6月28日説教「聖霊の降臨を待ち望む」

2020年6月28日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:ヨエル書3章1~5節

    使徒言行録1章1~5節

説教題:「聖霊の降臨を待ち望む」

 フィリピの信徒への手紙を読み終えましたので、きょうから使徒言行録を説教テキストとして取りあげることにしました。使徒言行録を選んだ主な理由は二つあります。一つは、今読んでいるルカによる福音書と同じ著者によると考えられているからです。ルカ福音書では主イエスが全世界のすべての人々の救い主としてこの世においでになって、十字架の死と復活によってその救いのみわざを成就されたことを描いており、その続編である使徒言行録では、主イエスの十字架と復活の福音が、エルサレムから全世界へと宣べ伝えられ、世界の町々村々に教会が立てられていった次第を描いています。ルカ福音書と使徒言行録の連続性を考えながら二つの書を読んでいくことが有益と思われるからです。

もう一つは、今日、全世界の教会が様々な困難な状況の中にあり、教会の勢力が衰え、力と命を失いつつあるように思われる中にあって、最初に誕生した教会がどのようにしてその福音宣教の働きを展開していったのか、その力と命の源は何であったのかを探っていくことにあります。初代教会、古代教会と言われるその時代の教会に学ぶことによって、わたしたちの教会も新しい力と命を与えられたいとの願いをもって、ご一緒に読んでいくことにしましょう。

1~2節は献呈の辞と言われます。自分が書いた書物を特定の尊敬する人や親しい人に献呈するということは今日でも行われています。ルカ福音書1章3節でも同じテオフィロという人に献呈されています。テオフィロという人物については全く分かっていませんが、ルカ福音書の方では「敬愛するテオフィロさま」(口語訳聖書では「閣下」ですが)、この言葉は高い社会的身分を示していますので、キリスト教に理解があったローマ政府の高官であったのでないかと推測されています。ところが、使徒言行録ではその称号が付けられていないことから、ルカ福音書が書かれたころにはまだ求道者であったテオフィロが使徒言行録を書いた時には洗礼を受けていたので、この世的な称号は省いたのだと、興味深い推測をする人もいます。

第一巻のルカ福音書の内容を著者ルカは「イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのこと」という言葉でまとめています。これは、ルカ福音書24章の終わりの36節以下に書かれている内容を指しています。復活された主イエスがエルサレムで弟子たちの前にお姿を現わされ、彼等にお命じになりました。【ルカ福音書24章44~53節】(161ページ)。使徒言行録でも、4節で同じ主イエスの命令が繰り返されています。【使徒言行録1章3~5節】。

ここでまず注目したいことは、ルカ福音書の続編である使徒言行録も、「イエスは」という言葉で始まっているときことです。ルカ福音書の主人公、中心人物が主イエスであり、主イエスの救いのお働きがその中心的内容であることは言うまでもありませんが、第二巻の使徒言行録もその主人公は主イエスです。天に上げられ、父なる神の右に座しておられ、そこから聖霊を派遣され、弟子たちをお用いになってご自身の救いのみわざをさらに全世界へと広められる主イエスが、第二巻・使徒言行録でも主人公であられます。

そのことは、使徒言行録の初代教会の時代だけでなく、その後のすべての教会の歩みとその教会に招かれている信仰者一人一人にとっても、同様です。主イエス・キリストがそれらのすべての歩み、活動、歴史の主人公であられます。主イエス・キリストが教会の頭として生きて働いておられる教会、また、主キリストがわたしたち一人一人の中で生きて働いておられる信仰者、それゆえに「生きているのはわたしではない。主キリストがわたしのうちにあって生きておられる」と告白するキリスト者、そのような教会とそのような信仰者である時にこそ、そこに主キリストの力と命が与えられるのです。

次に、主イエスのご生涯とご受難から昇天に至るまでの道のりを確認しておきましょう。主イエスは年およそ30歳になってから公の宣教活動を始め、ガリラヤ地方からユダヤ地方へと、神の国の福音を宣べ伝えられました。その期間は3年ほどと考えられます。地上の歩みの最後の一週間はエルサレムで過ごされ、その週を受難週と言います。受難週の木曜日の夕方、弟子たちと最後の晩餐を囲まれました。共観福音書によれば、それはユダヤ人の祭り、過ぎ越しの食事でした。翌日早朝に、ユダヤ人指導者たちによって逮捕され、裁判を受け、最終的にはローマ総督ピラトによって十字架刑を言い渡されました。金曜日午後3時ころ、主イエスは十字架上で息を引き取られ、すぐに埋葬されました。一日置いて、日曜日の明け方に、主イエスは墓を打ち破り、復活されました。そのあと、3節に書かれているように、主イエスは弟子たちに復活のお姿を現わされました。それを復活の「顕現」と言います。それが40日間続きました。そのあと、9節にあるように、主イエスは天に上られました。それから10日後の、ユダヤ人の五旬祭(ペンテコステ)の日に、弟子たちに聖霊が注がれ、エルサレムに世界最初の教会が誕生しました。そのことが2章に書かれています。これが、福音書から使徒言行録に至る日程です。

