7月12日説教「主の恵みの年を告げる福音」

2020年7月12日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書42章1~7節

    ルカによる福音書4章18~21節

説教題:「主の恵みの年を告げ知らせる」

 主イエスはイスラエル北部のガリラヤ地方で公の宣教活動を始められました。ガリラヤ地方の南部、ガリラヤ湖から南西に25キロメートルにナザレという町があり、そこが主イエスがお育ちになった町でした。ルカ福音書4章16節から、そのナザレでの主イエスの活動について記されています。

【16節】。ユダヤ教の安息日は土曜日です。創世記に書かれているように、神が六日の間天地万物を創造され、七日目に休まれたから、この日、人はみな手の働きを休め、神の創造と救いのみわざを感謝し、神を礼拝する日と定められていました主イエスは安息日に主なる神を礼拝するためにナザレの会堂に入られました。

 ユダヤ人の礼拝の中心は首都エルサレムにある神殿でした。動物を犠牲としてささげる礼拝はエルサレム神殿だけに限定されていました。地方にある会堂では安息日ごとに礼拝がささげられていました。ユダヤ人男子10人以上が住む町には会堂(シナゴーグ)を建てるべしと定めれており、ナザレにも会堂がありました。主イエスはある安息日にナザレの会堂に入られました。神を礼拝するためです。16節に「イエスはお育ちになってナザレに来て」とありますが、主イエスが故郷のナザレに来られたのは、実家でしばらく休養するためとか、両親の顔を見るためとかではありません。会堂で神を礼拝するためです。それ以上に、ナザレの人々に福音を宣べ伝えるためです。

 当時の会堂での安息日の礼拝の式準がおおよそ分かっています。まず礼拝の冒頭で、申命記6章4節以下の「イスラエルよ、聞け」(ヘブライ語では「シェマー・イスラーエル」)で始まる信仰告白が唱えられます。次に、司会者によって祈祷がささげられ、聖書朗読がなされます。聖書朗読は司会者か、あるいはだれかを指名する場合もあります。その日の聖書の個所を解きあかした説教が長老によってなされます。その後、祈祷、施し、というプログラムですが、その中での中心は聖書朗読です。旧約聖書全体が3年サイクルで読み終えるような聖書日課が定められていました。この時代の聖書は、羊などの動物の皮をなめしてそれをつなぎ合わせて作ったものが、創世記、出エジプト記など各書に分けられて巻物にされていました。聖書の巻物は貴重品であり、丁寧に扱われました。

 ユダヤ教会堂での礼拝では聖書朗読が最も重要視されていました。そのことは、わたしたちの礼拝においても学ぶべきと思われます。今日のほとんどのプロテスタント教会の礼拝では、説教が重んじられる余り、聖書朗読は軽んじられている傾向があります。説教のテキストとして聖書が朗読されることから、聖書朗読そのものの意味が見失われがちになります。わたしたちの礼拝では説教が中心であることはもちろんですが、聖書朗読もまた重要な要素であることを忘れてはなりません。聖書朗読はたんに何かの文章を朗読して聞かせるということではなく、神のみ言葉の朗読です。聖書朗読それ自体が神のみ言葉の語りかけであり、福音の宣教なのです。聖書を朗読する人も、またそれを聞く人も、神のみ言葉の前に恐れを持ちつつ、神のみ言葉の恵みと力と命を覚えつつ、そして聖霊なる神のお働きを信じつつ、朗読し、また聞かなければなりません。

 ナザレの会堂で、この日の安息日に主イエスは聖書朗読の役を指名されて会衆の前に立ちあがりました。【17~19節】。聖書朗読の個所はあらかじめ聖書日課で決められているのが普通でしたから、それがイザヤ書61章1~2節のこの個所であったのか、たまたま主イエスが開かれたページがその個所だったのか、あるいは主イエスがご自分でこの個所を選ばれたのか、それは定かではありませんが、そこには主なる神のお導きがあったのだと言うべきでしょう。そして、聖書朗読のあとで主イエスは、21節に書かれているように、「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した」と言われました。それはどういう意味でしょうか。

 第一に、主イエスはイザヤの預言で「わたし」と言われている人物を主イエスご自身のことであると言われました。イザヤが彼の時代の中で、自分は預言者として神から派遣されている、神の霊を注がれて、福音を宣べ伝え、人々を捕らわれている鎖から解放し、まことの自由を与え、主なる神の恵みのご支配が始まったことを告げ知らせる務めを神から授かった、と語ったのですが、その務めを今の時代に神から授かっているのが、実にこのわたしなのだと、主イエスは言われたのです。

 イザヤ書のこの預言は、紀元前6世紀のバビロン捕囚を背景にしていると考えられています。イスラエルの民は神との契約を破り、偶像礼拝や不従順を続けたために、神の裁きを受け、紀元前587年にバビロン帝国によって滅ぼされ、王と指導者、また民の多くが遠く西へ一千キロも離れたバビロンの地へ捕虜として連れ去られました。彼等は異教の地で50年余りの間、捕らわれの身となりました。いわゆるバビロン捕囚です。預言者イザヤはその捕囚の民に解放を告げる預言者として神に立てられました。イザヤ書40章からは捕囚の民に向けて語られた解放と救いの預言で満ちています。きょうの礼拝で朗読された42章1節以下では、預言者は「わたしの僕(しもべ)」つまり、主なる神の僕と呼ばれています。また、52章13節でも「主の僕」と呼ばれており、特に53章にかけては「苦難の主の僕の歌」と呼ばれ、主イエスのご受難と十字架の死を預言していると考えられています。

