10月25日説教「聖霊によって神の偉大な業を語る」

2020年10月25日(日)午前10時30分 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書43章1~7節

    使徒言行録2章5~13節

説教題:「聖霊によって神の偉大な業を語る」

 ペンテコステの日に、聖霊を注がれた弟子たちは、聖霊に満たされ、聖霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で語りだしたと、使徒言行録2章4節に書かれています。そして、5節以下には、その時の出来事が具体的に描かれています。弟子たちは多くの国、民族、地域で語られているさまざまな言語で神の偉大なみわざについて語りだしたというこの出来事は、一般に「多国語奇跡」と言われています。この多国語奇跡がどのようにして行われたのか、またそれはどのようなことを意味するのかについて、学んでいきたいと思います。

 【5~8節】。この当時、1世紀前半のイスラエルの首都エルサレムの状況についてまず確認しておきましょう。イスラエルは紀元前6世紀にバビロン帝国によってダビデ王国が滅ぼされて以降は外国の支配下に置かれていました。この当時はローマ帝国に支配されていました。ローマ帝国は皇帝に対する絶対服従を強制しながら、比較的自由な自治権を許し、宗教活動も帝国の主権と法の範囲内での自由を認めていました。福音書の最後の個所に描かれている主イエスの裁判と十字架刑の場面では、イスラエルの宗教活動とローマ帝国の法規制の衝突を見ることができます。

 また、この時代のイスラエルのもう一つの特徴として、多くのユダヤ人はまだ熱心な信仰を持ち続けており、自分たちが神に選ばれた民であり、神がかつて預言者たちによって約束されたメシア・キリスト・救い主の到来を固く信じていました。一部には、今この時こそがメシア到来の時だと、ローマ帝国からの解放を叫ぶグループもあり、メシアの到来を待ち望むユダヤ人が多くいました。

 5節に、「エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいた」とあるのは、そのような状況を背景にしています。北王国イスラエルがアッシリア帝国によって滅ぼされた紀元前8世に後半ころから、ユダヤ人は諸外国に散らされていきました。この人たちはいわゆるディアスポラ・離散のユダヤ人と呼ばれていましたが、この時代になって、メシア待望の機運が高まって来たエルサレムに、それぞれの離散の地から戻って来た人たちでした。と言うのも、メシアはエルサレムに来臨されるという旧約聖書の預言があったからです(ゼカリヤ所4章4節参照)。ルカ福音書2章に書かれているシメオンや女預言者アンナのようにイスラエルの救いが完成される日が近いことを信じて、彼らはエルサレムに移り住んで、この都でメシア到来を待ち望んでいたのです。その人たちが、かつて自分たちが生まれ育った国の言葉で今弟子たちが話しているのを聞き、大きな驚きを覚えました。彼らの驚きの大きさが強調されています。6節には「あっけに取られて」、7節には「驚き怪しんで」、さらに12節でも「皆驚き、とまどい」とあります。それは、人間の理解のはるかに及ばない、聖霊なる神のみわざ、まさに奇跡としか言えない不思議な出来事でした。

 ある人は、現実的にこのようなことが起こるはずがなく、これは創作だと言います。12人の弟子たちが、しかもガリラヤ地方出身の彼らが、世界各地の言語をどのようにして話すことができたのか、また多くの民衆がそれをどのようにして聞き分けることができたのか、それは不可能なことだと考えます。しかし、それは人間の理解できる範囲を超えているということであって、だからそれが非現実であると直ちに結論づけることはできません。聖霊なる神は人間の理性や常識や能力をはるかに超えて、驚くべきみわざをなさるのですから。

 少し順を追って考えてみましょう。この日に、エルサレムのある家に、その家に弟子たちが集まっていたのですが、天から激しい風が吹いて来て、大きな音が町中に響き、また炎のような舌が天から弟子たちの上に現れ、町全体を明るく照らしたので、その音と光に気づいた多くの市民が外に出て、神殿の大庭に集まって来た。その人たちに向かって弟子たちが、さまざまな国の言語で語りだした。多くの人たちにとっては、その声は聞き取れず、何を話しているのかも理解できなかったけれど、ディアスポラのユダヤ人にとっては、かつて自分たちが国で話していた言語であることがはっきりとわかり、そのようにして多くのディアスポラのユダヤ人たちがそれぞれの国の言葉を聞き、その内容が神の偉大な救いのみわざであることが理解できた。それは全くあり得ない出来事ではありません。

 そこに、聖霊なる神が働いておられたということが何よりも重要です。弟子たちが外国の言葉をどこかで学んだのではありませんし、彼らの能力によるのでもありません。多くの人々の騒々しい騒ぎの中で、自分の国の言葉を聞き分けることができたディアスポラのユダヤ人にも聖霊なる神のお導きがなければそれは不可能なことです。多くの人々の、驚き、当惑、混乱の中で、聖霊なる神が確かな救いのみわざをなさっておられるということを、使徒言行録は記録しているのです。

 7節に人々の驚きの声が記されています。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか」。この言葉には、ガリラヤ地方の出身者に対する軽蔑が含まれているように思われます。ガリラヤは「異邦人の地」と呼ばれ、「ガリラヤからは預言者が出るはずはない」(ヨハネ福音書7章52節参照)とも言われていました。しかし、福音書の記述によれば、主イエスはそのガリラヤに最初に神の国の福音を宣べ伝えられたのです。また今、そのガリラヤ出身の弟子たちに聖霊が注がれ、世界各国の言葉で主キリストの福音を語っているのです。彼らが世界の諸教会の礎として選ばれ、聖霊なる神に仕える福音の説教者とされているのです。

