10月4日説教「バベルの塔」

2020年10月4日(日)午前10時30分 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記11章1~9節

    使徒言行録2章5~13節

説教題:「バベルの塔」

 きょうは創世記11章の「バベルの塔」と言われる個所を学びますが、その前の10章について少し触れておきたいと思います。10章には大洪水以後のノアの3人の息子たちの系図か書かれています。これまでにも創世記の中にいくつかの系図がありました。その所でお話ししましたように、旧約聖書の民イスラエルにとって系図は非常に大きな意味を持っていました。つまり、アダムから始まる全人類は神が創造された一人一人であり、民族、国民であるという信仰、そしてその系図は最終的には、神が全人類を救うために世に遣わされるメシア・キリスト・救い主へと至る系図であるということ、イスラエルの民はこの信仰を抱き続け、神に選ばれた民の系図を大切に保存してきたのです。

 10章の系図にも同じ意味があります。10章1節と32節を読んでみましょう。【1節、32節】。アダムから始まった系図は、洪水以後、ノアの子どもたちとその子孫から再び全世界に増え広がりましたが、すべての民族は神のもとにあって一つの共同体であるという信仰がここからも読み取れます。神はのちになってから、これらの諸民族の中からイスラエルの民をお選びになり、この民によって具体的な救いのみわざをなさり、ついにダビデ王家に連なるヨセフの子としてお生まれになった主イエスによって全人類のための救いを成就してくださったのです。旧約聖書のすべての系図は主イエスの誕生へと連なっているのです。

 では、11章1節を読みましょう。【1節】。ここから始まる「バベルの塔」と言われる出来事は「言葉」が重要なテーマになっているということがこの1節からも推測できます。言葉が人間にとっていかに大切なものであるかは言うまでもありません。言葉には、音に発せられる言葉、書かれた言葉、手話などがありますが、それらの言葉はわたしたちが互いに意志を伝えあうための大切な道具です。わたしたちは言葉によって互いに心を通わせ合うことができ、理解し合うことができ、交わりの生活をすることができます。もし、言葉が失われたら、人間の生活はたちまちにして混乱し、不便になり、喜び、楽しみも失われてしまうでしょう。言葉は、神が人間にお与えくださった多くの恵みの賜物の中で、おそらく最も素晴らしいものと言えるでしょう。他の生き物は人間ほどには厳密で複雑な言葉を持ってはいません。人間は言葉によって考え、互いに情報を交換し合い、知識や技術を言葉によって保存し、後世に伝え、そのようにして社会、文化、科学などをより高度なものに作り上げてきました。

 言葉が神から与えられた最も素晴らしい賜物であるということは、何よりも神が言葉によってわたしたちに語りかけ、わたしたちがそれを聞き、理解し、信じ、さらには言葉によって神を賛美し、神に感謝し、神に祈り、信仰を告白し、また神の言葉を宣べ伝える務めを託されている、そのことのために神がわたしたちに言葉を賜ったということにあります。パウロがローマの信徒への手紙10章で教えているように、わたしたちに宣べ伝えられている言葉によってわたしたちの信仰が生まれるのであり、信仰は聞くことにより、聞くことは主キリストの言葉からくるのです。

 わたしたちがきょうここに集まり、共に礼拝をささげているところで、突然に言葉が乱され、互いに理解し合うことができなくなったとしたら、どうでしょうか。わたしたちはみなあわてて、動揺し、不安になり、だれが何を考えているのかも、なぜここに集まっているのかもわからなくなり、ばらばらに散っていくしかないでしょう。わたしたちが同じ発音の同じ言葉を与えられ、同じ一つの主キリストの言葉を聞くためにここで一つに集められているということは何と大きな神の恵みであることでしょう。わたしたちはまずそのことを感謝してきょうのみ言葉を読んでいきましょう。

 【1~4節】。ところがここでは、神から同じ発音、同じ言葉を与えられていた人間たちから神に背く罪が芽生えてきたということが語られているのです。

 人々はシンアルの地の平野に住み着いたと書かれています。シンアルとはバビロニア地方のことで、バビロンとかバベルとも言います。世界四大文明の発祥の地とも言われるチグリス川とユーフラテス川が流れる肥沃な地が舞台です。人々は砂漠地帯をさまよいながらより豊かな地を探し求めてこの地に移ってきました。シンアルには石材がなかったために早くからレンガを造る技術が発達していました。太陽で粘土を乾かすだけでなく、火で焼いてより固いレンガを作る技術を生み出し、レンガを積み上げるためにアスファルトで塗り固める技術も発達していました。そして、彼らはそれらの技術と彼らの共同作業とによって、大きな高い塔を建てようと企てるのです。

 彼らに与えられていた同じ発音、同じ言葉がこの事業を推進させ、全員一致でこの事業に参加するために重要な役割を果たしています。4節に「さあ、こうしよう」というかけ声が書かれていますが、実は3節にも同じ「さあ、こうしよう」という言葉があります。新共同訳では省略されていますが、同じかけ声が二度も繰り返されているという点に、言葉によって人間の意思を統一し、人間が考え出したこの新しい事業によって人間社会をより豊かにしようとする欲望が表現されているように思われます。けれども、そこには神は存在しません。むしろ、神を追い出そうとしています。人間だけで固く結集し、天にまで届く塔の町を建設し、自分たちの名誉と名声を天の神にまで届かせ、ついには自ら神のごとくになって全地を支配しようとする人間の欲望がここにはあるのです。

