4月5日説教「わたしたちの罪のために苦しまれた主イエス」

2020年4月5日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:ヘブライ人への手紙12章1~3節

    イザヤ書53章1~12節

説教題:「わたしたちの罪のために苦しまれた主イエス」

 教会の暦では、きょうは棕櫚(しゅろ)の主日と言い、今週は受難週です。主イエスの地上での最後の一週間の歩みが始まります。主イエスはこの日に、ロバに乗ってエルサレムに入場され、人々は棕櫚の枝を手に持ってお迎えしたと福音書に書かれていることから、そう呼ばれることになりました。四つの福音書はいずれも全体の半分近くのページで、この最後の一週間の歩みを記録しています。主イエスのお働き、その救いのみわざは、この最後の一週間に集中しています。主イエスのご受難と十字架の死にわたしたちの救いの中心があります。きょうはイザヤ書53章のみ言葉から、主イエスのご受難とわたしたちの救いの恵みについて聞いていきたいと思います。

 イザヤ書には「主の僕(しもべ)の歌」と言われている箇所が4つあります。42章1~4節、49章1~6節、50章4~9節、そしてきょうの個所です。4つ目の「主の僕の歌」は実は52章13節から始まっています。【13節】。他の3つの「主の僕の歌」でもすべてそうですが、神はここで預言されている人物を直接に「わたしの僕」と呼んでおられます。僕とは奴隷のことです。奴隷は当時は主人の所有物と考えられていました。奴隷の命と持ち物、彼の人生のすべては主人のものであり、奴隷は主人のために生き、仕え、働き、そして主人のために死ぬのです。奴隷はそのように生き、死ぬことを彼の最高の喜びとします。彼の全生涯とその歩みのすべてが主人によって守られ、導かれているからです。それゆえに、信仰者が神から「わが僕」と呼ばれることは最高に名誉ある、光栄に満ちたことなのです。

 イザヤ書の4つの「主の僕の歌」では、主なる神によって選ばれて神の所有とされ、神から託された使命を果たし、神の救いのみわざのためにその生涯をささげ尽くす信仰者が描かれています。特にその中の4番目の歌は、「苦難の主の僕の歌」と言われ、彼は自らの苦難の生涯を通して主人である神に仕えるということが強調されています。僕の弱さと貧しさ、苦しみと痛み、そしてまた屈辱と迫害の中で、自分の命を犠牲にし、そのすべてをささげ尽くすことによって、主なる神の救いのみわざを完成することが強調されています。この苦難の主の僕は旧約聖書の中で最もはっきりと、最も強烈に、主イエス・キリストのご生涯を、その苦難と十字架の死を預言するみ言葉であることは言うまでもありません。イザヤが預言したこの苦難の主の僕こそが、わたしたち罪びとのために苦しみを受けられ、十字架につけられ、そして三日目に復活された主イエス・キリストにほかなりません。

 イザヤ書53章を内容から見て5つの部分に分けることができます。第一は1~3節、ここでは僕が貧しさと人々の軽蔑の中で生まれ育ったことが語られ、第二の4~6節では他者のための病と苦痛に耐え忍んだことが、7~8節では苦役の中でその命を奪い取られ、死んだことが、9節では屈辱と共に葬られたことが語られており、そして最後の10節以下では、彼の苦難と死が多くの罪びとたちの罪を贖い、救いとなって神のみ心を成し遂げたことが、信仰告白として語られています。この順序とこの内容をみると、わたしたちはここに『使徒信条』によって告白されている主イエスのご生涯と重なり合うことに気づかされます。「主は……おとめマリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につかられ、死んで葬られ、陰府にくだり、三日目に死者のうちから復活し」という主イエスのご生涯がここに預言されていることに気づかされます。

 では、第一の、主の僕の見栄えのしない貧しさの中での誕生とその軽蔑された生涯についてのみ言葉を読んでみましょう。【1~3節】。1節の「誰が信じえようか」。「誰に示されたことがあろうか」という二つの疑問形は、全くだれもそう信じることができない、だれもそのことに気づくことはないということを強調しています。つまり、神のみわざは人間の目には全く理解できず、予想もできないかたちで現わされるということです。罪びとである人間の目には神の救いのみわざは隠されています。人間はだれも自らの知恵や能力や努力では神を知ることはできません。神に近づくことはできません。神は全く新しい救いの道を備えられました。人間が期待するような力強さや高さや誇りある英雄の姿によってではなく、貧しく低く、否それのみか、だれもが忌み嫌い、避けて通るような屈辱的な道によって、神は救いの恵みを差し出そうとされたのです。

 それは、使徒パウロがコリントの信徒への手紙一1章19節以下で書いているように、救いが人間の知恵によらず、ただ十字架の福音を宣教するという愚かな手段によって、信じる人々を救うためであり、だれも神のみ前では誇ることがなく、ただ主イエス・キリストだけを誇るためです。それによって、ユダヤ人だけでなくすべての民が救われるため、また知恵ある者や力ある者たちを辱め、無力な者たちをこそ救うためです。

 わたしたちは福音書に記されている主イエスの誕生の情景を思い起こします。ガリラヤ地方のナザレに住むヨセフとマリア、聖霊によって身ごもったおとめマリア、家畜小屋での誕生、夜の羊飼いたち、そして布にくるまって飼い葉おけの中に寝かされた幼子、それらはみな、そこで起こっている出来事の低さ、貧しさを言い表しています。天におられる主なる神は、わたしたち罪びとたちを救うために、ご自身が徹底して貧しく低くなられ、人間のお姿となられて、この世においでくださったのです。そして、わたしたち罪びとの一人となってくださったのです。そして、すべての人のための救いの道を開かれたのです。

