5月24日説教「荒れ野で悪魔からの誘惑と戦われた主イエス」

2020年5月24日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:申命記8章1~10節

    ルカによる福音書4章1~15節

説教題:「荒れ野で悪魔からの誘惑と戦われた主イエス」

 主イエスは公のご生涯のはじめに、洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになったあとに、荒れ野で悪魔からの誘惑にあわれました。この二つのことは、時間的に続いているだけでなく、内容から言っても密接な関連があります。きょうはまずその関連について考えてみましょう。

 主イエスの洗礼の場面と荒れ野での誘惑の場面に共通している第一のことは、聖霊です。ルカ福音書3章21節には、主イエスが洗礼を受けられた時、「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」と書かれていましたが、4章1節でも、「イエスは聖霊に満ちて」とあります。主イエスは洗礼をお受けになった時から、聖霊に満たされ、聖霊なる神のご支配とお導きによって、その公のご生涯をお始めになりました。荒野でも聖霊は主イエスから離れることはありません。いや、荒れ野で悪魔の誘惑と戦われたその時にこそ、主イエスは聖霊に満たされ、聖霊のご支配とお導きによって、その戦いに勝利されたのです。このことについては、あとでもう少し詳しく学ぶことにします。

 主イエスの受洗と誘惑の本質的な関連を考えてみましょう。主イエスは、すでに学んだように、罪なき神のみ子であられたにもかかわらず、わたしたち罪びとたちの中に入ってきてくださり、罪びとの一人となられて、悔い改めの洗礼をお受けになりました。それによって、わたしたちが主イエスを救い主と信じ、自らの罪を悔い改めて洗礼を受け、キリスト者となる、その最初の道を主イエスはわたしたちのために開いてくださったのです。

 荒れ野で悪魔の誘惑を受けられたことも同様の意味を持っています。天におられる全能の父なる神のみ子・主イエスが、ご自身を低くされ、貧しくされて、人間のお姿でこの世に下って来られ、わたしたち人間が経験しなければならないすべての誘惑や試練をご自身もまたお受けになられたのです。そして、悪魔の誘惑に勝利なさったのです。それは、わたしたち人間をあらゆる誘惑や試練の中で守るため、救うためにほかなりません。主イエスが経験された試練や苦難の意味について、ヘブライ人への手紙2章17、18節にはこのように書かれています。【17~18節】(403ページ)。また、【4章15~16節】(405ページ)、さらに、【5章8~10節】(406ページ)。わたしたちの弱さをすべて知っておられる主イエス、ご自身がそのすべてを引き受けてくださった主イエスこそが、わたしたちを本当に救うことができる唯一の救い主なのです。

 主イエスの受洗と荒れ野での誘惑との密接なつながりから教えられるもう一つの重要なことは、まさにその二つは本質的に切り離すことができないものだということです。主イエスの洗礼のあとにすぐに悪魔の誘惑が続いています。洗礼を受けるということは、悪魔の誘惑から逃げたり、それを避けたりすることではなく、あるいはそれらとの戦いをしなくても済むという保証でもなく、それらと積極的に戦って、それに勝利することへとつながっていくことなのです。

 ある人は誤解して、洗礼を受けてクリスチャンになれば、人生の悩みや迷い、苦しみがなくなって、災いや試練にもあわなくて済む、平穏な生活が送れるようになると考えます。また、わたしたちの周囲にはそのような幸運と繁栄を約束する宗教がたくさんあります。それらの宗教は人間の願いや計画をいかにして実現するかを主たる目的にしています。けれども、キリスト教信仰はそうではありません。人間の願いや計画ではなく、神のみ心、神の救いのご計画が実現することこそが重要なのです。そもそも、人間の願いや好みのままに働く神は、人間が勝手に造りあげた偶像に過ぎません。人間が造ったものは人間以上ではあり得ず、したがって本当に人間を救うことはできません。