 「さあ,われらはみなでこうしよう」「さあ、われらは一致協力してこの事を成し遂げよう」とのかけ声によって、神なき世界の建設に取り組もうとする人間。みんなが一つになることによって、神をも恐れず、罪の道を突き進もうとしている人間。だれもその勢いを止めることができず、異議を唱えることができず、共に罪の道へと落ちていくしかない人間。大洪水以後の人間たちも、最初に罪に落ちたアダムとエヴァと同じように、共に罪の道を進むことで一致しました。

 【5~7節】。神はこのような人間たちの現実のすべてを、天の高さから見ておられます。そして、人間はだれ一人として、自らの意志や知恵によってはこの罪の道をとどめることも、引き返すこともできないということをも神は知っておられます。ただ、神だけが人間のこの罪の道を、大いなる破滅へと向かうしかない罪の道を止めることがおできになります。

 5節に「主は下って来て」と書かれています。天の神よりも高くに登ろうとしていた彼らでしたが、人間は神に到達することはできません。人間が神にまで高く登ろうとしていた罪への道を終わらせるために、神は天から下って来られます。

 7節には、3節と4節で繰り返されていた「さあ、われらはこうしよう」と言う人間のかけ声と同じ言葉があります。人間たちの「さあ、こうしよう」というかけ声を打ち消すかのように、神は「さあ、われらは降って行こう」と言われるのです。

 ここで神はご自身のことを「我々」と言っておられます。同じ例が1章26節にもありました。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」。この「我々」は一般に尊厳の複数形といって、神はお一人であるのですが、ご自身の権威や力や存在を強調するために、あるいは人間に対する特別のご配慮を言い表すために、複数形で表現されていると考えられています。神はご自身の全人格を傾け、ご自身の全存在をもって、このことを強く決断され、人間を罪と破滅から救おうとなさったのです。

 【8~9節】。人間が自分たちを一致団結させるために役立った言葉を、そしてそれによって自分たちの偉大な事業を完成させることを可能にすることができると考えた言葉を、神は混乱させ、彼らを全地に散らされました。神は人間の神なしで企てられた事業を中途でやめさせられました。わたしたちはここではっきりと知らされます。人間が神から賜った大きな恵みである言葉を、彼らは神のみ心にそって用いていなかったのだということを。むしろ神に反逆するために、人間の欲望を満たすためだけに用いていたのだということを。それゆえに、人間が企てた大事業、堅固な街を建て、天に届く高い塔を建てようとした彼らの企ては神のみ心に背くものであったのだということを。それが人間の罪の結果であったのだということを。それゆえに、神の裁きを受けなければならなかったのだということを、わたしたちはここではっきりと知らされます。神なしで行われる人間の一致は、ついには失敗するほかにありません。

 神は、神なしで企てられる人間の事業はついには人間自身を破滅へと導く以外にないということを知っておられます。バベルの塔が高ければ高いだけ、崩れ落ちた塔の下敷きになって死ぬ人間も増えるのです。人間の高ぶりと自己主張、人間の傲慢と欲望が、やがて国と世界を破滅へと導くようになるということを、神は知っておられます。そこで神は、人間が最終的な破滅に至ることがないように、人間を最終的には救うために、人間の言葉を混乱させ、人々を全地に散らされ、人間がそれ以上罪のために協力し合うことができないようにされたのです。神は人間の罪と滅びへの道に「待った」をかけられます。それは最終的に人間を救うためなのです。

 神の裁きは神の愛です。人間の計画が挫折した時、自分の願いがかなえられなかった時、思わぬ困難が押し迫り、もう一歩も前進できなくなった時、その時が神の隠れたみ心の時であるのかもしれません。そこで、わたしたちは神のみ前にへりくだるべきです。新たに神のみ心をたずね求めるべきです。

 バベルの塔の出来事で神が人間の言葉を乱され、人々を全地に散らされたということは、使徒言行録2章のペンテコステの出来事と深く関連しています。聖霊を注がれた弟子たちがいろいろな他国の言葉で一つの神の偉大なみわざ、すなわち主イエス・キリストの十字架の福音を語った時、いろいろな国からエルサレムに集まっていたユダヤ人が、自分たちの国の言葉でその福音を聞き、理解した、そして主イエス・キリストを信じて洗礼を受け、ここに世界最初の教会が誕生しました。ここで、バベルの塔以来全地に散らされていた人々が、聖霊によって一つの主キリストを信じる群となって集めらたのです。今や、聖霊なる神が、全世界の国民を、一つの主キリストの福音の言葉によって結ばれるのです。教会の民は共に神のみ言葉を語り、聞くということによって一つとされるのです。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、聖霊によってわたしたちを一つに結び合わせてください。人々が分断され、孤立し、真実の交わりが失われつつあるこの時代にあって、あなたが聖霊によってわたしたちを一つに結び合わせてください。

〇父なる神よ、あなたが独り子を賜るほどにわたしたちを愛してくださったように、わたしたちもあなたの愛に満たされて、隣人を真実の愛で愛することができますように導いてください。

〇そして、主なる神よ、全世界の人々があなたの限りない愛を知り、互いに愛し合うことができますように、この地球上をあなたの愛で満たしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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