7月26日説教「大洪水とノアの箱舟」

2020年7月26日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記7章1~24節

    ペトロの手紙一3章13~22節

説教題:「大洪水とノアの箱舟」

 創世記7章1~5節にこのように書かれています。【1~5節】。ここには、神がこれから全地に対して何をなそうとしておられるか、またその目的、意図が何であるのか、そしてその神のご計画に備えて、ノアとノアの家族が何をなすべきなのかについて書かれています。

ここでわたしたちが第一に注目したいことは、1節冒頭の「主はノアに言われた」というみ言葉です。前回にも確認したことですが、6章~9章までの「大洪水物語」とか「ノアの箱舟」と言われる個所では、終始一貫して、ただ主なる神だけがお語りになり、主人公であるノアは一言も発言していないということ、ノアは黙して、主なる神のみ言葉に聞き従っているということ、このことこそが、大洪水物語りで神がわたしたちに語ろうとしておられる最も重要なメッセージなのだということを、わたしたちは今一度確認しておきたいと思います。6章22節にはこのように書かれていました。【6章22節】。また、7章5節には【5節】と書かれています。それゆえに、1節後半で「この世代の中であなただけはわたしに従う人だ」と言われているとおりです。また、6章8節で、「しかし、ノアは神の好意を得た」と言われ、9節では「この世代の中で、ノアは神に従う

無垢な人であった」と言われているのは、同じ意味からです。

新約聖書の証言も同じです。主イエスはマタイによる福音書24章37節以下でこのように言われました。「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである」。ヘブライ人への手紙11章7節にはこう書かれています。「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました」。そして、今日の礼拝で朗読されたペトロの手紙一3章20~21節にはこう書かれています。「この霊たちは、ノアの時代に箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです」。

それゆえに、主イエス・キリストの福音によって救われているわたしたちは、いまだ罪が世にはびこり、不義と暴虐、悪と偽りに満ちているこの時代にあって、主の日の礼拝ごとに神を礼拝し、神のみ言葉に耳を澄まし、黙々とそれに聞き従いつつ、来るべきみ国の完成の時を待ち望むのです。神はわたしたちの信仰の歩みを最後まで支え、導いてくださり、わたしたちの信仰を完成させてくださいます。

7章1節に再び目を戻しましょう。「あなただけはわたしに従う人だ」と訳されている箇所は、ヘブライ語原典を直訳すると「あなたはわたしの前で義なる人だ」となります。「口語訳聖書」では「わたしの前に正しい人」と訳されていました。6章9節でも「神に従う」と訳されている箇所は本来は「義なる人、正しい人」という言葉です。「新共同訳聖書」は神のみ前で義なる人、正しい人とは、神のみ言葉に聞き従う人であるという理解で、そのように翻訳しています。ノアの場合はそのことがよく当てはまります。

けれども、神のみ言葉に聞き従うということは多くの人にとって、特にノアにとっては、快いことではありませんし、納得できることでもありません。人々は飲み食いし、日々を楽しんでいます。神のみ言葉に聞き従うことよりも、もっと自分を満足させてくれること、あるいは世のためになること、今の時代にふさわしいことに励んだ方がよいと多くの人は考えます。でもノアだけは、世の人々の生き方に反して、あるいは周囲の状況にも反して、巨大で奇妙な形の箱船づくりに集中しています。陸地のど真ん中で、太陽が照る中で、人々追いが求める楽しみとは違った道を一人歩き続けています。「ノアはすべて主が命じられたとおりにした」と書かれているように。それが、神のみ前で義なる人、正しい人と言われるノアの生き方です。そのようなノアの生き方が、結果的に、罪の世を裁くことになり、信仰の義を受け継ぐことになったのだとヘブライ人への手紙は言っています。

そのような意味で、教会はしばしば箱舟にたとえられます。教会の民はこの世の罪の大洪水の中で、箱舟に招き入れられ、神の救いを与えられているノアの家族の一員です。しかし、箱舟はこの世から逃れるための隠れ家ではありません。むしろ、この世にあっての神の義の証し人であり、自らは神のみ言葉に聞き従うことによって結果的に罪のこの世を裁く務めをも果たすのです。いずれにしても、教会において最も重要なことは、言うまでもなく、そこで神のみ言葉が語られ、聞かれるということです。

2節からは、箱舟の中に連れていくべき動物や鳥などの生き物のことが書かれています。同じような内容が、13~16節でも繰り返されています。このような重複、繰り返しは、創世記を構成している元の資料の違いによると、今日の聖書学では説明されます。以前にも、1章~2章3節までの天地万物と人間創造の記録と2章4節からのもう一つの人間とその他のものの創造の記録とが、二つの違った資料に由来しているらしいという研究について少し触れました。このノアの大洪水の記録においても、二つあるいはそれ以上の資料が編集されたのではないかと考えられています。その資料の違いが一目で判別できるのが、「主」という言葉と「神」という言葉です。1節と16節後半では「主」とあり、9節と16節前半では「神」となっています。同じ神のことを一方の資料では「主」と呼び、他方の資料では「神」と呼んでいます。それにしても、資料の違いがあるとしても、わたしたちが一読してその違いを判別できないほどに密接に結びついていますし、それらが一つの神の救いのみわざを語っているということは言うまでもありません。

