5月17日説教「カインの末裔-裁きではなくゆるしを」

マタイによる福音書18章21~35節

2020年5月17日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記4章13~26節

    マタイによる福音書18章21~35節

説教題:「カインの末裔―裁きではなくゆるしを」

 「カインの末裔」というきょうの説教題は、作家の有島武郎が1917年(大正6年)に発表した小説の題からつけたものです。創世記4章のカインとアベルの物語は、嫉妬や憎悪の思いに支配されて罪と復讐を繰り返していくというテーマで、多くの小説や映画の題材になりました。また、少し違った視点からカインとアベル物語を取り上げたドイツの作家ヘルマン・ヘッセは『デミアン』という小説を書いています。わたくしは青年時代に、この二つの小説を同じ時期に読み、人生や信仰について真剣に考えるきっかけとなったことを思い起こします。

創世記に描かれている神によって最初に創造された人間とその子孫たち、アダムとエバ、カインとアベル、そしてノア、またアブラハム、これらの人物はまさにその末裔である今日のわたしたち人間一人一人の原型であるのだと言ってよいのではないでしょうか。そしてさらに、旧約聖書全体に描かれているすべての人間たちの罪の歴史と、その中での神の救いの歴史が、新約聖書に至って、主イエス・キリストに合流していると言ってよいでしょう。

 きょうは前回の説教の最後で触れた10節のみ言葉をもう一度取り上げてみます。【10節】。カインは弟アベルに対する連帯責任、共に生きるという責任を果たすことができなかっただけでなく、嫉妬と憎悪によって殺害した弟のことを神に問われた時に、9節では「わたしは弟の番人でしょうか」とまで言っていました。カインは弟の血の責任を負うことはもちろんできません。その上に、彼は自分が犯した罪を神のみ前に隠そうとさえしています。ここに、人間の罪の最も悲惨で恐ろしい姿が現れています。また、人間の罪によって破壊された隣人関係のあわれで、またおぞましくもある姿が現れています。

 しかし、神はカインによって見捨てられ、土の下に覆い隠されたアベルの血の叫びを確かに聞いておられます。ヘブライ人の手紙12章24節のみ言葉を前回紹介しました。そこには「アベルの血よりも力強く語るイエスの血」と書かれています。主イエス・キリストが十字架で流された神のみ子の清く尊い血の叫びを、神は聞いてくださり、それによってわたしたちの罪をすべて、永遠に洗い流し、罪から清めてくださったのです。

 もう一つ、ヨハネの黙示録では、殉教者たちが流した血の報いを神が終わりの日に必ず果たしてくださるであろうと約束されています。死に至るまで忠実に主なる神に仕えた信仰者たちを、神は終わりの日の神の国が完成されるときに、輝く清い衣を着せられた花嫁として花婿なる主キリストのもとへと連れていかれると約束されています(ヨハネの黙示録19章、他参照)。神は信じる者たちの血の一滴をも、あるいはまた福音のための戦いで流された汗と涙の一滴をもすべて覚えてくださいます。そして、それに報いてくださいます。

 では、きょうの個所を読んでいきましょう。【13~15節】。神との正しい関係が壊れ、隣人との関係も壊れ、しかも悔い改めることをしなかったカインは神に呪われた者となりました。神の裁きが11~12節に書かれていました。神の裁きは二重にカインを苦しめました。彼が土を耕してももはや彼のために作物を生み出さず、彼自身も定住の地を持たず、地上をあてもなくさまよう放浪の身となりました。ここに至って、カインは初めて自らの罪の大きさに気づき始めたように見えます。彼は自分の罪の重さに耐えきれないことを告白しなければなりません。彼は神の憐れみを乞い求めざるを得ません。

 ここでわたしたちは重要なことに気づきます。あれほどに傲慢で、神をも恐れず、神に逆らっていたカインが、ここでは神から見捨てられることの重大さに気づき始めているということを。地上の放浪者となり、しかも神なき世界で生きていかなければならなくなったカインには、自分の身を守るすべが何一つないのだということを。それゆえに、神が恐るべき呪いによって厳しい裁きを彼にお与えになったのは、実は、彼にこのことを気づかせるためであったのだということを。そして、神はなおも罪と死と滅びの中にあるカインをお見捨てにはならず、ご自身へとお招きなっておられるということを、わたしたちは気づかされるのです。カインは恐れおののきながら、神の憐れみを願い求めます。

 そこで、神はカインに言われます。【15節】。神は殺されたアベルの血の叫びを聞かれただけでなく、殺人者カインの願いをも聞かれます。神はカインを復讐者の手から守ると約束されました。そのために、カインに一つのしるしをつけられました。それがどのようなしるしであったのかについては書かれていません。入れ墨とか大きなほくろとか、そのようものであったと推測されます。だれであれ、カインが意図的殺人によって流した血の復讐をすることは許されず、カインは神によって守られることになったのです。カインが犯した大きな罪によっても、神の憐れみと救いのみ手は決して消えることはありません。

