9月27日説教「聖霊降臨の日」

2020年9月27日(日)午前10時30分 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:申命記16章9~12節

    使徒言行録2章1~4節

説教題:「聖霊降臨の日」

 使徒言行録2章には、五旬祭の日に、弟子たちの群れに聖霊が注がれて、エルサレムに世界最初の教会が誕生した時のことが描かれています。ここから、新しい神の救いの歴史が始まります。ある人はそれを「教会の時、聖霊の時、また福音宣教の時」と名づけています。わたしたちは今、その教会の時、聖霊の時、福音宣教の時に生きているのです。

神が天地万物の創造によってお始めになった世界と人間の救いの歴史は、イスラエルの民の選びと契約によって具体化されました。旧約聖書はその救いの歴史を語っています。そして今や、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、神の救いの歴史はいわば最終段階に入り、最後の完成に向かって前進していくということを新約聖書は語っています。それが、ペンテコステの日の聖霊降臨と教会の誕生と教会の民による福音宣教として展開されていくことになったのです。

 ここに至る道のりを簡単に振り返ってみましょう。主イエスはユダヤ人の過ぎ越しの祭りの時、金曜日に十字架につけられ死なれました。しかし、三日後の日曜日の朝に死の墓から復活されました。復活された主イエスは、40日間にわたって復活されたお姿を弟子たちに現わされました。これを復活の顕現と言います。40日目に、主イエスは弟子たちが見ている前で天に引き上げられました。これが昇天です。そして、それから10日間、弟子たちは主イエスが約束された聖霊降臨の時を祈りつつ待ちました。そのお約束どおり、ユダヤ人の五旬祭の日に、すなわち過ぎ越しの祭りの翌日から数えて50日目の祭りである、小麦の初穂を神にささげる初穂の祭り・七週の祭りとも言われるペンテコステに、祈りつつ待っていた弟子たちの群れの上に聖霊が注がれ、エルサレム教会が誕生したということになります。

 この道のりを確認して分かる重要ないくつかの点を挙げてみましょう。一つには、主イエスの十字架の死と復活によって成就された神の救いのみわざは、主イエスの地上でのお働きの終わりである昇天の後にもなおも継続される、しかも、一つの民族だけでなく、全世界的な広がりで、全人類のための救いのみわざとして、継続されるということです。主イエスは1章8節で、弟子たちにこうお命じになりました。【8節】。イスラエルだけでなく、全人類のすべての人が、エルサレムから遠く離れている東の果てに住むわたしたち一人一人もまた、神の救いへと招きいれられているということです。

 第二点は、主イエスは天に昇られ、父なる神の右に座しておられますが、その天から、父なる神と共に聖霊なる神を派遣され、聖霊なる神によってご自身の救いのみわざを継続されるということです。主イエスはヨハネ福音書14章16節、また25節以下でこのように約束されました。【16~17節a,25~26節】。聖霊は主イエスとは別の弁護者・助け主、いわば第二の弁護者・助け主として、常に弟子たちと共にいてくださり、またすべての人と共にいてくださり、主イエスの救いのみわざを継続される神です。そのようにして、今こそ、父なる神と、み子なる神・主イエス・キリストと、聖霊なる神との三位一体なる神が、わたしたちの救いのためにお働きくださる時が到来したのです。

 そして第三に、主イエスの十字架の死と聖霊降臨が、ユダヤ人の祭りである過ぎ越しの祭りと五旬祭・初穂をささげる祭りと関連づけられているという点です。過ぎ越しの祭りはイスラエルの民が奴隷の家エジプトから救い出されたことを祝う祭りです。それが、わたしたちすべての人間を罪の奴隷から救い出す主イエスの十字架と密接に関連しています。それとともに、五旬祭・ペンテコステはイスラエルの民が約束の地カナンに入って最初に収穫する小麦の初穂を神にささげる祭りであったように、ペンテコステのこの日には弟子たちが聖霊に満たされて語った説教によって、主イエスを救い主と信じた人たちが洗礼を授けられ、聖霊の賜物を授けられ、神の新しい救いの民である教会へと招きいれられ、その救われた人間の魂の初穂を神におささげする日となったのです。今や、全世界の教会において、主イエス・キリストの十字架の血によって贖われ、救われた人の魂が神の国の収穫の初穂として神にささげられるようになったのです。

 では次に、ペンテコステの日の出来事はわたしたちに何を教えているのかを使徒言行録2章1~4節のみ言葉から聞き取っていきましょう。1節で「五旬祭の日が来て」と訳されている箇所は、本来は「満ちて」という言葉です。月日が巡ってその日がやってきたということではなく、神の救いのご計画の時が満ちて、主イエスが弟子たちに約束された時が満ちて、今や神が教会の時、聖霊の時、福音宣教の時を開始されるその時が満ちてという意味が込められています。主イエスの約束のみ言葉を信じて、祈りつつ待ち望む信仰者は決して空しい時を過ごすのはありません。神がその時を満たしてくださいます。