 主イエス・キリストを救い主と信じるキリスト教信仰は、試練や苦難にあわない道を上手に選んで通るというのではなく、むしろどのような試練や苦難にあっても、それを恐れず、その中にあっても決して失望せず、主キリストが与えくださる勝利を信じて耐え忍び、戦い抜いていく勇気と力を与えるのです。それだけではありません。主キリストのため、信仰のため、福音宣教のためには、苦難や労苦をも喜んでわが身に引き受けるのです。信仰者として生きる時、それ以前には試練だとは思わなかったことが新たな試練となったり、それ以前には安易な妥協の道を選んでいたことが、新たな戦いを迫られたり、洗礼を受けたあとの方が苦しく辛い道になったりすることもあるでしょう。しかし、信仰者はそれらをも喜んで耐え忍び、その中にあってもなお、主キリストにある勝利を信じ続けるのです。主キリストご自身が、わたしに先立って、その道を進み行かれ、わたしのために罪と死と滅びに勝利しておられることを知っているからです。

 では、1~2節を読みましょう。【1~2節】。「イエスは聖霊に満ちて」の「聖霊」と、次の「霊」とは、同じ聖霊なる神のことです。14節の「霊」も同じです。きょうの悪魔の誘惑の場面では、悪魔が主人公であるように見えるかもしれませんが、実際はそうではありません。主イエスを満たしているのは聖霊なる神であり、聖霊なる神が主イエスを荒れ野の中へと導いておられるのです。きょうの場面だけではありません。14節から始まる福音宣教の活動と主イエスのご生涯全体が、聖霊なる神に導かれています。聖霊なる神のみ力によって、主イエスは悪魔の誘惑と戦われ、それに勝利されるのです。

 そのことを強調しているのが40日間の断食です。主イエスは肉体的には空腹であっても、聖霊に満たされていました。主イエスが悪魔の誘惑と戦う力は、栄養ある食物をたくさん食べて得られる体力ではなく、どこかの学校で学んだ学力でもなく、この世での経験を積んだ人生の知恵でもありません。むしろ、それらのすべてが貧しくなり、むなしくなり、無力になった時にこそ働かれる聖霊なる神によって、主イエスは悪魔の誘惑と戦われ、それに勝利されるのです。主イエスが40日間断食されたのは、ご自分の弱さに徹するためであったのです。聖霊なる神にご自身を明け渡すためであったのです。

 もし、キリスト者の断食に信仰的な意味を見いだすとすれば、それはここにあると言えるのではないでしょうか。自分の意志や要求を実現するためとか、自分の意見や立場を表明したり、あるいはだれかにそれをアッピールしたりする手段のためと言うよりは、自らを神のみ前にあって貧しくし、無力にして、神に自分を明け渡して、神ご自身がわたしの中でお働きくださることを願う、そして神のみ心がなるように祈る、そこにキリスト教的断食の意味を見いだすことができるのではないでしょうか。

 ところで、ルカ福音書では、主イエスを誘惑するのは「悪魔」と呼ばれていますが、マタイ福音書4章3節では「誘惑する者」、マルコ福音書1章13節では「サタン」と呼ばれています。これらはみな同じものを指しています。悪魔とかサタンとか言われると、何か恐ろしい、恐怖を与える悪い存在を予想するかもしれませんが、ここに登場する悪魔は必ずしもそうではありません。このあとで展開される三つの誘惑の場面を見ても、悪魔はむしろ優しく、人間思いで、英雄のような存在です。人間の必要性や、願望や欲望、好奇心や信仰心までをも刺激して、人間に近づいてくるのが悪魔です。

 悪魔、サタン、誘惑者に共通しているのは、主イエスを、そしてわたしたち人間を、父なる神から引き離そうとすることにあります。神に従わなくても、神なしでも生きていくことができる、むしろ自分が神のような存在になれると思い込ませることに、悪魔の誘惑があります。それは、聖書が言う罪と共通点を持っています。悪魔とかサタンと言われるものと罪とが、聖書の中では全く同じであると考えられているのかどうかについては議論の余地があるところですが、両者が同じ働きをするということは確かです。

