11月1日説教「信仰による旅人アブラハム」

2020年11月1日(日)午前10時30分 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:創世記12章1~9節

    ヘブライ人への手紙11章8~12節

説教題:「信仰による旅人アブラハム」

 創世記12章からアブラハムの生涯の物語が始まります。アブラハムからその子イサク、その子ヤコブ、そしてヤコブ(彼はのちにイスラエルと改名しますが)、その12人の子どもたちへと続く物語を、族長物語、族長時代と言います。紀元前2000年ころから1700年ころの時代と考えられます。ヤコブ=イスラエルの12人の子ともたちはやがてエジプトに移住し、そこで400年あまりを過ごし、紀元前1200年代にエジプトから脱出して、神の約束の地カナン(今のパレスチナ地方)に移り住みます。そして、カナンの地でのイスラエルの歴史へと受け継がれていきます。

 創世記12章のアブラハムから始まる族長物語の大きな特徴の一つは、神の選びの歴史であるということです。また、それが神の救いの歴史であるということです。アブラハムから神の救いの歴史はより具体的になっていきます。神は一人の人、アブラハムを選ばれ、彼と契約を結ばれ、彼と彼の子孫によって救いの歴史を継続されます。これを神の救いの歴史、「救済史」と言います。アブラハムの選びから始まった救済史は、イスラエルの選びへと継続され、ついにはイスラエルの民の中から出た一人のメシア・救済者であられる主イエス・キリストによって神の救いの歴史はその頂点に達し、完成されます。わたしたちはアブラハムから始まった神の選びの歴史、神の救いの歴史に連なっているのであり、その中に招き入れられているのです。

 では、【1節】。11章から12章へのつながりには違和感がないように思われます。11章では、10節からノアの息子の一人セムの系図、また27節からはその続きのテラの系図が書かれてあり、テラの子どもアブラムとその妻サライが生まれ故郷であるカルデアのウルから旅立ってハランに移住したころまでが書かれてあり、そのハランの地でアブラム・アブラハムが神のみ言葉を聞いたという12章1節に続いていくので、一連の物語としては連続性があるように思われます。

 しかし、その内容から見れば、11章までと12章からは明らかな違いがあります。ある旧約聖書学者は11章までを「原初史」と名づけました。そこでは世界と人間の歴史の根源が描かれており、つまり世界がどのようにして神によって創造されたのか、人間はどのようにして神のパートナーとなったのかについて描かれており、そこでは神の救いのご計画と神の恵みは、どちらかと言えば人間全体、世界全体を対象にしています。それに対して、12章からは、アブラハムという一人の人間に神が語りかけられ、この一人の人アブラハム、あるいはアブラハムを代表とする一つの部族によって神の救いの歴史が繰り広げられていくようになります。先ほど触れた神の選びの歴史、神の救済史がここから具体的に展開されていくようになるのです。

 そのようにとらえれば、11章までと12章からは明らかな違いがあると言えます。しかしながら、そこに継続性がないわけではもちろんありません。12章1節の冒頭に「主はアブラムに言われた」と書かれているように、創世記第二部の族長の歴史の始まりも主なる神が主語であることには変わりはありません。1章1節の創世記の第一部である原初史の始まりにおいても「神は天地を創造された」とあり、神が世界と人間のすべての歴史を始められたように、神の救いの歴史、神の恵みの歴史は、原初史から族長の歴史、イスラエルの歴史、そして教会の歴史に至るまで、一貫してそれは主なる神が主語として働かれる一連の歴史であるということは言うまでもありません。

 「主はアブラムに言われた」。どうしてアブラハムが選ばれ、神が彼に語りかけられたのか、その理由については書かれていません。アブラハムの選びにおいては、選ばれたアブラハムの側には全くその理由はありません。神の選びは神の自由なご意志による一方的な恵みと愛による選びです。それゆえにまた、神の救いも徹底して神の側からの一方的な恵みと愛による救いです。アブラハムから始まる神の選びの歴史は、その後イスラエルの選び、教会の選び、わたしの選びに至るまで、その性格は全く変わりません。神は全く選ばれる理由がないわたしを、選ばれるに値しないわたしを一方的に選び、恵みと愛とをもって、この取るに足りないわたしを主キリストから与えられる救いへと招き入れてくださったのです。この教会へと招き入れ、きょうの礼拝へと呼び集めてくださったのです。そこには、神の自由な選びと、神の大きな恵みと愛とがあるのだということを、わたしたちは覚えるのです。

 「主はアブラムに言われた」。ここでもう一つ確認しておくべきことは、主なる神はみ言葉をお語りになることによって、アブラハムを信仰の道へと招き入れられ、彼の生涯の歩みを導かれるということです。聖書の神、アブラハムの神、イスラエルと教会の神は、み言葉をお語りになる神です。創世記第一部の原初史においても、1章3節に「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」と書かれていました。神はみ言葉をお語りになることによって、天地万物と人間とを創造されました。第二部のアブラハムから始まる族長の歴史においても、み言葉をお語りになることによって、その選びと救いの歴史を開始されます。神はこののちにも、アブラハムの全生涯の中で繰り返し繰り返しみ言葉をお語りになります。アブラハムが失敗しつまずいた時に、神の約束を疑い、不安になった時に、彼が大きな試練に直面し、恐れおののいた時に、神はその時々にアブラハムに対してみ言葉をお語りになり、彼の生涯と信仰の歩みを導かれました。

