10月11日説教「人間をとる漁師になる」

2020年10月11日(日)午前10時30分 秋田教会主日礼拝説教
聖 書:詩編98編1~9節
    ルカによる福音書5章1~11節
説教題:「人間をとる漁師になる」

 ルカ福音書5章1節からは、主イエスの12弟子の一人ペトロが湖で魚をとる漁師から、主イエスの弟子となって人間をとる漁師に変えられることが語られています。キリスト教の専門用語ではこれを「召命」と言います。召命とは、英語ではcalling、名を呼ばれることですが、キリスト教では特に神、または主イエス・キリストから名を呼ばれこと、そして神、または主イエスから特別の使命、務めを託されることを「召命」と言います。広い意味と狭い意味の二つの用法があります。広い意味では、この世に属していた人が主イエスによって呼び出され、主イエスを信じて洗礼を受け、キリスト者となること、主キリストに属する人となって、主キリストの証し人となることです。狭い意味では、キリスト者として召命を受けた人がさらに神の特別な召命を受け、神のみ言葉を説教する務めを与えられ、主キリストの教会に専ら仕える牧師、あるいは聖職者、教職者となることです。わたしたちはだれもみな、この二つの意味での召命を聞いています。そしてまた、召命、つまり神と主キリストからの呼びかけは、一度聞くだけでなく、絶えず、新たに聞き続けることが大切です。絶えず、新たに、神と主キリストからの呼びかけを聞き、その呼びかけに答えて生きること、これがわたしたちキリスト者の生涯です。地上の歩みを終えるまで、それは続きます。
 きょう学ぶペトロの召命のか所では、広い意味での召命と狭い意味での召命と、二つの意味を考えて読む必要があります。わたしたちはこの個所から、きょうこのわたしに呼びかけておられる主イエスのcalling、召命を聞き取りたいと思います。
 ゲネサレト湖、すなわちガリラヤ湖の4人の漁師が召命を受けて主イエスの弟子となったという記録は、ルカ福音書とマタイ・マルコ福音書では少し違ったかたちで描かれています。マタイ福音書4章とマルコ福音書1章では、この二か所はほとんど同じですが、初めにペトロとその兄弟アンデレの二人が海に網を打っていた時に、それをご覧になった主イエスが「わたしについて来なさい。あなたがたを人間をとる漁師にしよう」と言われると、二人はすぐに網を捨てて主イエスに従ったと書かれています。次に、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、船の中で網の手入れをしているのをご覧になった主イエスが、彼らをお呼びになると、この二人もまた父や雇人たちを残して主イエスの後についていったと書かれています。
 それに対して、ルカ福音書ではシモン・ペトロを中心に描かれています。主イエスがペトロに語りかけられ、ペトロが主イエスのみ言葉に服従するという形になっていて、ヤコブとヨハネはシモンの漁師仲間であったので、その時に大量の魚がとれたという奇跡を見て驚いて、ペトロと一緒に主イエスに従ったと書かれています。ペトロの兄弟アンデレの名前はここには出ていませんが、6章14節で12弟子の名前が紹介されている箇所では「ペトロとその兄弟アンデレ」とあるので、大漁の奇跡の時にはペトロとアンデレは一緒だったと推測されます。
 では、1節から読んでいきましょう。【1~3節】。主イエスはここでも神のみ言葉を語っておられます。主イエスこそが神の国の福音を宣べ伝える最初の方です。このことをあらかじめ確認しておくことが重要です。主イエスはこのあとでシモン・ペトロを召してご自分の弟子とされ、神の国の福音を宣べ伝えて人間をとる漁師とされるのですが、またわたしたち一人一人をも召して神の国の福音の証人とされるのですが、それに先立って、まず最初に主イエスご自身が父なる神からこの世に遣わされて神の国が到来したことを、神の救いの恵みが主イエスと共にこの世界を支配していることをお語りくださったのです。弟子のペトロやそののちの教会に招かれているわたしたちは、主イエスが始められ、成就された救いのみわざを引き継ぐかたちで、主イエスの救いのみわざに仕えるかたちで、神の国の福音の証人とされるのです。
 2節に「御覧になった」と書かれています。同じ言葉が福音書の中でたびたび用いられています。同じ章の20節では、「イエスはその人たちの信仰を見て」、27節では、「レビという徴税人が収税所に座っているのを見て」、これも同じ言葉です。このほかにもいくつかあります。主イエスが何かをご覧になる、主イエスの目が何かを見られる、その時、主イエスはその人のすべてを、そのことの本質を見ておられ、その人のすべてを、そのことの本質を知っておられ、そのすべてを受け入れてくださいます。そこに不思議な出来事が、救いの出来事が起こされるのです。
 主イエスはペトロや他の漁師たちの生活のただ中に入って来られ、彼らの生活、彼らの労苦、彼らの汗と涙をご覧になります。主イエスはわたしたち一人一人の生活のただ中にも入って来られ、わたしの生活の現実をもご覧になっておられます。主イエスは安息日のユダヤ人会堂で神のみ言葉を説教され、安息日の主として救いのみわざをなさったということが4章に書かれていましたが、会堂の外でも、わたしたちの生活の場でも、主イエスはわたしたち一人一人を見ておられます。田んぼや畑で収穫に忙しい農家の生活の場にも、通勤途中の会社員や家事にいそしむ主婦や学校で学ぶ学生の生活の場にも、主イエスの目は注がれています。主イエスはわたしたちの生活の現実のすべてをご覧になり、知っておられ、その中に入って来られ、そこで神のみ言葉をお語りになります。