 では次に、第一の誘惑についてみていきましょう。【3~4節】。ここでは、主イエスにとって二重の誘惑があります。一つには、ご自身が空腹を覚えられ、ご自身の肉体の必要を満たしたいという誘惑です。もう一つは、こちらの方が主イエスにとってはより大きな誘惑ですが、人々のパンの必要を満たすために神の子としての使命を果たしたいという誘惑です。当時の困難な状況の中で苦しんでいた貧しい民衆のために、あるいは、いつの時代にも深刻な課題としてある食糧難、パンの問題を、一気に解決できる魔法の力があれば、それで世界を救えるのではないか、そのための力を神から授かったらどんなにか幸いなことか。

 けれども、主イエスはその誘惑を退けられました。パンの奇跡によっては、本当に人間を救うことはできない、パンの問題を解決することによっては、本当に世界を救うことはできないと、主イエスは言われます。また、それが神の子・メシア・救い主であるわたしの使命ではないと、主イエスは言われます。人間と世界の本当の救いは、神がお語りくださる命のみ言葉を聞き、信じることによってであると主イエスは言われます。

 ルカ福音書では、「人はパンだけで生きるものではない」の後半は省略されていますが、マタイ福音書4章では申命記8章3節の全体が引用されています。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」と主イエスはお答えになりました。パンは人間の朽ちる肉体を一時的に養うことしかできません。しかし、神のみ言葉は永遠に変わることなく、絶えず新しい命を注いでイスラエルの民を導き、全人類を神の国が完成されるまで導きます。主イエスはその神の国の福音を宣べ伝えるために、十字架への道を進み行かれたのです。

 第二、第三の誘惑に対しても、主イエスは神のみ言葉によってそれらを退けられます。【8節】。これは申命記6章13節のみ言葉です。【12節】。これは申命記6章16節からの引用です。主イエスは徹底して神のみ言葉によって誘惑と戦われます。そして、それに勝利されます。主イエスは神のみ言葉の前で、ご自身の権力と繁栄のすべてをお捨てになりました。主イエスは神のみ言葉に徹底して服従されました。フィリピの信徒への手紙2章8節にあるように、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順に」、父なる神に服従されました。それによって、わたしたちを罪と死と滅びから救ってくださったのです。荒れ野で悪魔の誘惑と戦われ、それに勝利された主イエスのご生涯とその歩みは、十字架と復活へと向かって進んでいきます。

 3節と9節で、悪魔は「お前が神の子なら」という言葉で主イエスを誘惑します。同じような言葉をわたしたちは主イエスの十字架の場面でもう一度聞くことになります。十字架につけられた主イエスに向かって、「お前が神の子・メシアなら、自分を救ってみろ」(ルカ福音書23章36節、マタイ福音書27章40節を参照)、と人々は叫びました。悪魔の誘惑は、まさに主イエスを十字架から引き下ろし、主イエスの十字架を否定することにあったのです。

 けれども、主イエスはご自分を救うことはなさいませんでした。十字架の死に至るまで、従順に父なる神に服従され、わたしたちの救いを全うされたのです。それゆえに、十字架の主イエス・キリストを信じる信仰によってこそ、わたしたちもすべての悪の誘惑やサタンの試みに勝利することができるのです。

(執り成しの祈り)

○主なる神よ、わたしたちを罪と悪魔の誘惑から守り、お救いください。わたし

たちがただあなたの命のみ言葉にのみ聞き従って、備えられたみ国への道を進み行くことができますように、お導きください。

○神様、全世界の人々が今ウイルス感染症によって苦悩しています。苦しんでい

る人たち、悲しんでいる人たち、労苦している人たちを、どうかあなたが慰め、励まし、希望をお与えくださいますように。

○この時に、あなたがお選びくださったあなたの民、教会の民を、どうか力づけ

てください。このような時にこそ、地の塩、世の光として、主イエス・キリストの福音を証ししていくことができますように、導いてください。

主のみ名によって祈ります。アーメン。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA