9月6日説教「主イエスの復活の証人となる」

2020年9月6日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編103編1~13節

    使徒言行録1章15~26節

説教題:「主イエスの証人になる」

 使徒言行録1章には、主イエスが天に昇られてから弟子たちに聖霊が注がれてエルサレムに最初の教会が誕生するまでの10日間のことが書かれています。主なテーマは二つあります。一つは、弟子たちが主イエスの約束のみ言葉を信じ、聖霊が注がれるまでエルサレムから離れないで、祈りつつ待っているべきであるということ。そして、神が天から聖霊を注がれる時、彼らは新しい力を受けて、主イエスの福音を全世界に宣べ伝えるようにされるということ。もう一つは、12弟子の欠けを補う補充選挙をして、やがて誕生する教会のために備えるということ。そして、主イエスが地上での宣教活動を共に担うために12人の弟子たちを選ばれたように、やがて到来する教会の時代には、新しく選ばれた使徒たち、兄弟姉妹たちが全世界に福音を宣べ伝えるために、主イエスの復活の証人として選ばれるということ。

 きょうの礼拝で朗読された1章15節以下は、その第二のテーマを語っています。12弟子のひとりであったイスカリオテのユダは、主イエスを裏切って、ユダヤ人指導者に引き渡し、主イエスを十字架刑にするための手引をしました。ユダはそのことを悔いて、自ら命を絶ち、悲惨な死を遂げました。そのことを弟子の代表ペトロは15節以下で詳しく説明しています。そこでペトロは、欠けた12番目の弟子を補充する提案をします。なぜ、ユダの代わりを補充しなければならないのか、この補充選挙の意味は何か。そのことを知るために、主イエスがどのような意図で12弟子を選ばれたのかを、すこし振り返ってみたいと思います。

ルカ福音書6章12節以下に主イエスが12弟子を選ばれたことについて書かれています。主イエスは12弟子を選ばれるにあたって、山に入って一晩中祈られたと12節に書かれています。徹夜の祈りの結果として、12弟子の選びがあるのです。12弟子の選びが主イエスの福音宣教の働きにとっていかに重要であったのかが分かります。また、12弟子として選ばれたのは、彼らが人間的に、あるいは信仰的に優れていたからではなく、主なる神のみ心に適っていたからであるということが、ここから分かります。

そのことは、続けて13節に「弟子たちを呼び集め」と書かれていることからも確認できます。徹夜で祈られ、父なる神のみ心を尋ね求められた主イエスが、弟子の一人一人をみ前に呼び集められるのです。主イエスが選び、主イエスが呼び集められます。「呼び集める」という言葉は、のちにギリシャ語で教会を意味するエクレーシアのもとになった言葉です。主イエスによる12弟子の選びは、多くの点でのちの教会の民の選びに類似しています。すなわち、わたしたちがなぜどのようにしてこの教会に集められ、この教会の一員とされているのかの原型が12弟子の選びにあるのです。

13節には「彼らを使徒と名づけられた」とあります。本来ならば、使徒言行録のこの個所で初めて用いられるべきである「使徒」という言葉を、ルカは福音書ですでに用いていたということが分かります。福音書の12弟子の選びと使徒言行録での12使徒の補充選挙とは深く関連しているのです。

使徒とは「遣わされた者」という意味です。主イエスの使者として、全権大使として、主イエスから託された福音を携え、それを宣べ伝えるのが使徒の務めです。主イエスが地上で生きておられた時には、弟子たちは主イエスと共に行動し、時に町々村々へと遣わされましたが、主イエスが復活され、天に昇られてからは、彼らはどうするのでしょうか。それが使徒言行録のきょうのみ言葉で語られます。

では、ユダが欠けたあとの弟子の補充はどのような意味を持つのかということについて考えてみましょう。まず、12という数字の象徴的な意味が受け継がれているということです。26節に、「この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった」と書かれています。福音書で12弟子と言われていましたが、使徒言行録では12使徒として受け継がれていきます。福音書で12弟子と言われていたのは、イスラエル12部族の象徴として、神の選びの民であるイスラエル全体から選ばれた弟子であることを意味していたと考えられています。使徒言行録の12使徒は、それを受け継ぎながら、イスラエルの民だけでなく、全世界のすべての民を象徴的に意味していると考えられます。15節には「百二十人ほどの人々」とあり、12の10陪の数の兄弟姉妹たちの集団が、全世界に広がっていく教会の民を暗示しているように思われます。

けれども、数は同じでも、その中身は全く違っています。12弟子の場合は、イスラエルの民として生まれたユダヤ人12人でしたが、12使徒の場合は、民族とかの人間の肉によるつながりの中から選ばれるのではなく、主イエスを救い主と信じる信仰によって結ばれ、神の霊によって結ばれた新しい神の家族なのです。終わりの日に完成される神の国の家族として選ばれているのです。

ところで、12弟子の補充がなされるのはこの時だけです。12章2節で12弟子の一人、ヨハネの兄弟ヤコブがヘロデ・アグリッパ一世によって殺されたことが書かれていますが、この時教会はヤコブの補充をすることはありませんでした。このあとでも、ほとんどの12弟子たちは殉教していったのですが、補充することはありませんでした。なぜなら、イスカリオテのユダは途中でつまずき、弟子としての務めを放棄し、その務めに欠けが生じたために、神のみ心が成就されるために補充されなければならなかったのですが、ヤコブを始め殉教した使徒たちは、自らの務めを、死に至るまで忠実に全うしたからです。このことは、新しく立てられた12使徒の選びと、その務めを理解するうえで大切なポイントです。

