5月10日説教「主にあって常に喜びなさい」

2020年5月10日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書57章14~21節

    フィリピの信徒への手紙4章1~9節

説教題:「主にあって常に喜びなさい」

 「喜びの書簡」と呼ばれるフィリピの信徒への手紙の中には「喜び」という言葉が二十数回用いられています。もう一つ、この手紙の中で頻繁に繰り返される言葉があります。それは「主において」あるいは「主イエス・キリストにおいて(これは「主イエス・キリストに結ばれて」と訳されたりします)という言葉です。フィリピの信徒への手紙では21回用いられています。パウロの他の手紙でも、「主にあって」あるいは、それに似た表現は数多く用いられており、パウロの神学、パウロの信仰の大きな特徴を表す言葉です。きょうはまず初めに「主にあって」という言葉について学んでいきたいと思います。

 きょう朗読された箇所からそれを抜き出してみましょう。1節、「主によってしっかりと立ちなさい」、2節「主において同じ思いを抱きなさい」、4節「主において常に喜びなさい」、7節「キリスト・イエスによって守るでしょう」。この個所だけでも4回繰り返されています。ギリシャ語では「エン」(英語の「イン」にあたる)は「~の中で」という意味を持っており、聖書では「~にあって、~によって、~において、~に結ばれて」などと、それぞれの文脈で違った訳が付けられています。

 では、具体的にどのような意味を持つのでしょうか。「主キリストにあって」とは、最も広い意味で理解するならば、主キリストとの交わりの中でということになるでしょう。主キリストを信じる信仰によって、主キリストにつながれて、主キリストの十字架と復活の福音を聞き、主キリストの救いの恵みを受け取り、主キリストに支えられ、導かれながら、主キリストが先立ち行かれた天のみ国、神の国への旅路を続ける、そのような信仰者の生き方全体を規定する言葉が「主キリストにあって」であると言ってよいでしょう。つまり、わたしたち信仰者の存在と命と生活の起源、出発点が主キリストにあるということ、また、わたしたちの今、現在が主キリストにあり、さらには、わたしたちの将来、目的地もまた主キリストにある、そのすべてを含んで、パウロは「主キリストにあって」と表現していると理解できます。

 1節では「だから……このように主によってしっかりと立ちなさい」とパウロは勧めています。フィリピの教会が、教会の内と外からの攻撃や誘惑の中でも、決して動揺することなく、恐れることなく、固く立ち続けることができるために、前の個所、3章21、22節で書いたように、今は天の父なる神の右に座しておられる主イエス・キリストとの聖霊による豊かな交わりの中にあって、主キリストの十字架の福音を信じつつ、主キリストの再臨を待ち望みつつ、天に国籍を持つ者として生きるようにとパウロは勧めています。これが、「主にあって」という短い言葉の中に含まれている大きな、そして豊かな内容なのです。主こそが、主イエス・キリストこそが、フィリピ教会の、そしてわたしたち一人一人の、生きる根拠、土台、基礎であり、また、今の時を生きる支え、導きであり、そしてまた、生きる目標、目的、完成なのです。たとえ、今の時がどれほどに厳しい時代であれ、混乱と不安に覆われた時代であるとしても、「主キリストにあって」堅く立ち続けることができるのです。

 2節では、フィリピ教会の二人の婦人の名前が挙げられています。【2節】。この二人の婦人は教会でよき働きをし、パウロと共に福音宣教のための戦いをしてきたと3節に書かれていますので、パウロ自身もよく知っている婦人だったと思われます。二人の婦人たちの間に何かトラブルがあったのでしょう。パウロはこの二人に「主にある」和解と一致を勧めています。「主において同じ思いを抱く」とは、主キリストにあって一つの同じことに思いを集中するという意味です。人はそれぞれ考え方や意見の違いがあり、行動の仕方も違うでしょう。そのような個性を認めないような一致は、悪しき全体主義です。主キリストにある真実の一致とは、人間やこの世界にあるさまざまな違いを認めつつ、そのすべて超えた所にある一致です。共に主キリストによって罪をゆるされ、共に主キリストの体なる教会の交わりの中に招き入れられ、共に主キリストの福音宣教のための証し人、働き人として召されているという一致です。ここから、真実の和解が与えられます。

 4節の「主において」については最後に取り上げることにして、7節を先に読んでみましょう。【6~7節】。「キリスト・イエスにおいて」という言葉は、原文のギリシャ語では7節の文章の最後に置かれ、強調されています。そこから理解すると、この言葉は7節全体、あるいは6節にも関連していると思われます。すなわち、「人知を超える神の平和」と、「感謝を込めて祈りと願いをささげる」ことと、「思いわずらわない」ことのすべてが、主イエス・キリストにあってこそ与えられるのであり、可能になる、可能にされているということです。

 まず、「神の平和」は人知を超えたものと言われています。人間がこの地上で実現したり築き上げたりできるような平和とは全く違った、主イエス・キリストによって与えられた神の平和ということです。人間が考えたり実現したりできる平和がいかにもろく、頼りない平和であるかということは、だれもが気づいています。しかし、それでもなおも人間は真実の平和を願い求め続けます。それができるのは、神がお与えくださる永遠の平和があると聖書に証しされ、約束されているからです。人間が持つすべての武器を農具に変え、人間たちの貪欲や怒り、背きや争いをすべて終わらせ、神が全世界とすべての国民の唯一の主として崇められる、神の国の平和を神ご自身が創造してくださると言われているからです。そして、神はそのような永遠の平和を主キリストの十字架と復活の福音によって、今すでに現実にお始めになっておられるということを、わたしたちは信じるからです。神がわたしたち人間の罪をゆるされ、神と人間との間の完全な和解をお与えくださった。そして、わたしたちを一つの神の民としてお招きくださり、み国の民として下さった。この神の平和によって、わたしたちは守られているのです。

