8月30日説教「主イエスの権威と力」

2020年8月30日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書55章8~11節

    ルカによる福音書4章31~37節

説教題:「主イエスの権威と力」

 ルカ福音書では、主イエスの福音宣教は故郷、ガリラヤのナザレから始まります。ある日、ナザレの会堂での安息日の説教が終わった後で、故郷の人々は主イエスの説教を聞いて憤慨し、主イエスを殺そうとしたと4章28節以下に書かれています。前回学んだ箇所の終わりの部分に少し触れてから、きょうのテキストに入っていきたいと思います。

【28~30節】。福音書の最後に描かれている主イエスの十字架の暗い影が、福音宣教の最初であるこの個所にすでに差し込んでいるのをわたしたちは気づきます。「預言者は自分の生まれ故郷では歓迎されないものだ」という古くからのことわざのように、否それ以上の深刻さと真実さとを含んで、神がこの世にメシア・救い主として派遣された神のみ子は、ご自身の民であるイスラエルからも、また全人類からも歓迎されることなく、彼らから憎まれ、拒絶されて、十字架の死へと追い込まれていく、その最初の暗い影がここに差し込んでいるのです。神の救いへの招きを拒み、なおも罪の道を突き進もうとして、罪なき神のみ子を十字架につける人間の罪が、主イエスの福音宣教のこの最初の場面ですでに明らかになっているのです。

ナザレの会堂で主イエスが朗読されたイザヤ書61章の解放の福音、主なる神の恵みを告げる福音が、イスラエルと全人類の罪からの解放であり、神の恵みによって罪のゆるしを告げる福音であるということが、ここですでに明確にされています。そして次の31節からのカファルナウムでの教えと悪霊につかれた人のいやしのみわざは、主イエスの罪のゆるしの福音の最初の具体的な実例であると言えます。

【31~32節】。主イエスは故郷であるガリラヤのナザレからガリラヤ湖畔のカファルナウムの町に移動されました。故郷から追い出され、町の中にお姿を隠すためでしょうか。いや、そうではありません。この町でも、福音を語るため、救いのみわざを続けるためです。たとえ、だれからも歓迎されなくても、命の危険にさらされても、主イエスの福音宣教のお働きは中断されることはありません。神の国が完成される日まで続けられます。

カファルナウムを起点にして見れば、ナザレは南西40キロメートルにある山間の村です。カファルナウムは海水面よりも低く、マイナス210メートルの低地にあるので、「ナザレから下って」と表現されていると思われます。このあと、カファルナウムは主イエスのガリラヤ地方伝道の拠点になります。38節では弟子のシモン・ペトロの家に入られたとありますが、主イエスはガリラヤ伝道の期間中、この家を宿にしておられたと推測されています。

主イエスはナザレの会堂でもそうであったように、カファルナウムの会堂でも単に礼拝の会衆の一人として参加しておられたのではありません。あるいはまた、単に旧約聖書のみ言葉を解きあかす説教者として語られたのでもありません。主イエスは安息日に礼拝されるべき主として、また神のみ言葉を成就するメシア・救い主として、カファルナウムの会堂の中心に立っておられます。

主イエスが語られるみ言葉には権威があったと32節に書かれています。その権威はどこから来るのでしょうか。言うまでもなく、それは神から与えられた権威です。神のみ言葉である聖書を解きあかす説教者には神からの権威が与えられています。説教者は自分の意見や願いを語るのではなく、神のみ心、神の救いのご計画を語ります。この点において、当時の長老たちや預言者たちにも同様に神の権威が与えられています。しかし、主イエスに与えられた権威は彼らのものとは根本的に違います。彼らは、「神はこう言われた。神はこのようになさるであろう」と語りましたが、主イエスは「神の預言のみ言葉は今わたしによって成就した。神はわたしによってご自身の救いのみわざを成し遂げられる。わたしこそが神のみ言葉の成就そのものである」と語られたのです。ここに、主イエスが語られたみ言葉の権威があったのです。だれも今までそのような説教を聞いたことがありませんでした。安息日の礼拝で会堂に集まっている人々は主イエスの説教に驚きました。

その中でも、特に汚れた悪霊に取りつかれた一人の男の人が主イエスの権威を敏感に感じ取りました。【33~34節】。この男の人は「我々を」と言っています。彼にとりついている悪霊が多くなので「我々」と言っているのか、あるいは、悪霊と男の人が一緒に合体して「我々」と言っているのか、区別はできません。男の人は悪霊に全く支配され、悪霊と一体化しています。

悪霊は人間よりもはるかに勝る鋭い洞察力をもって、主イエスの本性を見抜いているのです。悪霊は、主イエスが神の権威をもって語っており、神から遣わされた神の聖者として自分たちを滅ぼしに来たのだということを、感じ取りました。それは、人間にはない、悪霊の特別な能力でした。この時には人間はまだだれも主イエスがメシア・キリストであることも来るべき神の国の主であることも悟らず、告白していなかったにもかかわらず、悪霊は人間よりも鋭い感覚と人間よりもはるかに勝った能力によって、主イエスが神から遣わされた聖者であること、悪霊を滅ぼし、神の恵みのご支配である神の国を完成させるメシアであることを、この時すでに悟っていたのです。彼らは主イエスの与えられている神の権威を直感し、自分たちがそれによって滅ぼされてしまうことを恐れているのです。

