8月16日説教「主キリストにある平和-もはや戦うことを学ばない」

2020年8月16日(日) 秋田教会主日礼拝説教 「世界平和祈念礼拝」

聖 書:イザヤ書2章1~5節

    エフェソの信徒への手紙2章14~22節

説教題:「主キリストにある平和―もはや戦うことを学ばない―」

 日本の教会では、終戦記念日の8月15日前後の主の日を「平和を祈る日」とか「平和祈念礼拝」として、特別の礼拝をささげる伝統があります。日本は世界の中で唯一、しかも二度の被爆を体験した国として、戦争や核兵器の恐ろしさや悲惨さを全世界に向けて訴え、平和の尊さを語っていく使命が託されています。それとともに、アジアの諸国に多くの犠牲を強いたという戦争責任をも強く自覚しなければなりません。それだけでなく、特にわたしたちキリスト者は主イエス・キリストを全人類の救い主と信じる信仰によって、世界が主にあって和解し、一つの民とされ、真実の平和を追い求めていくために、平和の福音を語り伝えていくという務めを主から託されていることを知っています。今一つ、きょうの「世界平和祈念礼拝」でわたしたちが祈りをあつくするテーマは、今や世界至る地域へと拡大していった新型コロナウイルス感染症のことです。主なる神がこの深く病んでいる世界と一人一人とを憐れんでくださって、いやしを与えてくださるように、肉体の病だけでなく、心の病や社会全体の病をもいやし、この病に打ち勝つ希望と喜びとを与えてくださるように、切に祈ります。

 わたしたちは世界の平和のために、また感染症と戦うために、今何をなすべきでしょうか。国として、世界として、一人一人として、さまざまな課題がわたしたちの目の前に山積みされているように思われます。それを自覚しながら、しかしわたしたちは何よりもまず、神のみ心を尋ね求めるために、聖書に聞くことが最も重要であると考えます。主イエスが福音書の中で言われたように、神のみ心なしには空の鳥の一羽も地に落ちることはないし、髪の毛の一本一本もみな神に数えられているのですから(マタイ福音書10章29節以下参照)、わたしたちは主なる神のみ心を知り、主なる神のみ心を信じて祈る者となることこそが、今わたしがなすべき第一のことであると考えるからです。

 イザヤ書2章は紀元前8世紀後半にイスラエルで活動した預言者イザヤの預言ですが、この預言は彼の時代だけでなく、そののちのすべての時代にも語られている神のみ言葉として聞くべきです。2章2節の冒頭に、「終わりの日に」と書かれています。聖書で「終わりの日」とは、いわゆる終末の時のことで、神が終わりの日にはご自身のみ心を完全に成就してくださり、神の国を完成してくださる日のことであり、神の民にとっては救いが完成される日であり、すべての悪や人間の罪が取り除かれる日のことです。

 旧約聖書の民であるイスラエルはこの終末信仰を持っていました。イザヤ書の中にも終末信仰がたびたび描かれています。というよりは、イザヤ書全体が終末信仰に貫かれていると言った方がよいかもしれません。というのは、終末信仰とは、いつかやがてその終末の時が来るという信仰だけでなく、今この時も、すべての時が、その終末に向かって進んでいる。その終末と深いかかわりを持ちながらすべての時、すべての時代、そしてすべての出来事が終末の完成を目指して進行しているという信仰だからです。言い方を変えれば、預言者は終末から今を見ていると言えましょう。それが、信仰者の見方であり、とらえ方なのです。

 イザヤ書2章で預言者は終末の時にイスラエル南王国ユダとその首都エルサレムに起こるべき幻を語っています。それはまた、全世界、すべての民にも関連しています。1節には「ユダとエルサレムについて」とありますが、2節には「国々はこぞって大河のようにそこに向かい」とあり、3節では「多くの民」、4節では「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる」、また「国は国に向かって剣を上げず」とあります。ここに描かれている終末の幻は、全世界のすべての国民と関係しているのです。旧約聖書の中でイスラエルの民が神に選ばれているのは、全世界のすべての民のいわば代表としての役割を与えられているのです。イスラエルの民は他の諸国に先立って神のみ言葉を聞き、終末の日に起こるべきことを知り、それに備えて日々を歩むべきことを学ぶのです。彼らは終末の日の証人とされているのです。これが、神に選ばれた信仰者の務めです。わたしたちはここで預言者イザヤが見た終末の幻を正しく理解し、信じ、そしてそれが終末に向かって急いでいる今のこの時代の中で何を意味するのかを、世界に向かって証しする務めへと召されているのです。

 預言者イザヤがここで見た終末の幻の中心は、全世界の民が一人の主なる神を礼拝するために神の家に集まってくるということです。【3節】。全世界の民が一人の主なる神を礼拝する時に、世界は一つの民となります。全世界のすべての人が神の道を歩み,神の教えに聞く時に、人々は一つの群れとなります。それによって、終わりの日の神の国が完成されます。

 イザヤの時代には、イスラエルの周辺ではアッシリアやエジプトなどの大国が覇権争いをし、戦争を繰り返していました。いつの時代にも、世界の諸国はその軍事的・経済的な力を誇示して、競い合い、争い合ってきました。そのようにして、世界は分断と分裂を繰り返してきました。聖書は、その根底には人間の罪があるとみています。神から離れ、神なしで、人間たちが自分の好みと欲望とに任せて、自分の道を進もうとし、自分の考えや計画を実現しようとすることから、争いと分断が生まれてくると聖書は言います。