次に、弟子のリーダーであるペトロのことです。15節に、「ペトロは兄弟たちの中に立って言った」と書かれています。ペトロは12弟子のリーダーでしたが、主イエスの十字架の死と復活のあとでも、彼は12使徒の代表者として、ユダに代わる弟子の補充の提案をしています。ペトロは主イエスの十字架の直前に「わたしはあの男を知らない、わたしとあの男とは関係ない」と言って、主イエスとのかかわりを断ち切りました。彼は十字架の前でつまずきました。ひとたび信仰を失いました。けれども、復活された主イエスと出会って、ペトロはそのつまずきと失敗をゆるされ、より一層主イエスを愛する忠実な僕(しもべ)として生まれ変わりました。今やペトロは主イエスの復活の証人として、殉教の死に至るまでも忠実に仕える12使徒のリーダーとなったのです。

16節のペトロの言葉に注目したいと思います。「この聖書の言葉は実現しなければならなかったのです」と彼は言います。ここで、「ねばならない」と訳されているのと同じ言葉が22節では、「主の復活の証人になるべきです」の「べきです」と訳されています。この言葉は福音書の中では主イエスの受難予告の中で用いられています。ルカ福音書9章22節を読んでみましょう。【22節】(122ページ)。ここでは、「必ず……ことになっている」と訳されています。この言葉は「神の必然をあらわしている」とよく言われます。神がご計画しておられること、神の意図、神のみ心、それを強調して、神のみ心によって必ずそうなるということを言い表す言葉です。

そうすると、使徒言行録1章16節では、イスカリオテのユダの裏切りと彼の悲惨な死とは、旧約聖書の詩編に預言されている神のみ言葉が成就するための神のご計画、神の必然であったのだということになります。主イエスがお選びになった12弟子の一人であるユダが主イエスを裏切り、主イエスが捕らえられる手引きをしたこと、そしてユダが悲惨な死を遂げたこと、それはわたしたちにはよく理解できない衝撃的な出来事でしたが、実はそこにも目には見えない神の深いみ心が働いていたのだ。神はそのような人間の反逆やつまずきや災いを通しても、ご自身の救いのご計画を進めてくださるのだ。ペトロはそのように言うのです。

また、22節では、ユダが欠けたあとを補充して12人の使徒の数を充たすこと、そしてこの12使徒たちが主イエス・キリストの復活の証人となって、全世界に福音を宣べ伝えていく使命を果たすこと、これもまた神の永遠の救いのご計画なのだとペトロは言います。神の救いのご計画は主イエスの十字架の死と復活のあと、聖霊を注がれた12使徒たちを中心にして、全世界の教会へと継承されていく。終わりの日の神の国の完成を目指して。それは神の必然であり、神の強い意志であり、神の永遠の救いのご計画なのです。神は人間たちの罪や不従順の中を貫いて、それを超えて、ご自身の救いのみわざを前進させたもうのです。

ここでは、使徒として選ばれる条件について、主イエスと歩みを共にした人であり、主イエスの復活の証人であることが挙げられています。「主の復活の証人」という言葉は、2章32節のペトロのペンテコステの説教でも用いられており、使徒言行録の中で、また初代教会とそののちのすべての時代の教会にとって、もちろんわたしたちの信仰にとっても、非常に重要な意味を持っています。なぜなら、初代教会以来のすべての時代の教会の信仰は、彼ら復活の証人たちの証言に基づいているからです。彼ら復活の証人たち、すなわち、地上の主イエスと共に歩んだ人たち、主イエスの口から直接に神の国の福音を聞き、主イエスの奇跡のみわざを目撃し、そして主イエスの十字架の死と復活と昇天を実際に目撃し、体験した人たち、彼らの確かな証言の上にわたしたちの信仰はあるのだということです。福音書に書かれている主イエスのご生涯、十字架の死と復活、また使徒言行録に書かれている教会の誕生とその拡大、それはだれかが空想したり、創作した物語ではありません。彼ら証人たちの確かな証言なのです。

もう一つ重要なことは、「証人」という言葉、ギリシャ語では「マルトゥリア」ですが、この言葉は紀元1世紀の終わり、ロ-マ帝国によるキリスト教迫害が本格化したころには、証人という意味よりも「殉教」と意味に代わっていきました。今日、英語の「martyrマーター」はもっぱら殉教という意味になりました。キリスト教迫害の時代には、主イエスの復活の証人となるということは主イエスのために殉教するということと同じでした。その本質的な意味は、今でも変わりません。わたしたちもまた、自分の存在と命のすべてを注いで、死に至るまで忠実に、主イエス・キリストの復活の証人としての務めを果たすように託されているのです。

(執り成しの祈り)

〇主なる神よ、わたしたち一人一人が、それぞれの遣わされている場で、主イエ

ス・キリストの復活の証人として固く立つことができますように、わたしたちに聖霊を注いで、強め、励まし、導いてください。

〇天の神よ、この地にあなたのみ心が行われますように。すべての人が主なる神

であるあなたを恐れ、あなたのみ前にひれ伏すものとなりますように。あなたから離れて、この世界が滅びへと向かうことが決してありませんように。

〇願はくは、主よ、日本と、アジアと、世界に、まことの平和を与えてください。

争いではなく共存を、奪い合いではなく分かち合いを、憎しみや怒りではなく愛とゆるしをお与えください。

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