7月19日説教「主イエスの昇天」

2020年7月19日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編30編1~13節

    使徒言行録1章6~11節

説教題:「主イエスの昇天」

 わたしたちは毎週の礼拝で『使徒信条』を告白していますが、その中で、「主は……三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父なる神の右に座しておられます」と告白しています。その主イエスの昇天の出来事を記しているのが、きょうの使徒言行録1章のみ言葉です。主イエスの昇天はわたしたちの信仰にとって非常に大きな意味を持っています。そのことを考えながらきょうのみ言葉を読んでいきたいと思います。

 【6節】。「使徒たちが集まって」いた日は、3節から推測すれば、主イエスが復活されて40日目であろうと思われます。主イエスは十字架につけられて、三日目に復活され、その後40日間にわたって弟子たちに復活のお姿を現わされました。これを復活の顕現と言います。6節は4節と同じ日、復活の顕現の最後の日、弟子たちと共に食事をしていた時だと考えてよいと思います。

 その席で、弟子たちはイスラエルの再建の時が今なのかと主イエスに問いました。イスラエル再建の時とは、旧約聖書に預言されているように、神は終わりの時、メシア・救い主をイスラエルのために送ってくださり、このメシアによって全世界の民を一つに集め、すべての民がイスラエルと共に一人の神を礼拝する民となる。その時、イスラエルはすべての鎖から解き放たれて自由にされ、神の栄光を仰ぎ見る。そのようなメシア待望の希望が、イスラエルの信仰深い人たちの間に広がっていました。

ルカ福音書24章に描かれているエマオに向かう道で復活の主イエスと出会った二人の弟子たちも同じような希望を抱いていました。【ルカ福音書24章19~23節】(160ページ)。彼等のメシア待望は主イエスの死によって水泡に帰してしまったかに見えました。しかし今、主イエスが死の墓から復活されたという天使たちのみ告げが、新しい希望の光であるように感じられました。そして、確かに主イエスが復活されて、そのお姿を何度も弟子たちに現わされたことによって、弟子たちの期待がより強められていったのです。

 弟子たちの期待をさらに確信へと変えたのは、5節で主イエスが彼らに聖霊が注がれる時がすぐにでも来るからエルサレムで待っているようにと言われたことでした。神は終わりの日イスラエルの民をすべての束縛から解放される時に、神の霊、聖霊を注がれると、ヨエル書やハバクク書、またエレミヤ書に預言されていたからです。聖霊が注がれる時、それがイスラエル解放の時であり、神の国が完成される時だと弟子たちは理解したようです。

イスラエルの民は長い苦難の歴史を歩んできました。紀元前721年には北王国イスラエルが滅び、紀元前587年には南王国ユダもバビロンによって倒され、国家としての独立は完全に失われていました。主イエスの時代にはローマ帝国の支配下にありました。神の民イスラエルにとって、異教徒の王に支配され、自分たちの信仰の自由が脅かされていることは、大きな屈辱であり、重荷でした。人々はイスラエルが宗教的にも政治的にも自由とされる解放の時を切に待ち望んでいたのです。

 その時主イエスは言われました。【7~8節】。主イエスは弟子たちとその時代の人々のメシア待望、神の国の到来を待ち望む信仰を否定はされません。そのことは確かに旧約聖書に預言されていました。神がお選びになった神の民は決して見捨てられてはいません。けれども主イエスは、弟子たちのメシア待望、いわゆる終末信仰を三つの点で修正されます。

 その一つは、終末の時がいつ来るのか、神の国の完成の時がいつであるのかを人間が計算したり、人間が自分の力や何らかの仕方でそれを強引に引き寄せることができるという考えに反対されます。終末の出来事はすべて父なる神のみ手の中にあります。神が時期と場所をお定めになるのであって、人間が判断したり、人間がそれを造り出すことはできません。

 このような弟子たちの誤りはいつの時代にもありました。初代教会でも、16世紀の宗教改革の時代にも、今日にも、終末のことを少しでも人間の手に引き入れたいという誘惑にかられ、その時を計算したり、それを自分たちの宗教的活動と結びつけるということをしています。特に、熱心に布教活動をする教派や聖霊を強調する教派にその傾向があります。しかし、それは神の絶対的な権威と永遠の救いのご計画を侵害することです。終末は神が来たらせ、神がすべてを完成されます。信仰者はそのことを信じて、いつも終わりの日に備えて祈りつつ、待つのみです。

 第二には、弟子たちはイスラエルの国の復興のことだけを考えていましたが、しかしそれは狭い民族主義的な信仰です。イスラエルを選ばれた主なる神は、天地万物の創造者であられ、全世界とすべての国、民族の神でもあられます。全世界の完成者であられます。神がこの世にお遣わしになったメシア・キリスト・救い主は、イスラエルの救い主であられるだけでなく、全世界の、全人類の、すべての人の救い主であられます。

 では、イスラエルだけが先に選ばれたのはなぜでしょうか。それは、彼らが全世界の人々のための証人として、そのことをすべての人々に証しするためなのです。それが、主イエスが指摘される第三のことです。主イエスは8節で、イスラエルと弟子たちの証人としての務めについて語っておられます。神に選ばれたイスラエルは、また主イエスによって選ばれた弟子たちは、聖霊を注がれて、神からの力を与えられて、イスラエルの地だけでなく、全世界へ出て行って、主イエス・キリストの証人として、主イエス・キリストの十字架と復活の証人として立てられるという、新しい務めを授けられるのです。この務めを果たすことによって、終末の時に備えるのです。

