8月23日説教「箱舟を出て神を礼拝したノア」

2020年8月23日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記8章1~22節

    ローマの信徒への手紙12章1~2節

説教題:「箱舟を出て神を礼拝したノア」

 神はノアの時代に、地に住む人間たちの罪と悪が地上に満ちていることに心を痛められ、地のすべての生き物を大洪水によって滅ぼすことを決意されました。ノアは神の前に恵みを得て、人間たちの中から選ばれ、箱舟を造るように命じられました。ノアは神の命令に従順に従い、人々が食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしている間に、黙々と箱舟を造り、彼の家族と動物たち一つがいずつを連れて箱舟に入りました。神は地に大雨を降らせ、40日40夜降り続いた雨が地の表のすべての生き物を飲み込みました。ただ、箱舟の中にいたものたちだけが残りました。これは、人間の罪に対する神の大いなる裁き、審判です。

 ある神学者はこう言っています。「ノアの大洪水は、地上に罪が蔓延するのを防ぐために神が起こす、最後から二番目の大きな審判である」と。「最後から二番目」とは、最後の審判が主イエス・キリストが再臨される終わりの時、神の国が完成される時に行われるのですから、その前の審判という意味です。この指摘は、わたしたちが創世記6~9章に記されている大洪水とノアの箱舟のみ言葉を読む際に、決して見失ってはならない、重要な視点を明らかにしています。わたしたちがこの個所を読む際に、これを単なる昔ばなしや神話として読むのではなく、また古代の異常な自然現象として読むのでもなく、ここには人間の罪に対する神の厳しい裁きが、世界規模での神の審判が語られているのだということ、そしてまたこれは来るべき最後の神の大いなる審判である主イエス・キリストが再臨する終わりの時、終末の時を指し示しているのであり、その終末の到来に備えて生きるべきわたしたち信仰者の生き方を教えているのだということ、そのことをここから読み取るべきだということです。

 40日40夜降り続いた雨は、その後も150日間地にみなぎっていたと7章の最後に書かれています。だれが、どのようにして、地のすべてをその中に飲み込んだこの大洪水を終わらせることができるのでしょうか。8章1節以下を読んでいきましょう。【1~5節】。

 「神は御心に留められた」。ここから、新しい世界が、新しい出来事が開始されます。神が御心に留められるとは、神が新たな決意をもって、新しいみわざを始められることを意味します。神は人間の罪に対する大いなる裁きの中で、その裁きを超えて、今新しい救いのみわざをなそうとしておられます。神は大洪水の上に漂流する箱舟とその中にいたノアの家族とすべての生き物とをみ心に留められ、彼らによって救いのみわざを始めようとしておられます。人間の罪に心を痛められた神は、罪の人間と悪に満ちたこの地を完全にお見捨てにはなりません。なおも顧みてくださいます。そこから神の救いのみわざが始まります。

 1節で「風」と訳されている言葉は「霊」とも訳されます。風が吹くとは、神の霊の働きの具体的な現象です。神が霊の働きによって、地を覆っていた水を退けられました。そして、深遠の源と天の窓とを閉じられたので雨は降り止んだと2節に書かれています。これらの表現は、創世記1章の神の天地創造の記述と似ています。神は天地創造の初めに、混沌として闇が深淵の表にあった原始の海をご自身の霊によって支配され、そこに光を創造され、また海の水を上の水と下の水とに分かられました。その天地創造の時の偉大なみ力によって、神は洪水のあとの新しい世界を再創造されるのです。

 アララト山は現在のトルコ共和国の東に位置する標高5137メートルの山と同じ名前です。古い時代から、ここにノアの箱舟が漂着したと言い伝えられてきました。次第に水が引き、山々の頂が姿を見せ、箱舟が山の上に止まるという3節から6節にかけての日付、150日、第七の月の17日、第10の月の1日、そして40日という月日の経過は、神の怒りが次第に和らいでいく様子と、神が次第に新しい創造のみわざを進められる様子とが、重なり合って感じられます。神は着々と救いのみわざを進めておられます。

 【6~12節】。古代では、海を航海する人たちが陸地が近くにあるかどうかを知るために船から鳥を放つという習慣がありました。ノアは地が乾いたかどうかを知るために、初めにカラスを放ちましたが、地が乾くまで飛び回り、ノアのもとには戻ってきませんでした。次に、鳩を放つと、鳩は夕方ノアのもとへ帰ってきました。まだ地が乾いていなかったからです。9節の表現は帰ってきた鳩を迎えるノアの愛情あふれる姿を言い表しています。「ノアは手を差し伸べて鳩を捕え、箱舟の自分のもとに戻した」。ノアのもとへ戻って来なかったカラスとは違って、まだ地が完全に乾いていないことを知らせるために戻ってきた鳩を、ノアは優しく迎えています。それは、神が新たに与えてくださる乾いた地を待ち望むノアの信仰による待望をも暗示しているように思われます。七日待って再び放たれた鳩は、ノアの待望の時が満ちたことを知らせるために、オリーブの若葉を口にくわえて帰ってきました。ノアの待望の時はむなしく終わることはありませんでした。さらに七日後に、三度鳩を放ったところ、鳩は戻ってきませんでした。巣を作り、新しい生活を始める場所を見つけたからでしょう。