 次の4~6節を読みましょう。【4~6節】。ここでは、主の苦難はわたしたちのための苦難であったことが繰り返して語られています。「わたしたちの」「わたしたちのため」「わたしたちに」「わたしたちは」という言葉が何度も用いられています。主の僕の生涯は徹底してわたしたちのためにあったのです。彼の病と痛みとは本来わたしたちが受けるべき病と痛みであったのに、それを彼がわたしたちに代わって担ってくださったのです。彼が神に打たれ、苦しめられ、傷を負ったのは、わたしたちの罪と背きのためであり、本来わたしたちが受けるべきであった神の裁きを、彼がわたしたちに代わって引き受けてくださったのです。そして、彼が受けた懲らしめ、彼が受けた傷によって、わたしたちに平和が与えられ、神との和解が与えられ、わたしたちはいやされたのです。彼の苦難に満ちた生涯のすべては、わたしたち罪びとたちのためであり、わたしたちの罪のゆるしのためだったのです。神はそのようにして、わたしたちを罪から救おうとされたのです。これが主イエス・キリストのご受難の意味です。

 6節には、主の僕の徹底した他者のための生き方とは対照的な、徹底して自分自身のための生き方をしていたわたしたち人間の罪の姿が描かれています。【6節】。罪の人間はみなおのれ自身に向かっています。自己追及の生き方であり、自己中心的で、自己目的で、自己実現の道を目指しています。自分の楽しみや喜び、満足を追い求める生き方です。しばしば、隣で傷つき苦しむ人を見過ごしにし、時には他の人を踏みつけ、押しのけ、また自己を誇り、他者をねたみ、そのようにしてすべては自分を中心にして、自分を目的にした生き方です。

 けれども、ある人は言うかもしれません。「そのような生き方がなぜ悪い。自分の利益を求めることが悪なのか。人はみな自分のために生きてよいのではないか」と反論するかもしれません。しかし、わたしたちは今、目の前に映し出された苦難の僕の姿を見る時、彼が徹底して他者のために生き、苦しみ、そして砕かれた苦難の僕の姿を見る時に、そのような自己中心的な生き方が裁かれているということにわたしたちは気づかされるのです。わたしたちはみなそのような真実の牧者を失ってさまよっていた失われた羊たちであったのだということに気づかされるのです。

 7~8節では、苦しめられ、虐げられながらも、死に至るまで従順に、しかも沈黙を守り通された苦難の僕の姿が描かれます。【7~8節】。わたしたちはこの個所まで読み進んでくると、これこそがまさにわたしたちの罪のために十字架への道を進み行かれた主イエス・キリスト、そのお方に他ならないとはっきりと知らされます。主イエスは罪なき神のみ子であられたにもかかわらず、罪人の一人に数えられ、裁かれ、しかもご自身を少しも弁護なさらず、ご自身を救おうとはなさらずに、ポンティオ・ピラトの前で沈黙を貫きとおされ、人々のあざけりの中を、ゴルゴタの丘まで十字架を背負われ、苦しみと恥と無力さの極みの中で死なれた主イエス。十字架の死に至るまで罪びとたちのためにご自身のすべてをささげ尽くされ、死の極みまで罪びとと共にあろうとされた主イエス。この主イエス・キリストこそがわたしたちの罪を贖い、わたしたちの病める魂をいやし、わたしたちに永遠の平安をお与えくださる唯一の救い主であられます。

 9節は主の僕の葬りについて言及されています。【9節】。わたしたちはゴルゴタの丘の上に立つ3本の十字架、二人の犯罪人の真ん中に立っている主イエスの十字架を思い浮かべます。主イエスはまさに罪びとの一人に数えられ、わたしたち罪びとたちのまっただ中に立っておられます。わたしの死のただ中にも主イエスの十字架は立っています。死に赴くわたしと主は共にいてくださいます。

 最後に、10~12節では、僕の苦難と死が神のみ旨であったこと、そして僕の苦難と死が多くの人を義とし、豊かな実りをもたらすことが告白されています。ここでは、主イエスの復活が暗示されているように思われます。主イエスの復活は罪と死に対する勝利のしるしです。12節にこのように書かれています。「それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで、罪びとの一人に数えられたからだ」。主の僕は何かの理想のために命をかけた英雄ではありません。むしろ、自らの罪ゆえに死にしか値しなかったわたしたち罪びとたちのために、ご自身のすべてを投げ捨てられ、ご自身の命のすべてを注ぎつくして、消耗しつくすまでにして、わたしたちを愛されたのです。わたしたちはこの苦難の主の僕であられる主イエス・キリストによって救われているのです。「わたしたちの信仰の創始者であられ、また完成者であられる主イエス・キリスト」を仰ぎ見ながら、信仰の馳せ場を、忍耐強く走りぬいていきましょう。

(執り成しの祈り)

○主なる神よ、み子の十字架のお苦しみを思い、またその愛と救いの恵みを覚え、

心から感謝いたします。どうか、この受難週のわたしたち一人一人の歩みをお導きください。

○大きな不安と混乱の中にある世界を、主よどうか憐れんでください。全世界の

民をお守りください。あなたのみ心をお示しください。

○神よ、あなたが選び、お集めになった主の教会もまた、恐れと弱さの中で苦悩

しています。どうか、み言葉の上に固く立つ勇気と希望をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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