ここでわたしたちは今一度3節のみ言葉に注目したいと思います。【3節】。このみ言葉が、福音書と使徒言行録とをつなげる鍵になります。主イエスの神の国の福音を宣教するお働き、主イエスの救いのみわざは、主イエスの死によって終わったのではありません。主イエスの十字架の死の三日後、日曜日の朝に主イエスは復活されました。それだけでなく、復活された主イエスは、40日間にわたって復活されたお姿を弟子たちに現わされ、彼等に福音書に描かれているのと同じように神の国の福音を説教され、彼等と共に食事をされ、4節が弟子たちと共同の食事の最後になるのですが、そのようにして主イエスはご自分が確かに生きておられることを弟子たちに証明されました。

使徒パウロはコリントの信徒への手紙一15章で主イエスの復活の顕現についてこのように書いています。【15章3~7節】(320ページ)。初代教会の信仰告白の中で復活の顕現についてこのように詳しく言い表していることをも注目したいと思います。

では次に、復活の顕現の重要性についていくつかのポイントをまとめてみたいと思います。第一点は、主イエスが罪と死に勝利されたことの確かなしるしであるということです。人間たちの罪が罪なき神のみ子を偽りの裁判で裁き、人間の罪が勝利したかに見えたその時に、主イエスは罪と死に勝利され、死の墓から復活されました。弟子たちは復活された主イエスのお体に十字架にくぎで刺された跡や鑓で突き刺された傷跡を確認しました。まさに十字架につけられた主イエスが復活されたのです。人間の罪の力が最後に勝利するのではなく、罪と死から起き上がり、新しい復活の命をお与えになる神の恵みと愛が、罪のゆるしが勝利するのです。復活された主イエスと出会った弟子たちはそのことを確認しました。

第二点は、主イエスが福音書で説教された神の国が今や成就したということです。3節に「神の国について話された」と書かれています。福音書の中で主イエスは近づきつつある神の国の福音を説教されました。人間の罪が支配していた世界が間もなく終わり、神の恵みと愛のご支配が始まる、神から与えられる罪のゆるしの福音が語られ、その福音を信じる信仰者に永遠の命が約束される、新しい神の国が今始まったのだと主イエスは話されました。使徒言行録は新しい神の国が始まったことの記録です。新しい神の国に生きる教会の記録です。

第三点は、復活の顕現を経験した弟子たちは、主イエスの復活の証人とされたということです。ルカ福音書24章48節で主イエスは弟子たちにこのように言われました。「あなたがたはこれらのことの証人となる」。また、使徒言行録1章8節では「あなたがたはわたしの証人となる」と言われました。さらに22節には、「主の復活の証人となる」と書かれています。初代教会はこれらの主イエス・キリストの復活の証人たちによって建てられたのです。主の復活の証人たちの証言によって、その説教によって、教会は誕生し、建てられ、生きていたのです。

ここに、教会の歴史的存在の確かな根拠、土台、基礎があるのです。それは、今日の全世界のすべての教会の存在の根拠であり、土台であり、基礎でもあります。わたしたちの教会もまた、主イエスの復活の顕現を体験した弟子たち、主イエスの復活の証人たちの証言、それを土台としています。ここに、教会の土台の確かさ、わたしたちの信仰の土台の確かさがあるのです。

4~5節では、弟子たちの上に聖霊が注がれるまで、エルサレムで待っていなさいとの主イエスの命令が語られます。ルカ福音書24章の終わりで語られていた内容と一致します。聖霊は「前にわたしから聞いた」こと、「父の約束されたもの」と言われています。聖霊はすでに旧約聖書で預言されていました。ヨエル書3章では、神が終わりの日にすべての人の上に聖霊を注ぐであろう、聖霊を受けた若者は預言をし、老人は夢を見るであろうと預言されています。また、ヨハネ福音書では主イエスがご自分の死後に別の助け主として聖霊を派遣すると何度も約束しておられます。【ヨハネ福音書15章26~27節】(199ページ)。

その聖霊が注がれる時まで、エルサレムで待っていなさいと命じられています。「待っていなさい」と命じられていることが、聖霊なる神のお働きと関連しています。つまり、聖霊が注がれるまでは、弟子たちは何もせずに、ただ祈って待っているようにと命じられているのです。弟子たちが自分たちの計画や力や知恵によって教会を建てたり、主イエスの福音を語ったりするのではなく、自分たちの計画や働きを中止して、自分たちの知恵や力に頼ることをやめて、聖霊なる神が自分たちの中で働かれるために、自らを空しくし、貧しくし、無にすることによって、聖霊なる神に自分を全面的に明け渡し、服従する。その時にこそ、聖霊なる神がわたしの中で働かれ、わたしを信仰者とし、主イエス・キリストの復活の証人としてわたしを立て、わたしを福音の宣教者としてこの世へと派遣してくださるのです。

(執り成しの祈り)

○神よ、わたしたちに聖霊をお注ぎください。わたしたちを聖霊によって強め、

励まし、主キリストの証人としてお立てください。

○主なる神よ、あなたが創造され、あなたが全能のみ手をもってご支配しておら

れるこの世界が、あなたのみ手を離れて滅び行くことがありませんように。全地のすべての国・民をあなたがあわれみ、この地にあなたのみ心を行ってください。

○神よ、特にも、小さな人たち、弱い人たち、見失われている人たちをあなたが

助け、励まし、導いてください。病んでいる人たち、重荷を負っている人たち、試練の中にある人たち、孤独な人たちの歩みにあなたが伴ってくださり、必要な助けをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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