 カインはエデンの東、ノドの地に住んだと16節に書かれています。「ノド」とは「さすらい」「動揺」という意味を持ちます。カインはまことの救い主に出会うまでは、帰るべき故郷を持たずに放浪とさすらい、動揺と不安の中で生きていかなければなりません。4世紀の偉大な神学者アウグスチヌスは彼自身の長い放浪生活の後でこのように言いました。「人は、まことの創り主なる神を見いだすまでは、その魂に真の安らぎを得ることはできない」と。神を見失い、神から離れたカインの末裔である人間は、真の故郷をも見失い、確固とした足場を持たず、あてもなく地をさまよい、さすらいと動揺と不安の中で生きるほかにありません。

 次に、17節からは、カインの子孫について書かれています。放浪を続けるカインはやがて結婚をし、子どもを産み、家庭を築き、その地に定住して町を建て、多くの子孫が住み着くようになりましから。20節からはいくつかの職業が挙げられています。家畜を飼い天幕に住む民族、竪琴や笛を奏でる民族、青銅や鉄で道具を作る民族など、農業や芸術、工業、文化と言われるものが発達し、大きな都市計画が進められていきました。そのようにして、カインの末裔たちはさすらいと動揺から何とかして抜け出そうと、今日まで歩みを続けてきたのでした。

 けれども、カインの末裔たちは町を作り、都市計画を進めることによって、神から追放されて放浪の身となったことを、ほんとうに忘れることができるのでしょうか。自分たちが造り上げた近代的な都市の中で、ほんとうの魂の安らぎを見いだすことができるのでしょうか。あるいは、神から与えられた厳しい刑罰を忘れ、いつかは神なしでも自分たちだけで立派にやっていけることを証明し、神を見返してやることができると考えているのでしょうか。町々に多くの人間を寄せ集めて、肩を寄せ合って生きることによって、失われた人間の交わりを取り戻すことができると考えているのでしょうか。都市の快適な生活が心の痛みや罪の意識やさすらいの孤独、動揺、不安のすべてを解決してくれると考えているのでしょうか。カインとカインの末裔たちのこの試みは果たして成功するのでしょうか。

 その答えは、23節、24節に、恐るべき結末になることが、カインの子孫レメクの歌として書かれています。【23~24節】。レメクは復讐の歌を歌っています。自分が受けた傷のために77倍もの復讐をしてやるぞと歌うのです。いや、ここで言われていることは、人間への復讐だけではありません。むしろそれは、神への反逆の歌と言うべきです。15節で、神はカインを殺す者には7倍の復讐をすると言われ、殺人者カインをも神は守ってくださるという神の憐れみが示されていましたが、しかしレメクはその憐れみ深い神に反逆するかのように、神の憐れみを投げ捨てるかのように、自分が神に代わって、神以上の復讐者になるのだというのです。レメクの復讐の歌は、神への反逆の歌であり、自らが神以上のものになろうとする、人間の傲慢で不遜で、限りない残忍さを歌った歌なのです。これが、神に背き、神なしで生きるカインの末裔たちの行き着く姿なのだということを、聖書はここであらかじめ予告しているのです。

 アダムとエバから始まった人間の罪、カインの兄弟殺しへと発展していく人間の罪は、やがて人々が集団を形成し、町を建設し、文化や芸術、産業が発展し、人間が高度な文化的生活、社会的生活を営むようになっても、その罪は小さくなることも、消え去ることもなく、いやむしる、人間の罪はいよいよ悲惨さを増していくしかないのです。

 だれがこの罪の世からわたしたちを救ってくれるのでしょうか。だれが人間のこの罪の歯車を、復讐の連鎖を止めることができるのでしょうか。

 主イエスはマタイ福音書18章21節以下で、ゆるしの回数を聞いた弟子のペトロにこのようにお答えになりました。【21~22節】(35ページ)。

レメクの歌は徹底的な復讐の歌でしたが、主イエスの教えは徹底的なゆるしの福音です。主イエスのゆるしには限界がありません。主イエスのゆるしは完全であり、永遠です。主イエスこそが、人間の罪の歴史を、復讐の連鎖を、ゆるしの福音によって終わらせるのです。わたしたち人間の罪のために、ご自身が苦しみを受けられ、十字架への道を進み行かれ、わたしたちの罪の贖いのためにご自身の尊く清い血を流してくださった主イエス、それによってわたしたちのすべての罪を永遠にゆるしてくださった主イエスこそが、わたしたちを再び神に愛されている神の民とし、神にある平安と慰め、喜びと希望へと招き入れてくださったのです。主イエスによって与えられたこの罪のゆるしから、わたしたちもまた互いにゆるし合い、愛し合い、共に一つの神の民とされていることを感謝しつつ、ゆるしの共同体、愛の共同体として生きる道が備えられているのです。

(執り成しの祈り)

○天の神よ、わたしたちは造り主なるあなたを離れては、牧者を失った羊のよう

に、地をさまようほかにありません。神よ、どうかわたしたちをあなたのもとへと連れ戻してください。わたしたちのために命を捨ててくださった真実の牧者であられる主イエス・キリストによって、わたしたちを見いだしてください。

○神様、全世界の人々が今ウイルス感染症によって苦悩しています。苦しんでい

る人たち、悲しんでいる人たち、労苦している人たちを、どうかあなたが慰め、励まし、希望をお与えくださいますように。

○この時に、あなたがお選びくださったあなたの民、教会の民を、どうか力づけ

てください。このような時にこそ、地の塩、世の光として、主イエス・キリストの福音を証ししていくことができますように、導いてください。

主のみ名によって祈ります。アーメン。

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