11月8日説教「信仰によって、天にある故郷を望み見る」

2020年11月8日(日) 秋田教会主日礼拝説教(逝去者記念礼拝)

聖 書:詩編90編1~17節

    ヘブライ人への手紙11章13~16節

説教題:「信仰によって、天にある故郷を望み見る」

 ヘブライ人への手紙11章では、1節で信仰とは何かについてこのように教えています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。わたしたちが神を信じるとか、主イエス・キリストを救い主と信じるというわたしたちの信仰とは、このようなものであるというのです。ここでは、二つのことが強調されています。一つは、信仰とは過去や今、現在のことではなく、将来のことに関連しているということ、わたしたちの目を将来へと向け、その将来を目指して今を生きるということ、それが信仰だということです。もう一つは、信仰とは目に見える現実のことではなく、目には見えていない真理に関連しているということ、わたしたちの目を今見ている現実から引き離して、目には見えていないが、確かに神が備えていてくださる真理へと、信仰の目を向けて生きるということ、それが信仰だということです。

 この手紙は、そのあとでそのような信仰に生きた旧約聖書の信仰者たちの名前を数多く挙げ、また彼らの信仰による具体的な生きざまについて、この章の終わりまで語っています。そして、12章1節で、「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではないか」と勧めています。地上での信仰生活を終えて天の父なる神のみもとへと召された彼らを証人たちと呼んでいます。今現在地上での信仰の戦いを続け、信仰の馳せ場を走り続けている信仰者たちを天から見守り、いわば応援、支援している観衆のようにみなしているのです。彼ら天にいる証人たちは、地上にあって今なお労苦の多い困難な信仰の旅路を続けている信仰者たちに、実際に信仰の勝利を保証している証人たちであると言ってよいでしょう。

 16世紀の宗教改革者たちは、地上にある信仰者たちの群れを「戦闘(戦い)の教会」と呼び、すでに地上の歩みを終えて天の神のみもとへと召された信仰者たちの群れを「勝利の教会」と呼びました。わたしたちがきょうの逝去者記念礼拝で覚えている彼らは、すでに主キリストによって与えられた罪と死に対する勝利を受け取ることをゆるされている勝利者たちなのです。そして、彼らは今なお信仰の戦いを続けているわたしたちにとっての勝利の証人なのです。それゆえに、ヘブライ人への手紙が教えるように、現在の信仰の戦いがいかに困難であろうとも、労苦に満ちた戦いであろうとも、確かな勝利を信じて、信仰の馳せ場を走り続けることができるのです。

 きょうお渡ししてある「秋田教会逝去者名簿」には、信仰をもって天に召された教会員のお名前が90人余り登録されています。このほかにも、教会員の家族やその他の関係者で、教会で葬儀を行った人たちも数人おられ、また1915年以前にも数十人おられることが分かりました。今、秋田教会の歴史書の編纂をしておりますが、秋田教会の伝道開始以来130年近くの間に、分かっているだけで、この名簿と合わせて全部で150人ほどの教会員、教会関係者がこの教会で地上の信仰の歩みを終えられたことが新たな調査から明らかになりました。ちなみに、この間にこの教会で洗礼を受けられた人は520人にものぼります。わたしたちは秋田教会というわたしの身近で、これほどの多くの信仰の証人たちに取り囲まれ、見守られているのであり、これほどに多くの信仰の勝利の保証人たちを与えられているのだということに、大きな驚きと感謝を覚えざるを得ません。

 そこできょうは、ヘブライ人への手紙11章13節以下のみ言葉から、その前後のみ言葉をも参考にしつつ、信仰とは何か、また信仰によって生きるとはどういうことなのかを、旧約聖書の信仰者たちの具体的な生きざまから学んでいきたいと思います。

 11章7節にはノアの信仰について書かれています。ノアは神のみ言葉に聞き従い、人々が飲んだり食べたり、めとったりとついだりして日常の生活に忙しくしている時に、ただ一人で黙々と、乾いた大地で大きな箱舟の制作を続けました。神がこの罪の地をお裁きになるために、やがて地に大雨を降らせ、地のすべてを大洪水が飲み尽くすであろうとの神のみ言葉を信じたからです。彼はまだだれも見ていない将来の神のご計画を信じ、それに備えて生きたのでした。彼は人々の生活ぶりだとか、きょう何を食べ、あすは何を着ようかとか、社会や経済状況を見ていたのではなく、目には見えない神の真理をあたかも見ているかのようにして、神が計画しておられる尊いみわざを恐れつつ、生きていました。これがノアの信仰でした。神はこのノアの信仰によって、罪の世界をお裁きになり、信じて箱舟に乗ったノアと彼の家族とを大洪水から救い出されたのでした。

