4月12日説教「主キリストの復活を信じる」

020年4月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教(復活日・イースター)

聖 書:ヨブ記19章23~27節

    コリントの信徒への手紙一15章1~11節

説教題:「主キリストの復活を信じる」

 きょうの復活日礼拝で朗読されたコリントの信徒への手紙一15章は「復活の章」と呼ばれています。この長い1章には、主イエス・キリストの復活の出来事と、それを信じるわたしたち信仰者に約束されている終わりの日の体の復活について語られています。この章はこの手紙全体の頂点、または中心であると言えます。それはまた、使徒パウロの信仰と神学、キリスト教の神学と教理の頂点、または中心でもあり、さらにはわたしたちキリスト者の信仰と信仰告白の頂点、中心でもあります。

きょうは1~11節のみ言葉を学びますが、その終わりの部分の10節で、パウロの次のように言います。【10節】。「わたしがきょうあるのは、神の恵みによる。すなわち、神が主キリストの十字架と復活によって人類の罪をゆるしてくださった。そして、この取るに足りない、いと小さなものに過ぎないわたしにも、復活の主キリストが現れてくださった。それによって、以前は教会の迫害者であったこのわたしを、今は主キリストの福音を宣べ伝える使徒として働く者に造り変えてくださった。この大きな神の恵みによって、わたしは今あるを得ている」。そのようにパウロは言うのです。

わたしたちがここから知らされる重要なことは、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事を信じ、復活の主キリストとの出会いを経験することによって、わたしのすべてが変えられ、わたしが神から託された新しい務めに生きるようにされるのだということです。主キリストの十字架と復活を信じる信仰は、古いわたしの死と、新しいわたしの創造という、驚くべき出来事を信じる人の中に、わたしの中に生み出していくのだということです。

したがって、主キリストの十字架と復活の出来事それ自体を、どれほど深く学び、探求していっても、それを信じるということなしには、そして復活の主キリストとの生ける出会いの経験なしでは、だれもその恵みを十分に受け取ることができないということでもあります。復活日の礼拝に招かれているわたしたち一人一人が、神の命のみ言葉を聞き、聖霊によって復活の主キリストとの真実の出会いを経験し、神から差し出されている大きな恵みを共に受け取りたいと願います。

パウロは彼が受けた恵みについて語るに当たって、3節でこのように言います。【3節a】。神から与えられた恵みのもととなっている主キリストの福音はパウロ自身が初めに考え出したものではなく、彼はそれを「自分も受け取ったもの」であると言います。つまり、パウロはその福音を彼が宣教を始める前に初代教会の中で受け継がれてきた福音であると言っています。パウロがコリントの町で福音宣教を開始したのは、第二回世界伝道旅行の後半の紀元51年ころと推測されています。そして、この手紙を書いているのは紀元55年ころと考えられますが、それ以前にすでに初代教会の伝承によって受け継がれてきた福音の内容を、パウロはここで引用しています。

その内容が3節後半からです。【3節b~5節】。この個所を読んですぐに気づくことは、この内容はわたしたちが今日礼拝で告白している「使徒信条」に非常によく似ているということです。「使徒信条」ではこうです。「主はポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、陰府にくだり、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って……」。これと同じように、ここに引用されている初代教会の信仰告白では、主イエス・キリストの死、葬り、復活、そして顕現(復活された主イエス・キリストがご自身のお姿を弟子たちに現わされたこと)という4つの内容が言い表されています。これが初代教会で最初に作成された信仰告白と考えられ、それがもととなって紀元4世紀ころになって、今日わたしたちが告白している「使徒信条」にまとめられたのであろうと考えられています。

そこできょうは、ここで告白されている4つの内容を、主イエスの死と葬り、復活と顕現の二組に分けて、それぞれの関係を見ながら学んでいきたいと思います。

まず、主イエスの死と葬りは彼がまさにわたしたち人間と全く同じ人間となられたことを語っています。わたしたちのだれもがこの生涯の終わりに死んで墓に葬られるのと同じ道を主イエスが歩まれたことを言い表しています。主イエスは十字架につけられ、十字架の上で息を引き取られ、確かに死なれ、そしてその死がわたしたち人間の死と全く同じであることの確かなしるしとして、墓に葬られました。主イエスの死と葬りは、彼がまさにわたしたち罪びとたちと同じ人間の一人となられ、わたしたち罪びとたちと同じ道を歩まれ、死に至るまでわたしたちと共にいてくださったことの確かなしるしなのです。

それとともに、3節に「聖書に書いてあるとおり」とあるように、主イエスの死と葬りは旧約聖書に預言されていたメシア・救い主の死と葬りであったことがここでは告白されています。彼の死と葬りは旧約聖書の預言の成就だったのです。主なる神の永遠の救いのご計画の成就だったのです。

