3月29日説教「洗礼者ヨハネの説教」

2020年3月29日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書58章6~14節

    ルカによる福音書3章1~14節

説教題:「洗礼者ヨハネの説教」

 ルカによる福音書3章では、洗礼者ヨハネの登場と預言者イザヤの預言とを結びつけています。イザヤ書40章に預言されていた荒れ野で叫ぶ者の声が、洗礼者ヨハネの悔い改めのバプテスマの宣教として成就したと語っています。では、ヨハネが宣べ伝えた悔い改めのバプテスマとイザヤ書40章の預言とはどのように関連しているのでしょうか。

 「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」。この4節のみ言葉はイザヤ書40章3節からの引用ですが、イザヤ書40章3節では「主のために」「わたしたちの神のために」と繰り返されており、ルカ福音書では「主の道を」となっていることからも明らかなように、この道は主なる神ご自身が通られる道のことです。主なる神が通られるゆえに、主なる神のために平らでまっすぐな道を整えよと命じられています。それは、すべての人が神の救いを見ることができるためです。

 そうであるとすれば、谷や山、曲がった道やでこぼこの道とは、神が通られることを妨げ、神の救いを見ることを妨げている人間の罪、神に対する背きや不従順、かたくなさや傲慢のことであり、それを取り除けと命じられていることになります。それが、悔い改めのバプテスマを宣べ伝えるヨハネの使命だと言われているのです。そのヨハネの使命について、さらに考えてみましょう。

 本来、イザヤ書40章の預言は紀元前6世紀のバビロン捕囚の時代を背景に語られていると、多くの聖書学者は理解しています。神の民であるイスラエルは、神のみ言葉に聞き従わず、偶像礼拝や偽りの礼拝によって罪に罪を重ね、ついに紀元前587年に首都エルサレムがバビロン軍によって陥落させられ、神殿が焼き落され、王と指導者たち、民の多くが異教の地バビロンに捕虜として連れ去られました。それは、罪を悔い改めることをしなかったイスラエルの民に対する神の厳しい裁きでした。けれども、ご自身の民との契約を最後まで守られる神は、やがて裁きの期間が満ちて、彼らが約束の地へと帰還することがゆるされるであろうとイザヤは預言しました。それが、イザヤ書40章の預言の本来の内容だと考えられています。

 ルカ福音書はそのイザヤの預言を洗礼者ヨハネの登場に当てはめているのです。ここにはどのような意味があるのでしょうか。一つは、バビロン捕囚からの帰還と悔い改めのバプテスマとの関連についてです。バビロンの捕囚の地から民を連れ帰るのは神です。バビロンからエルサレムまでは砂漠地帯や、いくつもの丘陵地帯を超えて、およそ1000キロメートルの道のりです。その困難で遠い道を旅するのはイスラエルの民なのですが、ここでは「主なる神の道」と言われ、山や丘が削られ、谷が埋められ、道がまっすぐにされるのは「主なる神のため」であると言われているのです。神ご自身がその道を通られ、神ご自身が民を連れ帰られるのです。そうすることが可能になるために、イスラエルの民の罪や不従順、傲慢さやかたくなさが取り除かれなければならないと語られていることが分かります。洗礼者ヨハネが宣べ伝えた悔い改めのバプテスマとは、このことなのです。

つまり、悔い改めとは、人間の側が心や態度を改めて罪の道から引き返すということなのですが、本来は神の側から人間の方へと近づいてこられ、神の側からの一方的な憐れみと恵みによって罪のゆるしが差し出されるということなのであって、人間はその神に対して心を開き、従順な思いで神を迎え入れ、無償で差し出される罪のゆるしを、感謝と恐れとをもって受け取ること、それが、悔い改めなのだということを、わたしたちはここから知らされるのです。洗礼者ヨハネが宣べ伝えている悔い改めのバプテスマとは、まさにそのような悔い改めのことであり、そして、そのような罪のゆるしの恵みこそが、主イエス・キリストによってわたしたちに与えられている福音なのです。

 もう一つここで教えられることは、ヨハネの登場はイザヤ書の預言の成就と考えられているということ、すなわちヨハネはすでに預言の成就の時、新約聖書の時代に属しているということです。そうであるとともに、しかし、ヨハネはまだ預言の成就のすべてではありません。ヨハネはなおわずかに残っている預言の時代の最後の預言者として、彼のすぐ後においでになるメシア・キリスト・救い主の到来を預言しているのです。ヨハネによってすべての人が「神の救いを仰ぎ見る」のではありません。彼は、来るべきメシアに備えて、すべての人がメシアを迎え入れ、真実の悔い改めをもってメシアをわが救い主と信じ、迎え入れるように、その道を整えることが彼の務めです。

 7節からはヨハネの説教が語られます。この当時の洗礼(バプテスマ)は一般的にユダヤ人以外の異教徒がユダヤ教に改宗する際に行われていました。ヨルダン川に身を沈めてひとたび古い自分に死ぬ、偶像の神々を信じていた自分がそこで死んで、再びヨルダン川から立ち上がる時には新しい、イスラエルの唯一の神を信じる自分に生まれ変わっていることのしるしとして、バプテスマが行われていました。

 けれども、ヨハネのバプテスマは多くの点でそれとは違っていました。ヨハネのもとにバプテスマを授けてもらおうと集まってきたのは、神に選ばれたイスラエルの民・ユダヤ人でした。彼らは本来バプテスマを受ける必要はないと思われていました。しかし、ヨハネのバプテスマはイスラエルの民であれ、だれであれ、すべての人が神のみ前では罪びとであり、その罪を悔い改めて神に立ち帰らなければならないということを前提にしているように思われます。ヨハネのバプテスマは、来るべきメシア・救い主である主イエスの十字架の福音を前提にしており、その福音を信じる信仰によってのみすべての人は救われるという、唯一の救いの道へと人々を導いているのです。

