6月7日説教「すべての必要を満たしてくださる神に感謝して」

2020年6月7日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編23編1~6節

    フィリピの信徒への手紙4章10~23節

説教題:「すべての必要を満たしてくださる神に感謝して」

 フィリピの信徒への手紙を続けて読んできました。きょうは最後の個所です。ここでパウロは、この手紙を書くに至った直接的な理由について書いています。それは、すでに2章25節で簡単に触れたことですが、フィリピ教会が獄中のパウロにエパフロディトという人を派遣して、贈り物を届けてくれたことに対する感謝を述べることです。きょう朗読された10~20節では、確かにフィリピ教会に対するパウロの感謝が語られていますが、ここには感謝という言葉そのものは一度も用いられていません。そこで、この個所を「感謝なき感謝」と呼ぶことがあります。パウロがここで語っている感謝とは、どのような感謝なのか。おそらくは、感謝という言葉では言い尽くせなかったのではないかと思われる、特別に大きな感謝と喜びとは、どのようなものであるのかを、ここから読み取っていきたいと思います。

 では、10節から読んでいきましょう。【10節】。「あなたがたがわたしへの心遣いを表してくれた」とパウロは言います。フィリピ教会からの贈り物が何であったのかについては何も書かれていません。18節では「そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取った」とあり、その中身が何であったのか、お金か、食料か、衣類か、その他のものか、あるいはその量はどれほどだったのかも、ここでは全く触れられてはいません。パウロにとっては贈り物が何であったかということよりも、その贈り物を届けてくれたフィリピ教会の心遣い、パウロへの愛と祈りこそが重要だったのです。

 10節後半の「今までは思いはあっても、それを表す機会がなかった」とは具体的にどのような理由があったのかについても、わたしたちには知られていません。フィリピ教会が経済的に貧しくてパウロを援助する余裕がこれまではなかったということなのか、教会の内外で迫害や信仰的な戦いに時間と労力を取られていたからか、あるいは何か他の理由があったからか、いずれにしても、フィリピ教会にはパウロを支援することを妨げるような事態が長く続いていたが、今、彼らのパウロに対する愛と祈りが再び実を結んで、このような具体的な支援となってパウロに届けられた、パウロはそのことを喜び、感謝しているのです。

 したがって、この個所から、フィリピ教会に対するパウロの何らかの不満を読み取ろうとすることは当を得ていないと思われます。「もっと早くに援助してくれればよかったのに」というような思いは、パウロには全くなかったと言うべきで、反対に、長く困難な状況が続いてきたのに、今ようやくにパウロとフィリピ教会との間に主にある豊かな交わりの道が開かれた、そのことをパウロは心から喜び感謝していると理解すべきでしょう。その理解をさらに深めるために、パウロが伝道者に対する報酬や支援をどう考えていたかということ、またパウロとフィリピ教会とのこれまでの関係についてみておくのがよいと思われます。

 パウロは基本的には、神のみ言葉を宣べ伝える務めにある伝道者や使徒は、その働きの報酬を得るのは神から与えられている当然の権利であり、彼らの生活は教会によって支えられるべきである。神のみ言葉に仕える伝道者から霊の賜物を受ける教会が、彼らに肉の賜物を惜しみなく差し出すことは、神がお喜びになることだと、パウロは繰り返して述べています。実際に、当時のユダヤ教でも、また初代教会でも、教会で神のみ言葉の宣教に仕える教師や巡回伝道者は非常に重んじられていました。しかしまた、そのような良い待遇を期待して、本来の神のみ言葉のための奉仕者であるという務めをおろそかにする偽りの伝道者もまた少なからずいたようでした。

 そこで、パウロ自身は、自らそのような誤解を招かないためにも、伝道者として当然に受け取るべき報酬を受け取らないと決め、自分の生活費は天幕づくりの収入などによってまかなっていました。15、16節で彼はこのように言っています。【15~16節】。パウロは第二回世界伝道旅行の後半で、小アジアからエーゲ海を渡ってマケドニア州のフィリピに行き、教会の基礎を築ました。フィリピ教会はヨーロッパでの福音の初穂でした。それからテサロニケ、コリントへと伝道旅行を続けました。その際に、パウロは伝道者としての報酬は受け取らないという彼の基本姿勢は貫きながらも、ただしフィリピ教会からの支援は喜んで受け取りました。この教会との深い信頼関係の中では、偽りの伝道者であると誤解される心配は全くなかったからです。

14節ではこのように言います。【14節】。パウロはフィリピ教会を福音宣教のための戦いの同志、戦友とみています。あらゆる地でパウロを襲ってくるユダヤ教やローマ帝国からの迫害、投獄、あるいは異端的な教え、教会を混乱させる偽りの伝道者たち、それらとの日々の戦いの中で、フィリピ教会はパウロのために経済的な支援と祈りと愛をささげることによって、共に福音のために、信仰の戦いを共にしてくれたのだ、そのようにしてわたしと共に戦ってくれた教会はただあなたがただけだとパウロは言っています。