 神は今も、わたしたち一人一人に対して必要なみ言葉をお語りくださいます。聖書のみ言葉を通して、わたしに語りかけてくださいます。わたしたちは繰り返し繰り返しその神のみ言葉を聞きつつ、それに聞き従うことによって、信仰の道を全うすることができるのです。

 「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地へ行きなさい」。アブラハムを選ばれ、彼を信仰の道へとお招きになる神は、まず彼がこれまでに慣れ親しんできた愛すべきすべての世界と生活から離れなさいとお命じになります。彼はこれまで、故郷の自然や環境、社会から多くのことを学んだでしょう。父の家には愛すべき多くの家族もいたし、親しい友人、頼りがいのある年配もいたでしょう。けれども、神はそれらに別れを告げよとお命じになります。なぜなら、これからは神のみ言葉が彼の道を導くからです。神が彼に必要なすべてを備えられるからです。それが、彼がこれから歩みだす信仰の道なのです。それが、わたしたちの信仰の道です。

 近年、アブラハムの生まれ故郷であるカルデアのウル付近、ユーフラテス川の。南端、ペルシャ湾の近くですが、その地域の発掘調査で、そこでは古代に天体崇拝が行われていた、特に月神礼拝が盛んであったことが明らかになりました。アブラハムが別れを告げたものの中には、その古い信仰からの別離も含まれていたのは当然です。

 アブラハムは神に選ばれ、神の呼びかけを聞き、新しい信仰の道へと旅立った際に、それまで住んでいた土地、家族やその他の人間関係、生活、そして宗教のすべてを捨て、神が備えられる新しい土地を目指しました。彼のその決断がいかに大きいものであったか、いかに厳しい別離を伴うものであったか、それゆえにまたいかに困難な決断であったことか、わたしたちは推測することができます。けれども、聖書はそのようなことについては全く記していません。4節に、「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」とだけ書かれています。彼は神のみ言葉に服従します。多くの迷いや不安、恐れ、痛みがあったと思われますが、彼は黙々と神のみ言葉に服従します。主なる神にすべてをお委ねし、主なる神のみ言葉にすべての信頼を置いて服従します。

ヘブライ人への手紙11章8節では、このアブラハムの信仰についてこのように言っています。【8節】(新約415ページ)。アブラハムはこの時点ではまだ、神がお示しになる土地がどのような場所であるのか、そこでどのような生活が待っているのかを全く何も知らされず、「行先も知らずに出発」しました。彼が旅を続けてカナンの地に来た時になって初めて神は、7節で「あなたの子孫にこの土地を与える」と言われました。それでもまだ、カナンの地がカルデアのウルよりも良い地であるのかどうかは何も知らされませんし、かつての生まれ故郷での生活よりもカナンの地での生活が幸いであるのかも、全く分かりません。そうであるのに、アブラハムは行き先を知らずして、何の保証もない新しい地へと旅立って行きました。神のみ言葉に服従して。

わたしたちは同じような信仰を新約聖書の中にも多く見いだします。ガリラヤ湖の漁師であったペトロとその兄弟アンデレ、ヤコブのその兄弟ヨハネは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた主イエスのみ言葉に従い、すぐに一切を捨てて主イエスに従っていきました(マルコ福音書1章16節以下参照)。徴税人レビも「わたしに従いなさい」と言われた主イエスのみ言葉を聞き、立ち上がって主イエスに従いました(同2章13節以下参照)。彼らも主イエスのあとに従っていくことがどのような人生の歩みになるのか全く分からずに、主イエスのみ言葉に聞き従ったのでした。

ヘブライ人への手紙11章1節にはこのように書かれています。【1節】(414ページ)。そして、先ほど読んだように8節でアブラハムの信仰による旅立ちがあり、そして13節以下ではこのように言います。【13~16節】。アブラハムはこの地上では「よそ者、仮住まいの者」であり、旅人、寄留者であって、彼が最終的に目指していたのは、実に、天の故郷であったのだと結論づけています。これがアブラハムの信仰なのです。この信仰のゆえに、アブラハムは「すべて信じる者たちの信仰の父」と言われるようになりました。

アブラハムの信仰による旅立ちは神の約束の地を目指しての出発でしたが、神の約束の地はこの地上のどこかにあるのではなく、天にある、神が備えておられる天の故郷、神の国にあるというヘブライ人への手紙のみ言葉は、わたしたちすべての信仰者にも当てはまります。わたしたちはみな地上には永遠の安息の場所を持っていません。最後の目的地を持っていません。でも、あてもなく旅をしているのではもちろんありません。地上にあるどんな地よりもはるかに堅固な土台を持つ都、神が設計され、神が建設された永遠の都(ヘブライ手紙11章10節参照)、神の国を目指しているのです。神が永遠にわたしと共にいてくださる家、もはや死もなく、悲しみも痛みもない世界、新しい天と地と(ヨハネ黙示録21章1節以下参照)を目指しているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちをあなたの民としてお選びくださり、主キリストの救いにあずからせてくださった大きな恵みを感謝いたします。どうか、わたしたちがこの恵みのうちにあって信仰の道を全うできますように、お導きください。

〇天の神よ、重荷を負って労苦している人、迷いや不安の中にある人、病や痛みの中で苦しむ人を、あなたの大きな愛で包んでください。一人一人に希望と慰め、励まし、勇気をお与えください。

〇神よ、わたしたちの世界が直面している試練や混乱や分断の危機を顧みてください。あなたのみ心が行われますように。あなたのみ国が来ますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA