十字架の福音を知ってからは、自分の力や努力で積み上げてきたそれらのものは、全く空しいものでしかなかった、本当の目標を目指しているものでもなかったということに気づかされたのです。

 ある解釈によれば、この個所にはパウロが反対している異端的なグループの考え方が反映されていると言われます。それは、霊的グノーシス主義者というグループです。このグループの人たちは、自分たちは神から与えられた特別な知識・グノーシスを持っているので、神と霊的に一体となり、この世の罪と汚れからすでに完全に清められている、すでに完全な救いを獲得している、完全になっていると主張して、十字架の福音を否定するようになっていたと考えられています。パウロの他の手紙をも参考にすると、初代教会を脅かしていた異端的な教えは9節で言及されていたユダヤ主義的律法主義とこのグノーシス主義との二つがあったのではないかと推測されています。いずれも、主キリストの十字架の福音によって救われるという、キリスト教信仰の中心を否定するものでした。

 そこでパウロは13~14節で、主キリストの福音を信じ、主キリストに捕らえられている信仰者の生き方について、より具体的に語ります。【13~14節】。

ここでパウロは信仰者の生き方を競技場での競争にたとえています。信仰者は競技場を走る一人の走者・ランナーだと言っています。同じようなたとえは、すでに2章16節でも用いられていましたが、他の手紙には多数見いだされます。2章16節には、「自分が走ったことが無駄でなく」とあり、ガラテヤの信徒への手紙やテモテへの第二の手紙4章7節でも、信仰生活を「走る」と表現しています。最も代表的な個所であるコリントの信徒への手紙一9章24節以下を読んでみましょう。【24~27節】(311ページ)。

信仰とはこのように活動的で、生き生きとしていて、常に前方に向かって進んでいきます。それは、主キリストによって捕らえられているからです。主キリストから常に新たに恵みを与えられ、常に新たに命と力とを注入され、常に新たに造り変えられていくからです。それは常に新しく語られる神のみ言葉の恵みと力と命であり、常に新たに注がれる聖霊の導きです。それは若くて活力がある人だけのことではなく、年老いて体の自由が利かなくなった人にも、病気で寝たきりの人にも、今死に行かんとしている人にも、すべての信仰者に当てはまることです。その人たちもまた主キリストによって捕らえられているからです。否、主キリストの恵みはそのような人たちにこそ、より豊かに与えられるのです。

13節で、「ただ一つ」と言われています。この一つのことだけが重要だという意味です。キリスト者にはただ一つの道だけが備えられています。「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、一つの目標を目指して走り続ける」ことです。スタートラインには主イエス・キリストがおられます。ゴールにも主イエス・キリストがおられます。主イエス・キリストはわたしたちの信仰の創始者であり、また完成者であられます。それゆえに、主イエス・キリストと共に、主イエス・キリストを仰ぎ見ながら、忍耐強く走りぬくことができるのです(ヘブライ人への手紙12章2節以下参照)。

「後ろのものを忘れ」とは、パウロにとっては4~6節に言及されている彼の誇るべき過去であり、その時にはまだ気づいていなかった罪とその悪魔的な力であり、ある人にとっては、大きな失敗やだれかを傷つけた暗い過去であり、だれかにとっては自分の業績や築き上げた財産であり、しかし今それらのすべてにはもはや縛られることなく、そのすべてを忘れ、そのすべてを後ろに投げ捨てて、ただひたすらに前方にあるものに向かって身を伸ばしながら、差し出されている目標を目指して走り続けること。これが主キリストによって捕らえられている信仰者の生き方です。それは何と確かな、命と希望に満ちた、それゆえにまた平安で幸いな道であることでしょうか。主イエス・キリストがご自身の十字架の死と復活によって勝ち取ってくださった罪と死とに勝利した道であり、主イエス・キリストご自身が先だち行かれた道だからです。

14節では続けて、「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために」と言われています。「上へ」とは、下ではなく上という意味ではなく、上とは天の方向、父なる神がいます方向のことです。信仰者は今は地に住んでいます。しかし、この地に最終的な目的地があるのではありません。墓場が最後に行きつく場所ではありません。この地上に何かを築くことが、あるいはこの地上から何かを得ることが、生きる目的なのでもありません。信仰者の目と心は上に、天に向けられます。信仰者が生きる方向は上に向かって、天に向かっています。

天にいます父なる神がみ子なる主イエス・キリストによって信仰者を上へと、天へと召していてくださるからです。「召す」とは、神の呼びかけであり、招きです。わたしたち人間がそこを目指して努力しなければならないのではありません。あるいは、一部の優秀な人間だけが、特権を持った人間だけがその道を進むことがゆるされるというのでもありません。神の召し、神の呼びかけ、神の招きは、主イエス・キリストを信じるすべての人に備えられています。ちなみに、この「召す」というギリシャ語から教会を意味するエクレーシアという言葉が生まれました。教会は上へと召してくださる神によって集められている信仰者の群れなのです。

神が上なる天において信仰者にお与えになる「賞」とは具体的に何でしょうか。すぐ前の11節から推測すれば、「死者の中からの復活」と言ってよいかもしれませんし、またこの後の20節によれば、信仰者の本国である天の国、神の国、21節の言葉で言えば、主キリストと同じ栄光ある体と言ってもよいでしょう。あるいは、救いの完成という言葉で総括できるでしょう。いずれにしても、前にも確認しましたように、その賞とは、わたしたちがこの地上で手にしたり、見たり聞いたりできるようなものとは全く違った、それらよりもはるかに勝った、尊く、永遠の輝きを持ったものであることは間違いありません。これまでのすべての信仰者たちがこの賞を得るために、この賞を目指して、この賞を待ちこがれながら、信仰の道を走り続けてきたのでした。旧約聖書の信仰者たち、預言者たち、主イエスの弟子たち、パウロとフィリピ教会の教会員たち、2000年の全世界の教会の民、そしてわたしたちの教会の先輩たちも、「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るためにひたすら走り続けて」きたのでした。わたしたちもまたそのように走り続けるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちの目と心と行いとが天にいます主キリストへと

向けられますように、絶えずあなたが命のみ言葉をもってわたしたち一人一人を導いてください。

〇主なる神よ、いま世界が恐れと不安の中で混乱しています。どうぞ、あなたのいやしと平安をお与えください。特に、弱い立場にある人たちをお守りください。

〇全世界のすべての国民、すべての人々に主キリストにある救いの恵みと平和をお与えくださいますように、切に祈ります。

 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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