さて、ノアは神に命じられたとおりに、彼の妻と三人の息子とその妻たち、計八人、それに動物の雄と雌とを取って箱舟に入りました。これを見ていた当時の人々にとっては、何と愚かなことのように思われたに違いありません。まだ洪水が起こる前の乾いた地上に造られた箱舟と、その中に入るノアの家族。人々は日々の暮らしに忙しく、時に家族でレジャーを楽しみ、趣味に興じている。その中で、「ノアは、すべて主が命じられたとおりにした」のです。

前に、ノアの箱舟とよく似ている大洪水物語が世界各地に伝えられているということを紹介しましたが、その中でもバビロニアの「ギルガメシュ叙事詩」に描かれている大洪水物語がノアの箱舟と非常によく似ています。けれども、両者には決定的に違う点がいくつかあります。その一つが、船に乗り込むにあたって、何を一緒に持っていくかということです。「ギルガメシュ叙事詩」では、その人が所有しているすべての金銀であったと書かれていますが、ノアの場合には違います。ノアは神のお命じになったものだけ、洪水の後の新しい世界に住むべきノアの家族と生き物のつがいだけです。それらの生き物の中の清い生き物は、8章20節に書かれているように、洪水の後で神にささげられるためのものです。神礼拝に必要なもの以外には、食料とか着替えとかの必需品についても、聖書には何も書かれていません。ましてや、これまでの思い出の品とか預金通帳とか、緊急避難用品、あるいは新しい生活に備えての生活設計とかも、何一つ持っていくに及びません。新しい世界ではすべては神が備えてくださるからです。

主イエスは言われました。「何を食べようか、何を着ようかと、思い煩うな。神はあなたに必要なものをすべて知っていてくださる。だから、まず神の国と神の義とを求めなさい」と。

【10~12節】。創世記1章6~7節で、神は天地創造の二日目に、大空の下の水と上の水とを二つに分けられたと書かれていました。神は大空の上の水がためられている窓を時々開いて地に雨を降らせると考えられていました。ところがこの時には、天の窓全体が一気に開かれ、地に大量の雨が落ちてきて、それが40日間も続いたとあります。神の裁きの時の始まりです。地を覆っている罪と悪をすべて洗い流すための神の徹底的な裁きの時です。地にあるすべてのものは、高い建物も山も、人も他の生き物も、すべてがその形を失い、その命を失いました。

雨が降り続いた40日間は、ノアにとっては試練の時、苦難の時でした。しかしまた、その40日間は神の憐れみによって生きることを知らされるまでの訓練の時でもありました。エジプトの奴隷の家から解放されたイスラエルの民が約束の地に到着するまでの40年間の荒れ野での生活を主なる神によって導かれたこと、また主イエスが荒れ野で40日間の断食の後で悪魔の誘惑と戦われ、勝利されたこと、そしてまた主イエスの40日間の復活の顕現、これらに共通しているテーマをみることができるでしょう。

【21~23節】。ここでは、「ことごとく息絶えた」「ことごとく死んだ」「ぬぐい去られた」と繰り返され、神の裁きの徹底している様子が強調されています。多くの登山家や冒険家たちをの挑戦をはねのけてきた世界の最高峰であれ、あるいは人間が知恵と技術で築き上げた堅固で高い建物であれ、強大な国家であれ、高性能の武器であれ、大洪水の中にあっては、神の徹底した裁きの前では、全く無に帰してしまうほかにありません。高度な文明、科学、技術を競ってきた人類は、このことを決して忘れてはなりません。あるいはまた、どれほどに邪悪と暴虐と悲惨に満ちている世界であれ、そこにも神の裁きのみ手があることを覚えるべきです。

「ノアと、彼と共に箱舟にいたものだけが残った」。神の大いなる裁きの中で、しかし、神の憐れみによってわずかに残されたものがあると、聖書は語ります。神の大いなる裁きをくぐり抜けてきたものたちを、神は残してくださいます。それゆえに、ノアの箱舟に招き入れられ人たちは、ただ神の憐れみによって生きることをゆるされていることを忘れてはなりません。わたしたちもただ神の憐れみによって生かされている者たちとして、この教会に招かれているのです。

(執り成しの祈り)

○天の神よ、あなたの大いなる憐れみとゆるしとを心から感謝いたします。どう

か、あなたの憐れみによって生かされている者として、あなたのみ言葉に喜んで聞き従っていくことができますように、お導きください。

○全世界があなたの憐れみを求めて、祈っています。どうぞ、世界の人々に愛と

分かち合いの心をお与えください。特に、住む家や食料、医療で困窮している

人々を助けてください。

○世界の為政者たちが主なる神であるあなたを恐れ、あなたの義と真実と平和

を実現することができるように、あなたからの知恵と力とをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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