 8節からはアブラハムの信仰について書かれています。彼は神の呼びかけを聞いた時、神が示される土地が最終的にどこであるのかを知らずに、またその土地での生活がどのようなものになるのかも知らずに、行き先を知らずして、故郷を旅立ちました。彼もまた、神が約束された将来に向かって、まだ見ぬ神の真理をすでに見ているかのようにして、地上の旅を続けました。アブラハムの信仰による旅路について9節、10節ではこのように説明されています。【9~10節】。アブラハムは神が約束された土地カナンに住みながらも、他国に宿るように、そこがまだ最終目的地ではないかのように生きていたのでした。そして、そこに定住するための家を建てるのではなく、いつでも移動できるように天幕に住んでいたのでした。なぜならば、彼は地上のどこかに安住の地を持っているのではなく、神が建設された天の都を目指していたからだと言うのです。

 そのような旧約聖書の信仰者たちの信仰の歩みを振り返ったあとで、13節以下でこの手紙は次のような結論を導き出すのです。【13~16節】。信仰者はこの地上ではどこに住んでいてもよそ者であり、仮住まいの者である、旅人であり寄留者であると結論づけます。どんなに環境がよく、快適に過ごせる土地であったとしても、どんなに立派な施設が整っている豪華な家であっても、信仰者にとっては、そこに最後の目的地があるのではありません。そこに永遠の安住の場所があるのではありません。あるいはまた、どんなにこの世で成功をおさめ、人々の称賛を浴び、自分の願いをすべてかなえることができたとしても、そこに信仰者の最高の幸いと祝福があるのでもありません。

 なぜならば、1節で教えられていたように、信仰者は「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」という信仰が与えられているからです。今ある現実や今生きている世界が信仰者のすべてなのではなく、いやむしろそれらはやがて移ろい行き、過ぎ去り、滅びに向かっているものでしかないことを知らされながら、それらよりもはるかに堅固な土台を持ち、はるかに勝った故郷である天の故郷へと招かれていることを知らされている、そこを目指して信仰の旅路を続けている、それが信仰者の歩みです。神が信仰者たちのためにその天の都を建設してくださり、その天の故郷を備えていてくださるのです。

 それでは、天の故郷を目指して生きる信仰者と地上の国を目指して生きるこの世の人との決定的な違いはどこに現れるのでしょうか。そのヒントは13節にあります。【13節】。人はみな地上の命を終えて死ななければなりません。信仰者にとっても、それは例外ではありません。ただし、ここで重要なことは、「信仰を抱いて」という言葉です。この言葉が信仰者とそうでない人との決定的な違いを生み出しているのです。

信仰を持たない人は、望んでいる事柄を確信することはありません。過去と今現在とに生きています。今見ている世界、今生きている現実が彼のすべてです。彼はいずれにしても自分の可能性の限界内に生きています。神が将来に何を備えておられるか、神が何をなし給うかを知ろうとはしません。その人は、彼の地上の歩みの終わりの時には、彼がそれまでに得たもの、築き上げたもののすべてと別れなければなりません。彼が見ていた現実の世界は彼の死とともに彼の人生から消え去っていきます。彼は死の世界に何ひとつ携えていくことはできません。

けれども、信仰者は神が備えてくださる将来へと目と心とを向けます。神ご自身が建設された、堅固な土台を持った天の都を待ち望んでいます。来るべき神の国の民として招きいれられていることを信じています。神は確かに彼らのために天の都を準備しておられます。この神の約束は信仰者の死によっても、変更されることも取り去られることもありません。いやむしろ、信仰者にとって死とは、神の約束へと近づくことであり、神のみ言葉が確かに成就される時です。地上に生きている間は、神のみ言葉を疑わせたり迷ったりする多くの罪や誘惑がありました。彼を神から引き離そうとする多くの敵の攻撃がありました。けれども、死ののちには彼はそれらのすべてから解き放たれて、天に引き上げられ、永遠に神と共にあり、神との豊かで堅い交わりの中へ招きいれられています。もはや何ものも彼から信仰を奪い取るものは存在しません。信仰者は今は天にあって、何ものにも妨げられることなく、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」がゆるされているのです。神が天に備えてくださる堅固な都、天の故郷の永遠の住民とされているのです。

終わりに、もう一度12章1節のみ言葉を読みましょう。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではないか」。

(執り成しの祈り)

〇天の神よ、あなたがこの秋田教会の130年近くの歩みをお導きくださり、ここに多くの信仰者たちをお集めくださったことを覚えて、心から感謝をささげます。どうぞ、今ここに招かれ、集められているわたしたち一人一人をも、豊かに祝福してください。

〇天の神よ、重荷を負って労苦している人、迷いや不安の中にある人、病や痛みの中で苦しむ人を、あなたの大きな愛で包んでください。一人一人に希望と慰め、励まし、勇気をお与えください。

〇神よ、わたしたちの世界が直面している試練や混乱や分断の危機を顧みてください。あなたのみ心が行われますように。あなたのみ国が来ますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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