 さらに4節にはこう続きます。【4節】。ここには、終末の時の完全で永遠の平和が預言されています。3節との関連で見ると、唯一の主なる神を全世界の国民が礼拝し、一つの民となる時に、真実で、永遠なる平和が実現するのだということです。古代の多くの国や都市がそうであったように、高く堅固な城壁をめぐらして敵の侵入を防ぐことによって平和が保たれるのではありません。今日でも、多くの国がそう考えているように、強力な武器を数多く所有し、高性能の爆撃機や軍艦を揃えることによってでもありません。そしてまた、核兵器によって武装し、相手国に恐怖を与えて攻撃を阻止することによってでもありません。何らかの思想統制やイデオロギーで国民を縛りつけることによってでもありません。そのようなことによって保たれる平和は、仮の平和であり、つかの間の平和であり、次の新しい戦いの準備でしかありません。聖書が教える平和、神から与えられる平和は、神礼拝による平和です。すべての国民が、主なる神を恐れ、主なる神のみ前にひれ伏し、一つの群れとなって、主なる神だけを唯一の主として礼拝する時に与えられる平和です。

 その平和について4節の冒頭では、主なる神が唯一の裁き主になることによって生み出される平和であると言います。主なる神が唯一の裁き主になる時に、だれもだれかを裁く必要ななくなり、国々は互いに競い合う必要がなくなり、どれが正義であるかを判定する必要もなくなり、もはやだれも戦うことを学ぶ必要はなくなり、どうしたら相手に勝利することができるかに頭を悩ます必要もなくなります。

 そのようにして、主なる神から真の平和を学び、真の平和に生きることをゆるされた人たちは、もはや戦いのための武器を持つ必要がなくなります。彼らは武器を放棄するだけでなく、武器を造っていた材料を解体し、それらで新しい農具を造るようになると語られています。人の命や神によって創造された世界と自然を破壊するための道具であった武器を持つ手から、神によって祝福された大地を耕し、貧しい人々を養うための豊かな実りを収穫し、共に神に祝福された命にあずかるための農具を持つ手へと変えられていくのです。

 これは一つの比喩と理解できます。剣や槍は、わたしが自分を守るための何かであり、相手を攻撃するための何かであると理解できます。たとえば、それが言葉であったり、行動であったり、知識であったり、力や権威であったり、わたしたちは自分を守るための、あるいは時にはだれかを攻撃するための、たくさんの武器を持っています。しかし今、神からの真の平和を与えられているからには、それをすべて投げ捨て、それに代わって、相手の心を豊かに耕して神の祝福に満たすために、相手の徳を高め、神の愛で満たすために、そして重荷を負う隣人の荷を共に担うために、わたしが神の平和の証し人となるように招かれているのだということを知らされます。

 しかしまた、これは比喩であるだけではありません。神からの真の平和を与えられている人間たちと世界の国々は、人と自然を破壊する道具である武器を、大地を耕すための道具である農具に造り変えることを命じられているのです。これは非常に現実的な課題であるように思われます。どうか、考えてみてください。一機の戦闘機によって、食糧難に苦しむ人々、子どもたち何人を救うことができるでしょうか。一隻の軍艦によって、感染症を治療するための病室をいくつ増やせるでしょうか。一個の核兵器やミサイル開発に要する知識や費用を、世界の平和を造り出し、世界が共存するために用いるとしたら、どうでしょうか。全世界のすべての武器を平和共存のための道具に造り変えたら、世界はどのように変わっていくでしょうか。これは、比喩ではありません。非常に現実的で、そして緊急で、また重たい課題です。でも、それは確かに、神からの真の平和を与えられていることを知っているわたしたち、小さな、力のないわたしに託されている大きな課題なのです。

 では最後に、平和の証人としてのわたしたちの課題を果たしていくために、わたしたちにできることは何でしょうか。わたしたちの多くは社会的・政治的な力を持っていません。世界に影響力を発揮するような発信力もありません。けれども、この世界に真の平和をもたらすのは、わたしではありません。主なる神です。そして、わたしたちはこの主なる神のみ心と全能のみ力とを信じて、神に祈ることがゆるされているのです。神はわたしたちの祈りに耳を傾けてくださり、終わりの完成の時に向けてすべてを導いておられます。祈りは困難な現実、不可能と思われる現実を貫き、それを超えて、わたしたちに希望を与えます。教会の民、信仰者は祈りによって、この希望に生きる者とされているのです。

 それでは、ここでみなさんで世界の平和を願う祈りをささげましょう。お立ちいただける方はお立ちください。クリーム色のプリントをご一緒に読んで祈りをささげます。

「世界の平和を願う祈り」を祈りましょう。

天におられる父なる神よ、

あなたは地に住むすべてのものたちの命の主であり、

地に起こるすべての出来事の導き手であられることを信じます。

どうぞこの世界をあなたの愛と真理で満たしてください。

わたしたちを主キリストにあって平和を造り出す人としてください。

神よ、

わたしをあなたの平和の道具としてお用いください。

憎しみのあるところに愛を、争いのあるところにゆるしを、

分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、

絶望のあるところに希望を、闇があるところにあなたの光を、

悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。

主よ、

慰められるよりは慰めることを、

理解されるよりは理解することを、

愛されるよりは愛することを求めさせてください。

なぜならば、わたしたちは与えることによって受け取り、

ゆるすことによってゆるされ、

自分を捨てて死ぬことによって永遠の命をいただくからです。

主なる神よ、

わたしたちは今切にあなたに祈り求めます。

深く病み、傷ついているこの世界の人々を憐れんでください。

あなたのみ心によっていやしてください。

わたしたちに勇気と希望と支え合いの心をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

「聖フランシスコの平和の祈り」から

2020年8月16日

日本キリスト教会秋田教会「世界の平和を祈念する礼拝」

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