 9節からは主イエスの昇天のことが描かれます。【9~11節】。復活された主イエスは天に引きあげられました。この個所には、「天に」「天を」という言葉が5回用いら、天が強調されています。天とは、人間が住む地からは遠くかけ離れている、地とは別の世界、父なる神がいます場所のことです。そこには、神のみ座があり、神の栄光と権威と全能の力とが満ちている所です。また、天とは、主イエスがそこから地に下って来られた所でもあります。主イエスはそこへとお帰りになられたのです。主イエスの昇天の第一の意味がこれです。主イエスは地上でのすべての救いのみわざをなし終えられ、十字架の死と復活によって罪と死に勝利され、勝利者として天に凱旋されたのです。そして、天の父なる神のもとへ帰還されたのです。

9節に「雲に覆われて」とあり、10節には「白い衣を着た二人の人」とあります。雲は、聖書では神の現臨を表します。白い衣を着た人は神のみ使い、天使のことです。主イエスは父なる神の栄光のうちに迎えられ、今は神の右に座しておられ、全地とすべての人を永遠に支配しておられます。これが主イエスの昇天の第一の意味です。

 第二は、主イエスのお体は今は地上にはなく、天にあるということです。天にある主イエスのお体を何らかの仕方によって地に引き下ろすということをわたしたちはすべきではありません。宗教改革者たちはこのことからローマ・カトリック教会の実体変化と言われる聖餐論に反対しました。彼らの考えによれば、聖餐式の、彼等の言葉では「聖体拝領、ミサ」ですが、その時のパンとぶどう酒は司祭の号令によって主イエスの肉と血とに実体が変化すると言います。しかし、主イエスのお体は地上にではなく天にあるのですから、ミサの時に天から地に降りてくるということはあり得ませんし、またそうすべきでもありません。それは、宗教改革者たちが激しく批判したように、主イエスのお体をミサのたびごとに十字架につけることになります。それは、聖書に書かれているあの一回限りの主イエスの十字架によっては、救いは不完全であるということにもつながります。そのことから、プロテスタント教会はカトリック教会のミサの考え方には、特に実体変化説には強く反対しています。また、同じ理由から、教会堂の中から主イエスのお姿を連想させる像や絵画を取り去りました。わたしたちが主イエスと出会い交わりを持つことができるのは、あくまでも信仰によってであり、み言葉と聖霊なる神によるのであって、肉の目や肉の体によってではありません。

 では、主イエスが今は地上にはおいでにならないのだとすれば、「わたしは世の終わりまであなたがたと共にいる」(マタイ福音書28章20節参照)と言われた主イエスのお約束は果たされないということなのでしょうか。いや、そうではありません。否、むしろ、その反対に、主イエスのお体が天に移されたことによって、主イエスはわたしたちすべての人と永遠に共にいてくださるという約束がより確かになったのです。主イエスのお体が地上にあった時には、主イエスはそこにいた限られた弟子たちと共におられましたが、今は天におられ、すべての人と、永遠に共にいてくださるようになったのです。わたしたちは信仰によって、聖霊に導かれて、主イエスがいつもわたしと共におられ、わたしを導いてくださることを信じることができるのです。これが主イエスの昇天の第三の意味です。

 主イエスはそのことの確かなしるしとして、また保障として、聖霊をわたしたちに送ってくださいます。これが昇天の第四の意味です。5節と8節で約束されたように、天に上げられた主イエスは、聖霊なる神をわたしたちのもとに送ってくださいました。聖霊によって、わたしたちは主イエスがわたしと共におられるという信仰を持つことができ、主イエスの十字架の死と復活が、このわたしの救いのためであったことを信じることができるのです。

 もう一つのことを付け加えなければなりません。11節に、【11節】と書かれています。主イエスは世の終わりの時、終末の時、再び地上においでくださり、信じる人たちを天の神のみ国へと迎え入れてくださいます。その時、神の国が完成され、わたしたちの救いが完成し、朽ちることのない永遠の命が与えられるのです。その時に至るまで、主イエスは天におられて、地のすべてをご覧になり、お導きくださり、信じる人たちをお守りくださいます。それゆえに、わたしたちも目と心と体のすべてを天に向けて、主イエスの再臨を待ち望むのです。

教会の民は、主イエスの昇天と再臨の二つの時の間に生きている群れです。それゆえに、たしかな保障と約束を与えられ、終わりの日の完成に向かっているのです。

(執り成しの祈り)

○天の神様、わたしたちは今この地上にあって、さまざまな恐れや不安、混乱と

動揺の中におります。けれども、わたしたちの信仰の完成者であられる主イエスが天におられ、わたしたちのすべての歩みを導いておられます。どうぞ、わたしたちがかしらを上げて、天におられるあなたのみ心が行われることを信じさせてください。

○全世界があなたの憐れみを求めて、祈っています。どうぞ、世界の人々に愛と

分かち合いの心をお与えください。特に、住む家や食料、医療で困窮している

人々を助けてください。

○世界の為政者たちが主なる神であるあなたを恐れ、あなたの義と真実と平和

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