 その唯一の救いの道をよりはっきりさせるために、ヨハネの説教はユダヤ人のいわゆる選民思想を根本から打ち砕きます。【7節b~8節】。ユダヤ人のいわゆる選民思想(自分たちは神に選ばれている民であるという優越感をもつこと)は、旧約聖書の時代からすでにありました。「自分たちには神の聖なる都エルサレムがある。神の家である神殿がある。だから自分たちは安全だ」とイスラエルの多くの指導者たちも考えていました。イザヤやエレミヤなどの預言者たちは、真実の神礼拝と神への服従を伴わない信仰は偽りの信仰であり、神はその民をお見捨てになる、その民はやがて滅びるであろうと預言しましたが、彼らはその預言に耳を傾けず、悔い改めることをしませんでした。その結果として、イスラエルはバビロン捕囚という悲劇を経験したのでしたが、それでもなおも、彼らは「我々には偉大な信仰の父アブラハムがいる。自分たちはその子孫だから神の救いが約束されている」という選民思想から抜け出すことができず、真実の悔い改めをしようとしませんでした。

 洗礼者ヨハネはそのようなイスラエルの民・ユダヤ人に厳しい裁きの言葉を語ります。「神の怒りからだれも逃れることはできない」と。だから、「悔い改めにふさわしい実を結べ」と。ヨハネのこのような厳しい裁きの言葉は、彼のあとにおいでになるメシア・キリストである主イエスの救いの福音をあらかじめ前提にしているということにわたしたちは注目したいと思います。つまり、神が主イエス・キリストによって最終的に救いを成就されるその時にこそ、人間の罪もまた明らかにされるのだということです。ヨハネの厳しい裁きの言葉は主イエス・キリストの十字架の福音を証ししているのだということです。来るべきメシアである主イエス・キリストの福音を聞くときに、ユダヤ人であれ、だれであれ、その人自身が生まれつき持っている何かとか、その人が蓄えた何かとか、その人が努力した何かとかによって救われるのではない。だれもが、主イエス・キリストの十字架の福音の前では、自らの罪を告白しなければならないし、自らの生きる道の方向転換をして神に立ち帰らなければ救われないということを、ヨハネの説教は明らかにしているのです。ヨハネの説教は主イエス・キリストの福音への招きなのです。

 したがって、ヨハネの説教はユダヤ人のいわゆる選民思想を根本から打ち砕くとともに、先に神に選ばれたユダヤ人だけでなく、すべての国民、すべての人が主イエス・キリストの福音を信じる信仰によって救われるということをも語っています。それまでは異邦人がユダヤ教に改宗する際の儀式であったバプテスマが、ユダヤ人の悔い改めをしるしづけるバプテスマとなったことによって、すべての人に救いの道が開かれました。「神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」とヨハネが語ったように、神は不従順でかたくなな民であったユダヤ人から真実の信仰を生み出すことがおできになり、また神を知らず、偶像礼拝や偽りの神々に支配されていた異邦人からも、真実の信仰を生み出すことができるのです。神は無から有を呼び出だすことができ、死から命を生み出すことがおできになります。来るべきメシア・救い主・主イエス・キリストの福音は、ユダヤ人をはじめ、異邦人をも、すべての人を救いへと招く神の全能の力と命とを持っていることを、ヨハネの説教は語っています。

 ヨハネの説教のもう一つの特徴は、神の怒りと裁きとが目前に迫ってきているという緊迫感です。これを終末論的と表現してよいでしょう。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」(7節b)。そして【9節】。来るべきメシア・キリストの到来とその福音は救いの成就の時であると同時に、それはまた終末の時の神の最後の審判が迫っていることのしるしでもあります。主イエスご自身も説教の中でしばしば神の国の完成と終末の裁きについて語っておられます。主イエス・キリストの到来とその福音は、その説教を聞く人に終末論的な決断を迫るのです。その福音を信じ、悔い改めて神に立ち帰り、救われ、永遠の命を受け取るか、それとも、それを拒み、かたくなに罪と滅びの道を進み、神の最後の裁きを滅びとを受け取るのか、その二つの道の一つを選び取る決断を迫るのです。わたしたちが毎週の主の日に礼拝をささげ神のみ言葉と説教を聞くということはその選択の時でもあるのです。

 けれども、ここで重要なことは、終末の時が近い、神の最後の裁きの時が迫っているというヨハネの説教は、脅しではなく、強制でもなく、わたしたちを恐怖心を抱かせるためのものでは決してありません。また、不信仰な人を切り捨て、見捨てることでもありません。「斧は既に木の根元に置かれている」、けれども、それはまだ振り落とされてはいません。木はまだ切り倒されてはいません。なおも神の憐れみの時、招きの時が残されているのです。主の日の礼拝は、その神の憐れみの時、救いへの招きの時なのです。

(執り成しの祈り)

○主なる神よ、わたしたちに従順な悔い改めの心をお与えください。あなたの招

きのみ言葉を聞くとき、直ちに、喜んで、招きに応える信仰の決断をお与えください。

〇主なる神よ、いま世界が恐れと不安の中で混乱しています。どうぞ、あなたのいやしと平安をお与えください。特に、弱い立場にある人たちをお守りください。

〇全世界のすべての国民、すべての人々に主キリストにある救いの恵みと平和をお与えくださいますように、切に祈ります。

 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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