 1節の続きで、「一同が一つになって集まっていると」と書かれていますが、ここでは一つの群れとしてのつながりが三つの言葉で強調されています。「一同」「一つになって」「集まって」、4節でも「一同は」とあるように、ここにはすでに聖霊なる神のお働きが語られているのです。聖霊は人々を一つの群れ、共同体として結びつけます。この日、エルサレムで一つになって集まっていた人たちとは、1章15節に書かれていた120人ほどの兄弟姉妹たちで、その人たちの名前の一部が13節から紹介されていました。ペトロを始めとした主イエスの弟子たちは十字架の時にはみな逃げ去って散り散りになりました。主イエスの母マリアと家族はだれもが主イエスの宣教活動には批判的でしたし、参加もしませんでした。そのような人たちが今一つに集められているのです。ここにはすでに聖霊のお働きがあります。罪ゆえに神から離れていた人間、また罪ゆえに互いに分断され、地に散らされていた人間たちが、今聖霊によって一つに集められ、固く結ばれ、一つの群れとされるのです。

 中世始めの偉大な神学者アウグスチヌスは聖霊を愛のきずなと名づけました。聖霊は父なる神とみ子なる神・主イエス・キリストを結びくけるきずなであり、神と罪びとであるわたしたちを結びつけるきずなであり、また罪ゆえに互いに分断され、孤立化されている人間同士を結びつけるきずなです。

今の時、感染症の蔓延のためにお互いが社会的距離を保つことが求められていますが、このような時にこそ、わたしたち信仰者は聖霊によって固く結ばれ、一つとされている、聖霊による愛の交わりを与えられているということを強く覚えたいと思います。

 3節には、別の聖霊のお働きが語られています。まず、「一人一人の上にとどまった」という言葉から、聖霊は互いを固く結びつける働きをしますが、それと同時に、一人一人にふさわしい賜物をお与えくださるということが暗示されています。みんなを一つに結びつけて、個性も違いもなくするというのではなく、聖霊は一人一人の上に注がれ、その人その人にふさわしく、それぞれに違った賜物を分け与えつつ、その全体が調和を保ち、一つの群れとして成長していくようになる、それが教会で働かれる聖霊の特徴です。

 使徒パウロは手紙の中でそのことをしばしば語っています。コリントの信徒への手紙一12章4節以下を読んでみましょう。【4~11節】(315ページ)。教会員一人一人に与えられている種々の賜物はみな聖霊なる神から与えられた霊の賜物です。その賜物はそれぞれ違いますが、みな一つの主キリストの体なる教会を建てていくために用いられ、ささげられます。そのようにして、教会は一つの群れとして成長していくのです。

 パウロの書簡からも明らかなように、聖霊の賜物は特に言葉に関連していることが分かります。使徒言行録では、聖霊が「炎のような舌が別れ別れに現れ」と表現されているのはそのことです。神を賛美する言葉、主イエス・キリストの福音を語る言葉、祈りの言葉、悲しんでいる人を励ます言葉、孤独な人に優しく語りかける言葉、わたしたち一人一人にそのような言葉の賜物が与えられているのです。

 続けて4節には、ペンテコステの日に弟子たちに与えられた舌の賜物、言葉の賜物について語られています。【4節】。弟子たちに与えられた言葉の賜物は、具体的には5節以下に記されている奇跡、すなわち、多くの国々の言葉によって弟子たちが神の偉大なみわざを語るという奇跡となって現れ、また14節以下に記されているペトロの説教となって語られました。弟子たちに与えられたこのような言葉の賜物によって、この日エルサレムで3千人ほどの人が洗礼を受け、世界最初の教会がここに誕生したのです。そしてそれ以来、聖霊なる神はいつの時代にも、世界中至る所で、言葉の賜物を始めとして多くの賜物を信仰者にお与えくださり、主キリストの体なる教会を建てるために働いておられます。今日もそのお働きは続けられています。

 最後に、少し戻って2節の「天から」という言葉に注目したいと思います。聖霊は、天におられる父なる神と、天に昇られ父なる神の右に座しておられる主イエス・キリストから派遣される霊であるということを前にお話ししました。聖霊は天から与えられます。天から与えられる恵み、力、賜物です。それは本来人間に備わっている能力とか、人間が努力して勝ち得た技術とかでは全くありませんし、あるいはまた人間の感情とか熱意とかでもありません。それは徹頭徹尾、天から、神から、主イエス・キリストから与えられる霊であり、霊の賜物です。

 したがって、だれもそれを誇ることはできませんし、それを自分だけのものにすることもゆるされません。主なる神の栄光と、主キリストの福音宣教と、教会の群れの成長のために用いられ、ささげられるべきものです。そうである時に、わたしたちの教会とわたしたち一人一人の信仰生活が豊かな実りを結ぶことになるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、わたしたちに聖霊の賜物をお与えください。わたしたちの教会を聖霊の賜物で満たしてください。

〇天の神よ、この地にあなたのみ心が行われますように。すべての人が主なる神

であるあなたを恐れ、あなたのみ前にひれ伏すものとなりますように。あなたから離れて、この世界が滅びへと向かうことが決してありませんように。

〇願はくは、主よ、日本と、アジアと、世界に、まことの平和を与えてください。争いではなく共存を、奪い合いではなく分かち合いを、憎しみや怒りではなく愛とゆるしをお与えください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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