 神は、罪ゆえに自ら滅びの道をたどったイスラエルの民を憐れみ、彼等を異教徒の鎖から解き放ち、異教の地の汚れから彼らを洗い清め、彼等を再び約束の地カナンへと、神の都エルサレムへと連れ戻し、彼らが神に贖われた新しい民として、心から喜んで神を礼拝し、神にお仕えしていく民として再建される、そのための働き人として、その喜ばしい解放の福音を告げる預言者として、イザヤをお召しになったのでした。主イエスはその預言者イザヤの働きを、ご自身が今この時代の人々になすために、神はわたしをこの世界へ、このガリラヤへ派遣されたのだと説教されたのです。

 「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。この主イエスの説教は、さらに大きな意味を含んでいます。預言者イザヤの預言は、紀元前538年にバビロンに代わって世界を支配したペルシャ帝国の王キュロスから出された捕囚民の解放令と第一次帰還、その後のエルサレム神殿再建によってすでに成就したと言えます。したがって、主イエスが説教された解放と自由の福音は実際にはイスラエルの民のバビロン捕囚からの帰還のことではあるというよりは、全世界のすべての人々の罪の奴隷からの解放の福音なのです。全人類が神から離れ、神なき世界で罪と死と滅びに閉じ込められ、罪の奴隷となって、太く重い鎖につながれ、未来への希望がない暗黒の世界にさまよっている、その人々に罪のゆるしと新しい命を与える神の喜ばしいおとずれ、救いの福音を、主イエスは説教なさったのです。

 では次に、イザヤの預言と主イエスの福音との関連性をさらに詳しく見ていきましょう。18節に「主の霊がわたしの上におられる」とあります。主なる神の霊、聖霊がイザヤに注がれる時、彼は預言者とされます。彼は聖霊によって、人間の目にはまだ見えていない神のご計画、神の救いのみわざをすでに見ることをゆるされ、だれの耳にも聞こえない神のみ言葉を彼は聞き取り、それをイスラエルの民に語ります。聖霊なる神がそのことを可能にするのです。

 主イエスのご生涯が、その誕生から神の霊に満たされていたということをルカ福音書は強調しています。3章22節の受洗の時もそうでした。4章1節の荒れ野の誘惑の場面でもそうでした。4章14節の宣教活動開始の時にもそうでした。主イエスはすべての活動、福音宣教のお働きを、聖霊なる神によってなさいます。キリスト教の教理である三位一体論の表現をすれば、父なる神と子なる神・主イエスと聖霊なる神とは、常に一体です。それによって、主イエスはわたしたちのための救いのみわざを完全に成し遂げてくださったのです。

 18節の「主がわたしに油を注がれた」はメシアという言葉の本来の意味を言い表しています。メシアは本来ヘブライ語で、「油注がれた者」という意味です。イスラエルでは王を始め、祭司や預言者がその職に任じられる際に、頭からオリブ油を注がれる儀式を行う習慣がありました。それは、神に選ばれたしるしであり、神によってその職に任じられたしるし、また神の霊によってその務めを果たすしるしでもありました。やがてイスラエルの民は、神が終わりの日に理想的な、また永遠の王として、預言者、祭司として、救い主をイスラエルのためにお遣わしになるという希望を抱くようになり、その救い主を「油注がれた者」・メシア(ギリシャ語ではキリスト)と呼ぶようになりました。主イエスはイザヤが預言し、証ししたメシア・キリスト・全人類の救い主であるということが、ここで明らかにされます。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と主イエスが言われたのは、その意味でもあります。

 イザヤの解放の預言を告げられる対象は、18節では「貧しい人」「捕らわれている人」「目の見えない人」「圧迫されている人」と言われています。これはバビロン捕囚の民を指すと考えられますが、主イエスの福音を聞くわたしたちにも、同じことが当てはまります。ここで第一に教えられることは、どんな貧しい人であれ、苦しみの中にある人であれ、この世では見捨てられ、圧迫されている人であれ、生きる希望を失っている人であれ、だれであれ神に見捨てられてはいない、いやむしろ、そのような人たちにこそ神の愛は激しく豊かに注がれ、神の福音がその人たちを捕え、解放と救いを与えるということが語られているのです。

 第二には、わたしたちが主イエスの福音を正しく聞くためには、自ら貧しい者であり、罪の奴隷となって自由を失っている者であり、この世のさまざまな鎖に縛られている者であり、真実の光を見失い暗闇をさまよっている者であるということを知り、そのことを告白しなければならないということです。わたしたちが自らの罪を告白し、主イエスのみ前に貧しくなる時、そして主イエスの十字架の福音を熱心に慕い求める時、わたしたち一人一人にとっても、21節の主イエスのみ言葉が語られます。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。

(執り成しの祈り)

○主なる神よ、この世界のすべての人々に、主イエス・キリストの自由と解放の

福音が語られますように。また、わたしたち一人一人が主イエスの福音の証し人となりますように、お導きください。

○全世界があなたの憐れみを求めて、祈っています。どうぞ、世界の人々に愛と

分かち合いの心をお与えください。特に、住む家や食料、医療で困窮している

人々を助けてください。

○世界の為政者たちが主なる神であるあなたを恐れ、あなたの義と真実と平和

を実現することができるように、あなたからの知恵と力とをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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