パウロとフィリピ教会とのこのような関係の中で、10節をもう一度読み返してみると、フィリピ教会が今再び獄中のパウロに使者を派遣し、贈り物を届け、彼らの愛と祈りがこのようにして実りを結ぶことができたということを、パウロがどれほどに喜び、感謝しているかが理解できるように思います。まさにそれは、「主にある大きな喜び」なのです。主キリストがこの喜びを与えてくださったのです。「喜びの書簡」と言われるこの手紙の最後の個所でわたしたちは今一度「喜び」「主にある喜び」を聞きます。これは、主イエス・キリストが作り出してくださった喜び。です。贈り物の質や量からくる喜びではありません。パウロの必要が満たされたということからくる喜びでもありません。あえて言うならば、フィリピ教会のパウロに対するあつい祈りと深い愛からくる喜びでもなく、それらのすべてをパウロとフィリピ教会のために作り出したくださった主イエス・キリストからくる大きな喜びなのです。

このような主イエス・キリストから与えられる大きな喜びの前で、パウロは自分の必要性とか欲求とか、あるいは不満とかのすべてが、小さなものに、取るに足りないものになるということを続けて語ります。【11~13節】。ここで重要なポイントは、パウロにこのような生き方を可能にしているのが何であるかということです。11節では「習い覚えた」とあり、12節では「授かっています」とあり、13節でははっきりと「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」と書かれています。パウロにこのような生き方を可能にしているのは、ほかでもない主イエス・キリストなのです。わたしたちを罪から救い出すために、ご自身が罪びとの一人となって十字架で死んでくださった主イエス・キリスト。わたしたちをすべての苦難や試練の中から救い出すために、ご自身があらゆる試練を経験され、ご受難への道を進み行かれた主イエス・キリスト。わたしたちを信仰にあって豊かにするために、ご自身はすべてを投げ捨てて貧しくなられ、父なる神に全き服従をささげられた主イエス・キリスト。わたしたちの弱さの中でこそ、その恵みを豊かに注いでくださり、「わたしの恵み、汝に足れり」(コリントの信徒への手紙二Ⅰ2章9節参照)と言ってくださる主イエス・キリスト。パウロはこの主イエス・キリストから、このような生き方を学び、このような生き方へと導かれたのです。

わたしたちはここで主イエスのみ言葉を思い起こします。「何を着ようか、何を食べようかと、着物や食べ物のことで思い煩うな。天におられる父なる神はあなたのすべての必要を知っていてくださり、それを備えてくださる。だから、思い煩うな。ただ、神のみ国と神の義とを求めなさい」(マタイ福音書6章25節以下参照)。またこのように言われました。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。義に餓え乾く人々は、幸いである。その人たちは満たされる」(同5章3節以下参照)。主イエス・キリストを信じて歩む道に、真実の喜び、平安、希望があるのです。

フィリピ教会からのパウロへの贈り物が、彼にとっての大きな喜び、感謝であった理由のもう一つのことが17節以下に書かれています。【17~19節】。パウロはここで、彼のために届けられた贈り物を「神へのささげもの」とみています。その贈り物がパウロを喜ばすとか、パウロの必要性を満たすとか、もちろんそのようなことも当然の結果として生じるとしても、それ以上に重要なことは、その贈り物が神へのささげものであり、神がそれを喜んで受け入れ、神がそれをご自身のご栄光のために尊く用いてくださり、福音の前進のために役立ててくださる、そのことをパウロは最も大きく、深く、喜び、感謝しているのだということです。

2章16、17節で、パウロは彼自身の伝道者としての生涯を顧みてこのように言いました。【16節b~17節】。パウロは彼の伝道者としての労苦に満ちた生涯のすべてを神へのささげものとして差し出しています。彼を待っている殉教の死をも、神にささげられるいけにえの血だと言うのです。今フィリピ教会が困難を乗り越えて獄中のパウロへの贈り物を届けてくれたこと、それもまた神への喜ばしいささげものだとパウロはここで強調しているのです。そのようにして、共に神の福音宣教のみ業に仕え、神の栄光の富に共にあずかることをゆるされているパウロとフィリピ教会の豊かな、祝福された交わりをわたしたちはここに見ることができます。

21節からは手紙を締めくくる神への頌栄と教会へのあいさつが書かれています。【21~23節】。パウロは手紙の冒頭の1章2節で「わたしたちの父である神と主イエス・キリストから恵みと平和が、あなたがたにあるように」と祈り、手紙の終わりでも「主イエス・キリストの恵みが、あながたがの霊と共にあるように」と祈っています。主イエス・キリストの恵みがこの手紙全体に満ちています。また、主イエス・キリストの恵みが、パウロとフィリピ教会とを包み、そして今その手紙を礼拝で読んでいるわたしたちにも満ちています。

(執り成しの祈り)

○天の父なる神よ、わたしとわたしのすべてを喜んであなたにおささげするも

のとされますように。それによって、わたしとわたしたちの教会とこの世界とを、主キリストの恵みで満たしてください。

○主なる神よ、あなたが創造され、あなたが全能のみ手をもってご支配しておら

れるこの世界が、あなたのみ手を離れて滅び行くことがありませんように。全地のすべての国・民をあなたがあわれみ、この地にあなたのみ心を行ってください。

○神よ、特にも、小さな人たち、弱い人たち、見失われている人たちをあなたが

助け、励まし、導いてください。病んでいる人たち、重荷を負っている人たち、試練の中にある人たち、孤独な人たちの歩みにあなたが伴ってくださり、必要な助けをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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