この当時の人たちは、病気の多くは汚れた霊や悪霊が人間の中に入り込んで、その人の肉体や精神を傷つけ破壊すると考えていました。汚れた霊や悪霊はサタン、悪魔と同じように、神に敵対する存在であり、信仰者を神から引き離し、自分たちの思いどおりに人間を操作しようとします。これらの悪しき霊たちは人間よりもはるかに強い力によって人間を支配し、人間を神から引き離し、罪の中に閉じ込めようとします。人間はだれも自分の力によっては、これらの悪しき霊たちに立ち向かうことはできません。それゆえに、人間はだれも自分の力では罪の奴隷から自らを解放することができないと聖書は言うのです。

したがって、悪霊たちのこの告白はある意味では正しさを含んでいたと言ってよいでしょう。けれども、主イエスは信仰を伴わない告白はおゆるしにはなりません。【35~37節】。主イエスは悪霊が信仰を伴わない偽りの信仰告白を語ることを禁じられます。悪霊を沈黙させます。それだけではありません。悪霊が、神を礼拝するこの人の中に住み、この人を支配することをおゆるしにはなりません。彼を悪霊から解放されます。主イエスが悪霊に向かって「黙れ」とお命じになると、悪霊は黙ります。「この人から出て行け」とお命じになると、悪霊は彼から出ていきます。主イエスは神から与えられた神の権威によって、悪霊に勝利されます。これが、主イエスのみ言葉の権威です。

この個所では、主イエスのみ言葉の権威が強調されていて、悪霊に取りつかれた人がいやされたということについては主なテーマとはなっていませんが、そのことについても少し取り上げてみたいと思います。この人は汚れた悪霊に取りつかれ、体も心も傷つけられ、悪霊に支配され、ほとんど人間としての姿を失ってしまっていました。けれども、彼は礼拝の群れの中にいました。主イエスと出会う機会を与えられていました。主イエスの権威あるみ言葉によって、悪霊から解放されました。そして、礼拝する群れの一員として加えられました。それまで、彼の中にいて彼を支配していた悪霊に代わって、今や主イエスが彼の中におられ、彼を支配され、彼を新しい人に造り変えられたのです。

主イエスはご自身の権威と力とに満ちたみ言葉を、あわれな病める一人の人のためにお用いになりました。彼を悪霊から解放するために、神のみ子に与えられた特別な権威と力とをお用いになったのです。ご自身の名誉とか栄のためにではなく、ご自分の楽しみとか喜びのためにではなく、ご自分を守り救うためにでもなく、一人の傷ついた貧しい人のためにお用いになりました。ここにこそ、主イエスの権威と力のもう一つの大きな特徴があります。このことは、主イエスのご生涯全体に貫かれています。主イエスがなさったいやしや奇跡のみわざ全体に貫かれています。そして特に、主イエスの十字架においてこそ、主イエスはご自身に授けられていた神のみ子としての権威と力とを、ご自身を救うためには少しもお用いにならいということが明らかになりました。主イエスはそのすべてをわたしたち罪びとを罪から救い出すためだけにお用いになり、ご自身は徹底して弱く、貧しくなられ、十字架で死んでいかれたのです。

ここでわたしたちは、すぐ前の個所で、ナザレの会堂で主イエスが朗読されたイザヤ書のみ言葉を思い起こします。【18~19節】。主イエスはこのイザヤ書の預言を朗読されたあと、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と語られましたが、そのことが今やカファルナウムの会堂で、目に見える形で現実となったのです。主イエスが神の権威と力とによってみ言葉をお語りになり、悪霊を追い出されたことによって、貧しい人が福音を聞き、捕らわれている人が解放され、圧迫されている人が自由を与えられ、今や悪霊の支配の時が終わり、主なる神の恵みのご支配の時が始まったということが、カファルナウムの会堂で現実となったのです。

主イエスの解放と救いのみ言葉によって、汚れた悪霊の支配の時が終わりました。神の恵みのご支配の時が始まりました。神の国が到来したのです。わたしたちは新しい救いの時が主イエスとともに始まったのだということを知らされました。汚れた悪霊は今なおこの世にあり、罪は今なお人間たちの中に残っていますが、しかし彼らはすでに主イエスによって敗北を宣言されているのです。主イエスのみ言葉の権威と力とによってすでに彼らに勝利しておられるのです。

そして、終わりの日、終末の時には、その戦いに最終的な決着がつけられます。その時、主イエスはすべての汚れた悪霊とサタンと罪と死とに完全に勝利され、神の国を完成されるでしょう。わたしたちはその約束を信じているがゆえに、どのような悪しき霊や罪に対しても、勇気をもって戦いを挑み、勝利を信じて、信仰の戦いを戦い抜くことができるのです。

(執り成しの祈り)

〇主なる神よ、わたしたちの日々の信仰の戦いに、あなたが共にいてくださり、

弱きわたしたちを支え、導いてください。わたしたちを苦しめるすべての悪し

き霊から、守ってください。わたしたちを誘惑するすべての罪から、救ってく

ださい。

○神よ、どうぞこの世界を憐れんでください。あなたを離れて、滅びへと向かう

ことがありませんように。特に、あなたを信じる者たちがあなたのみ怒りと裁

きを恐れ、み前に謙遜な者とされ、あなたの憐れみとゆるしとを熱心に願い求

める者とされますように。

〇主よ、わたしたちを主キリストにあって平和を造り出す者としてください。

 主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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