 9~11節には、ディアスポラのユダヤ人たちが散らされていた国や地域が挙げられています。ここには7つの民族名と9つの地方・地域の名が挙げられています。これらは当時のローマ帝国のほとんど全地域にまたがっています。彼らはそれぞれの国・地域でそれぞれの言語を話していました。ギリシャ語があり、アラム語、ラテン語、アラビア語、エジプト語など、それらの言語で今弟子たちが一つの神の大なる救いのみわざについて語っているのです。ディアスポラのユダヤ人たちが今エルサレムでその神のみ言葉を聞いているのです。これが、ペンテコステの日に起こった「多国語奇跡」と言われる出来事です。

 この奇跡を体験したディアスポラのユダヤ人たちは、ペンテコステの日にエルサレムで起こったこの不思議な出来事の証人となり、また実際に、このあとペトロの説教を聞き、それを信じて洗礼を受け、世界最初の教会として誕生したエルサレム教会のメンバーとなり、そののち全世界に広がっていく教会の礎となりました。聖霊に満たされて神のみ言葉を語った弟子たちと、それを聞いて聖霊なる神のみわざの証人となった彼らと、共に聖霊なる神の救いのみわざに仕えたのです。

 11節の「神の偉大な業」とは、具体的には1章22節の「主イエスの洗礼のときから始まって、天に昇られた日まで」の主イエス・キリストの救いのみわざのことであり、その展開としての14節以下で語られているペトロの説教のことを指しています。聖霊によって弟子たちが語るべき言葉はこれ以外にはありませんし、聖霊によってエルサレムの住民が聞くべき言葉もこれ以外にはありません。主イエスはヨハネ福音書15章26節で弟子たちにこのように約束されました。「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方はわたしについて証しをなさるはずである」。聖霊は主イエス・キリストを証し、主イエス・キリストを信じる信仰をわたしたちに与えます。

 このペンテコステの日に弟子たちが体験した「多国語奇跡」を旧約聖書時代からの神の救いの歴史全体の中で捕らえるならば、これは創世記11章に書かれている「バベルの塔」の出来事と深い関連があることに気づかされます。創世記11章には、人々が一つの言葉で協力し合い、文化や技術を向上させることによって、天にまで届く高い塔を建て、自ら神よりも偉大な者になろうと企てたのに対して、神はその人間の罪をお裁きになるために天から下って来られ、彼らの言葉を乱し、彼らを全地に散らされたと書かれています。人間たちが罪によって結束することがないように、神は言葉を乱されました。

 ところが今、神は散らされていたディアスポラのユダヤ人をエルサレムにお集めになり、彼らのそれぞれの国の言語によって神の一つの救いのみわざを語った弟子たちの宣教によって、彼らを新しい一つの神の民として結集してくださったのです。主イエス・キリストの福音を共に聞き、信じる教会の群れを形成してくださったのです。このペンテコステの日に注がれた聖霊によって、一つの神の救いのみわざのもとに、一つの福音を宣教する言葉によって、全世界の国民が一つに結集されるということが、この「多国語奇跡」によって暗示されているのです。

 聖霊なる神は人間の間にあるあらゆる違いや壁を打ち破り、国や民族、言語、思想や、また一人一人の性格などの違いから生じるすべての溝や壁を打ち破り、全世界のすべての国民が主イエス・キリストの福音を語り、聞くことによって、彼らを一つの神の民、教会の民としてくださるのです。聖霊なる神は今もなおわたしたちの教会を通して働いておられ、わたしたちを主イエス・キリストを救い主と信じ、告白する信仰を与えてくださいます。その信仰によって、わたしたちを神と主キリストに固く結びつけ、わたしたち一人一人をも一つの神の民、礼拝する民として固く結び合わせてくださいます。

 【12~13節】。聖霊を注がれた弟子たちの多国語奇跡を見たエルサレムの人たちの二つの反応がここに書かれています。12節では、今何か不思議な驚くべき新しいことが起こり始めていると感じ、ペンテコステの日に起こったこの新しい出来事に対して心を開き始めている人たちのことが、13節では、いまだ人間的な限界の中で理性や常識に縛られているために、神の新しいみわざを見ることができず、あざけっている人たちのことが描かれています。

 「いったい、、これはどういうことなのか」。この驚きの言葉は、新しい聖霊の時が始まったことに対する期待が、今はまだそれがどのような時代になるのかは不確実ではあるが、確かに何か新しい時代が始まったという予感と期待が含まれているように思われます。このペンテコステの日から、聖霊の時が、教会の時が確かに始まったのだと、使徒言行録は語っているのです。わたしたちはその聖霊の時、教会の時に生きています。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちの教会にも、そしてわたしたち一人ひとりにも、聖霊を注ぎ、主イエス・キリストの証し人としてお用いください。

〇父なる神よ、あなたが独り子を賜るほどにわたしたちを愛してくださったように、わたしたちもあなたの愛に満たされて、隣人を真実の愛で愛することができますように導いてください。

〇そして、主なる神よ、全世界の人々があなたの限りない愛を知り、互いに愛し合うことができますように、この地球上をあなたの愛で満たしてください。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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