 このようにして、鳩は神の裁きによって滅ぼされるべきこの地に神が新たにお与えくださった命の誕生と、神と人間との和解を象徴する鳥となりました。また、オリーブは神の祝福、繁栄を象徴する木となりました。

 【13~19節】。ノアは箱舟の覆いを開けて、地が完全に乾いていることを自分の目で確認しました。でも、彼は自分の判断や意志で箱舟を出るのではありません。ここでも、6~9章の大洪水物語全体を貫いているノアの姿勢は維持されています。つまり、ノアは自分からは一言も語らず、自分の意志や計画によって行動することもなく、ただ主なる神だけが語り、ノアはそれに従順に聞き従うということです。16節で「あなたもあなたの妻も……皆一緒に箱舟を出なさい」、17節で「すべての動物たちを一緒に連れ出しなさい」と言われた神の命令に従って、ノアは行動します。神から与えられた新しい世界では、ノアが行動の主体となって生きるというのではなく、ノアが自分の判断や計画で新しい歩みを始めるというのではなく、まず神のみ言葉を聞き、神のみ心を尋ね求めつつ生きるべきであるということが、ここには示されています。神が大洪水のあとに新たに創造された地を人間と生き物たちに備えてくださったのです。そして、大洪水後に神から与えられた新しい地で生きる人間の第一歩は、神のみ言葉から始められるべきであるということを、わたしたちはここから知らされます。

 ノアは神の大いなる裁きの中で、沈黙しつつ、耐え忍んで、待ち続けました。神の裁きの時が終わり、新しい地へと出ていく時が来るのを、箱舟の中で待ち望みました。ノアの待望の時は決してむなしく終わることはありませんでした。今やノアは神の裁きの時が終わり、救いの時が来たことを知らされ、喜びつつ箱舟を出ました。

 【20~22節】。ノアの新しい地での新しい第一歩は、神礼拝から始まります。礼拝は救われた人の神への感謝と奉仕です。神から与えられた新しい地での感謝の生活の第一歩が礼拝です。ノア以前の人間もそうでしたが、ノア以後の人間はよりはっきりと、神礼拝こそが人間が生きる基本であるということが示されました。アダムからノアに至るまで、またノアから今日に至るまで、人間は神を礼拝して生きるべきものとして創造されているのです。そうである時に、人間は本当の意味で人間となるのです。

 「清い家畜と清い鳥」はのちの時代にレビ記11章や申命記14章で定められる規定がここでいわば先取りされています。清い、汚れている、はイスラエルの宗教的な規定であって、生き物自体の性質のことではありません。神はご自身にささげられるべき犠牲の生き物として清い生き物を定められました。それは、神が清い方であり、完全な方であることを示すために、イスラエルの民が神にささげるものも、日常で用いられるものとは違って、特別に聖別された清く完全なものでなければならないという信仰に基づいています。

 また、「焼き尽くす献げ物」とは「燔祭」とも言いますが、動物の血を抜き取った後の内臓をも含めたすべてを火で焼き尽くして、その香りと煙とを天の神にささげるという礼拝形式で、これは神への感謝と喜びと献身のすべてを神におささげして神を礼拝するということをあらわしています。天におられる神はその香ばしい香りをかいで、礼拝者の全き献身を喜び受け入れてくださいます。ノアのこの礼拝形式はのちのイスラエルン民に受け継がれていきました。

 21、22節の神のみ言葉には二つの意味が含まれています。一つは、神は二度と再びこの地を呪って、大洪水によってこの地を滅ぼすことはなさらないという神の強い決意、人間に対する固い約束です。地に四季がめぐり、雨季があり乾季があり、寒い季節があり暑い季節がある、それはこの地を顧みていてくださる神の大いなる恵みなのです。神は良い者にも悪い者にも同じように太陽を登らせてくださいます(マタイ福音書5章45節)。ノアの大洪水以後のわたしたちは、このような神の大きな恵みと慈しみ、神の憐れみと忍耐の中にあって生かされているのだということを知らされます。

 もう一つは、しかしこの地から人間の罪がぬぐい去られたのではないということ、人間は生まれながらにして罪びとであり、この地は人間たちの罪で満ちているということです。宗教改革者カルヴァンはこう言っています。「本当ならば、神は毎日大洪水を起こして人間を罰しなければならないだろう」と。しかし、神はそうなさらないと言われます。神の憐れみと忍耐は、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって罪びとたちの救いが成就される時まで続けら、さらに主キリストの再臨の時、神の国が完成され、わたしたちの救いが完成される時にまで続けられるということを、わたしたちは新約聖書で知らされるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、あなたの裁きの前では滅びにしか値しないわたしたちを、憐れみ、

なおも愛してくださり、み子による救いへとお招きくださったことを感謝いたします。どうか、わたしたちをあなたの恵みを感謝する真実の礼拝者としてください。

○神よ、どうぞこの世界を憐れんでください。あなたを離れて、滅びへと向かう

ことがありませんように。特に、あなたを信じる者たちがあなたのみ怒りと裁

きを恐れ、み前に謙遜な者とされ、あなたの憐れみとゆるしとを熱心に願い求

める者とされますように。

〇主よ、わたしたちを主キリストにあって平和を造り出す者としてください。

 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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