 それゆえに、わたしたちは思い煩う必要はありませんし、思い煩うべきではありません。思い煩いは神の平和に対する不信仰であり、神の平和を否定し、破壊することでもあります。主イエスはマタイ福音書6章の山上の説教でこう言われました。「何を食べようか、何を着ようかと、思い煩うな。空の鳥を見よ、野の花を見よ。神は彼らの命をも養い、育てておられる。ましてや、あなたがた人間のためにはなおさらではないか」と。わたしたち一人一人の罪のゆるしのために、ご自身の独り子さえも惜しまずに十字架の死に引き渡された神が、その大きな愛によってわたしたちを愛していてくださるのであるならば、何ものであれ、だれであれ、わたしたちをこの神の愛から引き離すことはできません(ローマの信徒への手紙8章31節以下参照)。

 そうであるからこそ、わたしたちは「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明ける」ことができます。神はわたしたちが求めない先から、わたしたちに必要なものを知っておられます。否それのみか、神はわたしたちが求めるよりもはるかに勝った大きな恵みをもって、わたしたちの祈りに応えてくださいます。このことについてもまた、主イエスはマタイ福音書6章で繰り返して教え、約束しておられます。

 最後に4節の「主において」を学びましょう。【4~5節】。この4節には、フィリピの信徒への手紙で特徴的な二つの言葉である「喜び」と「主にあって」とが結びつき、さらには「常に」という言葉が付け加えられています。この手紙でパウロが強調して語っている「喜び」とはどのようなものであるのかということが、ここには最も的確に言い表されていると言ってよいでしょう。主イエス・キリストにある喜びこそが本当の喜びであり、いつでも、どのような時にでも、どのような状況の中でも喜ぶことができる、永遠の喜びであるということです。なぜならば、主キリストにある喜びとは、主キリストが与えてくださる喜びであり、主キリストと共にあることによって与えられる喜びであり、主キリストが絶えずいつもわたしと共におられ、わたしのために新しく作り出してくださる喜びであるからです。

 当時のフィリピ教会とパウロの状況を考えてみましょう。紀元50年代、フィリピ教会は誕生してまだ10年足らずの若く弱い群れでした。外からはユダヤ人とローマ帝国からの迫害があり、内からは異端的な教えの誘惑がありました。パウロはと言えば、今牢獄に捕らえられ、最終的な判決を待っています。死刑も予想されます。そのような状況の中で、パウロはそれにもかかわらず、「わたしは喜んでいる。あなたがたも喜びなさい。いつも喜びなさい」と繰り返して言うのです。主キリストを信じる信仰者にとっては、いつでも、どのような時にでも、主キリストにある喜びに生きることができる。いや、そうであるだけでなく、迫害や試練の中にある時にこそ、主キリストにある喜びがその真価を発揮するのだ。この世の人々が恐れや不安に襲われ、悲しみや嘆きに心が閉ざされる時にこそ、主キリストを信じる信仰者に与えられる主にある喜びは、その輝きを増し加え、信じる者たちに力と勇気とを与え、この世界がどのように揺れ動くとも、信仰によって固く立たせてくれる、そのような喜びなのだということです。

 次の5節で「主はすぐ近くにおられる」ということが、その喜びをより確かなもの、より力強いものにします。「主が近くにおられる」とは、主イエス・キリストが信仰によってわたしの近くいてくださるという意味だけではなく、その意味をも含みますが、主キリストの再臨の時が近いという意味です。主キリストが再臨する時、信仰者は天に引き上げられ、神の国へと招き入れられます。神の国においては、もはや悲しみも痛みも死もなく、永遠に神と共にあり、消えることがない最高の喜びに満たされます。主イエスは福音書の終わりの個所で、神の国が完成されるときの盛大な晩餐会、結婚式の喜びについて何度も語っておられます。今信仰者に与えられている「主にある喜び」は、終わりの日の主キリストの再臨の時に与えられる大きな喜びの先取りと言ってよいでしょう。

 「主は近い」。だから「主において常に喜びなさい」。これがフィリピ教会に与えられている喜びであり、またわたしたちの群れにも与えられている喜びなのです。

(執り成しの祈り)

○主なる神よ、あなたがみ子によってわたしたちにお与えくださった平和と喜

びをわたしたちの中に満たしてください。また、全世界とすべての人々をも、あなたの真実の平和と喜びで満たしたください。

○神様、全世界の人々が今ウイルス感染症によって苦悩しています。苦しんでい

る人たち、悲しんでいる人たち、労苦している人たちを、どうかあなたが慰め、励まし、希望をお与えくださいますように。

○この時に、あなたがお選びくださったあなたの民、教会の民を、どうか力づけ

てください。このような時にこそ、地の塩、世の光として、主イエス・キリストの福音を証ししていくことができますように、導いてください。

主のみ名によって祈ります。アーメン。

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