 「二そうの舟を御覧になった」と書かれています。主イエスはガリラヤ湖の漁師たちの生活の現実をご覧になったことを意味します。この二そうの舟は、後で5節のペトロの言葉から分かるように、中は空でした。一晩じゅう網を降したけれど一匹もとれなかったという、彼らの貧しく、厳しい生活の現実を主イエスは見ておられるのです。その現実の中に入って来られるのです。彼らの生活の現実を根本から変えるためです。彼らを魚を取る漁師から人間をとる漁師に変えるためです。舟の中で網を洗う漁師ではなく、主キリストの教会で神の国のために仕える奉仕者、福音のための働き人とするためです。
 もう一つここから読み取れることは、一匹の魚も取れなかった空の舟を主イエスが御覧になる時、それが主イエスのお働きのために、神の国の福音の説教のために用いられるということです。それまでは魚をとるために用いられていた舟が、主イエスをお乗せするために用いられるのです。この世では目覚ましい働きができず、役に立たなかったようなものが、主イエスによって用いられ、神の国の福音を語る舞台となるのです。その時、7節に語られているように、ペトロが主イエスの命令に従って沖に漕ぎ出してもう一度網を降したところ、今度は大量の魚で舟が沈みそうになるほどに変えられるのです。
 【4~5節】。一晩中何度も網を下ろしても一匹も取れず、疲れ果てていたペトロは主イエスの説教を聞いたあとで、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた主イエスの命令に従いました。しかし、それは彼の漁師としての経験や知識に反する行動でした。ガリラヤ湖では夜の気温が低くなったころに魚が表面に集まってきますが、昼には底で休んでいますから、昼間は漁には適しません。一晩中網を降ろしても徒労に終わったのに、またも徒労を重ねよと命じられて、ペトロは「しかし、お言葉ですから」と言ってイエスの命令に従うのです。主イエスのみ言葉を聞いたペトロは、この世の経験や価値基準で行動するのではなく、主のみ言葉に従って行動するようになっています。ペトロはすでにここで変えられています。主イエスのみ言葉の説教と命令によって、彼は困難な現実に立ち向かっていく勇気と希望とを与えられます。主イエスのみ言葉は人間の可能性やこの世の経験や知識、この世の価値基準のすべてを打ち破るのです。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。わたしたちもまた主イエスにみ言葉によって、新しい一歩を踏み出すことができるようにされます。
 【6~7節】。神はシモン・ペトロの服従に応えて、大きな収穫と祝福をお与えくださいました。ペトロが全く期待していなかった、いやペトロの期待を裏切って、豊かな恵みをお与えくださいました。主イエスのみ言葉に聞き従う時、その働きは一つとして徒労に終わることはありません。漁の条件が改善したから、大漁になったのではありません。ペトロの技術が向上したからでもありません。むしろ、条件が悪くなり、ペトロの肉体も限界を迎えていたでしょう。この大漁は、主のみ言葉に服従したことによって与えられた恵みであり、奇跡です。主イエスのみ言葉が困難な現実を打ち破ったのです。み言葉に従って歩む教会の働きは、何一つとして徒労に終わることはありません。主ご自身が豊かな実りを約束してくださいます。今日の困難な伝道のわざにおいても、主のみ言葉に聞き従いながら、わたしたちは困難な現実に挑戦していく勇気と希望とを与えられます。
 【8~10節a】。ペトロはここで突然に自らの罪の告白をします。他の仲間たちも漁が余りにも多かったことに驚きました。神の恵みは人間の思いも及ばないほどに大きく、だれもが驚くほかにありません。そして、人間はだれも自分がその恵みを受けるに値しない者であることに気づかされるのです。神の圧倒的な恵みを受けて、人間は自らの貧しさや、弱さ、そして罪に気づかされるのです。これが、主イエスの自由な選びによって召命を受けて主イエスの弟子として召された信仰者の正しい応答です。教会はそのようにして、取るに足りないいと小さな者たちが主イエスの召命を受け、神の大きな恵みをいただいて、自ら受けるに値しない者たちであることを告白しつつ生きる群なのです。教会は罪を告白する者たちの共同体であり、それゆえに、主の救いの恵みの大きさに驚きつつ、その恵みによってのみ生きる者たちの共同体です。
 【10節b~11節】。主イエスは罪びとから離れることはなさいません。むしろ、罪びとをみ前にお招きになります。罪びとを人間をとる漁師としてお用いくださいます。神のみ言葉の証人として、説教者としてお用いになります。有能なこの世の成功者をではなく、むしろ生活に疲れ、挫折を経験し、失敗を繰り返すしかないような、欠けの多い人をお用いになります。そのような人たちが、神の国のために人間の失われた魂を勝ち取るという、尊く、重く、光栄ある務めへと召されているのです。

(執り成しの祈り)
〇主なる神よ、あなたから与えられている大きな恵みを覚え、心からの感謝をささげます。わたしたちがあなたからの恵みに応え、あなたのご栄光を現すためにお仕えすることができますように。
〇父なる神よ、あなたが独り子を賜るほどにわたしたちを愛してくださったように、わたしたちもあなたの愛に満たされて、隣人を真実の愛で愛することができますように導いてください。
〇そして、主なる神よ、全世界の人々があなたの限りない愛を知り、互いに愛し合うことができますように、この地球上をあなたの愛で満たしてください。
主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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