では、その預言は旧約聖書のどの個所を指しているのかは、ここには書かれていませんが、わたしたちは先週の受難週礼拝で聞いたイザヤ書53章の「苦難の主の僕(しもべ)」の歌」を直ちに思い起こします。【イザヤ書53章7~8節】(1150ページ)。続けて9節では僕の死について預言されています。【9節】。主イエスの死と葬りとは、旧約聖書の預言者たちをとおして神が預言されたメシア・キリスト・全世界の救い主の死と葬りだったのです。それゆえに彼の死と葬りとは、死すべきわたしたち人間の救いの出来事だったのです。

それが、「わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと」という告白の中に、「わたしたちの罪のために」という言葉が挿入されていることの意味です。主イエスのご生涯のすべて、特にそのご受難と十字架の死、そして葬りは、すべてがわたしたちの罪のためであったのです。わたしたちを罪の奴隷から救い出し、神との和解と交わりへと導き入れる救いのためだったのです。

次の復活についても、それが旧約聖書の成就であったと4節で告白されています。では、メシアの復活について預言されている旧約聖書はどこを指しているのか、それもここには書かれていません。いくつかの個所を挙げることができます。きょうの礼拝で朗読されたヨブ記19章が挙げられます。25節には「わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう」と書かれています。詩編16編10~11節にはこう書かれています。「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださいます」。また、ホセア書6章1~2節ではこう預言されています。わたしたちが礼拝の最初に聞いた「招きの言葉」です。「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし、我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。我々はみ前に生きる」。

主イエスの復活は、主イエスが罪と死とに勝利されたことの確かなしるしです。主イエスは死の墓をふさいでいた大きな石を取り除き、墓から出て、墓を空にされました。墓はもはや人間が最後に行きつく終わりの場所なのではなく、そこから復活の命が始まる場所となったのです。

「復活した」と訳されている箇所は正確には「復活させられている」であり、文法的には受動態の現在完了形です。受動態は全能の父なる神が主イエスを復活させてくださったことを言い表し、現在完了形はそのことがずっと続いていることを言い表しています。主イエスは罪と死の勝利者として、今も生きておられ、主イエスを信じる者たちをご自身の体なる教会に呼び集め、その体の頭として、わたしたち信じる者たちの救い主として、君臨しておられることが告白されているのです。教会の歩みとわたしたち一人一人の信仰の歩みは主イエス・キリストの復活から始まっています。その歩みは、すべて命あるものの歩みがそうであるのと同じに、生まれてから死へと向かっていく歩みであるのではなく、死から命へと向かっていく歩みであり、死に勝利されて復活された主イエス・キリストが新しくお始めくださった歩みであり、終わりの日の永遠の命の完成へと向かっていく歩みです。

主イエスの復活に続いて、復活された主イエスがご自身の姿を弟子たちに現わされた顕現のことが告白されています。ケファは12弟子の一人、また初代教会のリーダーとなったペトロのこと、それから12弟子、また6節からは五百人以上の人たち、それから主イエスの兄弟であるヤコブ、その他の使徒たちが復活の主イエスの顕現を経験した人としてあげられています。これらの顕現の一部については福音書の最後の部分と使徒言行録の初めの個所に描かれていますが、これらの人たちが最初の教会、初代教会の基礎を形成していったことが分かります。教会は主イエス・キリストの復活の証人たちを土台として形成されています。

そして、パウロは8節で復活の顕現を経験した人たちの最後に、自分自身を挙げています。パウロの場合は、厳密な意味での復活の顕現とは違っていると理解しなければなりません。使徒言行録によれば、復活された主イエスは40日間にわたって弟子たちに復活のお姿を現され、そののち天に昇って行かれたからです。そのあとでは、直接に主イエスの姿を目で見ることはだれにもできません。パウロの場合には、主イエスの復活から数か月後、あるいは数年後に経験したことを言っているのですが、パウロはそれをあえてここでは他の弟子たちと同じ復活の顕現に加えています。彼にとって、主イエスとの出会いの経験は、それほどに強烈で、現実的で、鮮明で、あたかも復活の主イエス・キリストご自身がそのお姿を彼に現わされたように思われたのでした。

そして、復活の主イエス・キリストとの出会いが、教会の迫害者であったパウロを、主キリストの福音を宣べ伝えるための教会の働き人として造り変え、ユダヤ教の律法によって生きていたパウロを、主イエス・キリストの福音を信じる信仰によって生きるパウロに造り変えたのです。主イエス・キリストの復活の命と恵みが、きょうの礼拝に集められたわたしたち一人ひとりにも豊かに与えられるようにと祈り求めましょう。

(執り成しの祈り)

○命の主なる神よ、わたしたちの朽ちいく体に復活の命を注いでください。主イ

エス・キリストの復活の命に満たされて、あなたのご栄光のために仕える者としてください。

○大きな不安と混乱の中にある世界を、主よ、どうか憐れんでください。全世界

の民をお守りください。あなたのみ心をお示しください。

○神よ、あなたが選び、お集めになった主の教会もまた、恐れと弱さの中で苦悩

しています。どうか、み言葉の上に固く立つ勇気と希望をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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