11月22日説教「ペンテコステのペトロの説教」

2020年11月22日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:ヨエル書2章1~11節

    使徒言行録2章14~21節

説教題:「ペンテコステのペトロの説教」

 使徒言行録2章14節から、ペンテコステ(聖霊降臨日)のペトロの説教が始まります。この説教は、11節に書かれていた「神の偉大な業」の具体的な展開の一つと考えてよいと思います。聖霊を注がれた弟子たちは、多くの国の言葉で神の偉大なみわざについて、すなわち主イエス・キリストの救いのみわざについて語り、エルサレムに集まっていたディアスポラ(離散のユダヤ人)は自分の生まれ故郷の国の言葉でそれを聞き、理解したという、いわゆる「多国語奇跡」が起こりました。聖霊なる神がガリラヤ出身の無学な弟子たちに、彼らがこれまで学んだことなく、語ったこともなかった新しい言葉をお授けになったのです。彼らはこれまでは主イエスがお語りになる神の国の福音の説教を聞く者たちでした。主イエスの奇跡のみわざを目撃し、十字架の死と復活の証人となりました。今からは、聖霊を受けた彼らは、新しい言葉を授けられ、神の偉大なみわざを語る者たちへと変えられていくのです。

 12弟子のリーダーであったペトロも、今、聖霊なる神によって新しい言葉を授けられ、神の偉大なみわざ、すなわち主イエス・キリストの十字架と復活の福音を語る宣教者、説教者に変えられたました。福音書の中には、ペトロが説教をした記録はありません。12弟子たちは主イエスによって神の国の福音宣教のために町々村々に派遣されたということは書かれていますので、彼らが説教をしていたことは確かですが、その内容については全く書かれていませんでした。使徒言行録のこの個所がペトロの説教の最初の記録です。彼の説教はこのあと3章12節以下と10章34節以下に、合計3回記録されています。これらのペトロの説教は、時間的に言えば、聖書の中に記録されている最も早い時代の説教です。パウルの宣教活動は紀元40年代の終わり、パウロの手紙が書かれたのは紀元50年代ですが、ペトロの説教はそれより20年も前、紀元30年代初め、主イエスの十字架と復活があった年のペンテコステに最初に誕生した教会、初代教会とか古代教会とか呼ばれますが、その生まれたばかりの教会での説教であり、初代教会がどのような説教をしたのか、どのように宣教活動と教会形成をしていったのかの貴重な記録でもあります。

 では、【14~16節】を読みましょう。聖霊を注がれて多くの国の言葉で語りだした弟子たちの様子を見ていたエルサレムの人々が、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」とあざ笑っていたことが13節に書かれていましたが、ペトロは真っ先にその誤りを訂正します。朝9時は、敬虔なユダヤ人にとっては祈りの時でした。また、朝の祈り前には食事をしないのが習わしでしたので、この時間帯に酒に酔うことはあり得ないとペトロは言います。聖霊なる神が弟子たちを普通の人たちとは違った異常とも見える行動、不思議な言葉を語る行動へと駆り立てているのです。そして、今ここで起こっていることは旧約聖書の預言者ヨエルが預言していたことにほかならないと、ペトロは説教を続けます。

 17~21節はヨエル書3章1~5節のみ言葉です。ヨエル書は全4章全体が、キリスト教教理で言う終末論を取り扱っています。終わりの日の神の最後の裁きと救いの完成について預言されています。ペトロが引用している箇所では、前半の17~18節で、終わりの日にすべての人に聖霊が注がれ、すべての人が預言をするようになることが語られ、後半では終末の時に起こるであろう宇宙的規模での異常現象と救いの完成について預言されています。

 前半のみ言葉を読んでみましょう。【17~18節】。ここには、神の霊を注がれ、神の霊によって預言し、神の霊によって生きる新しい神の民の誕生について預言されています。その新しい神の民が今このペンテコステの日に、聖霊を注がれた主イエスの弟子たちと共に誕生したのだとペトロは語るのです。古い神の民イスラエルは一つの民族のよって形成されていましたが、今新しく誕生した神の民は、血筋によってではなく、聖霊によって一つに結ばれた民です。全世界に広がっています。神の霊・聖霊は民族の違いや男女の違い、社会的地位や貧富の違い、奴隷か自由人かの違いをも超えて、すべての人に注がれるからです。そして、神の霊を注がれた新しい神の民は、律法を守り行うことによって生きるのではなく、神の霊・聖霊によって生きるのであり、主イエス・キリストによって成就された救いを信じ、また語ることによって生きるのです。

 「預言する」とは、未来のことを予知して語るという意味ではなく、神がお語りくださるみ言葉を聞き、それを預かり、人々に宣べ伝えることを言います。古い神の民であったイスラエルでは、預言者と言われた一部の特別な賜物を授かった人たちだけが預言の務めを担っていましたが、神の霊を注がれた新しい神の民は、すべての人がその預言の務めを果たすのです。息子も娘も、男も女も、若者も老人も、奴隷も自由人も、すべての人が聖霊を注がれ、神のみ言葉の奉仕者とされるのです。16世紀の宗教改革者たちはこれを「万人祭司」と名づけました。

 「幻を見る」「夢を見る」とは、神がお示しくださった事柄、それを啓示と言いますが、それを信仰の目をもって見るということです。人間の肉の目が見ている現実や世界ではなく、そこに隠されている神のみ心を信仰の目をもって見る時、そこに現実を超えた、あるいは現実を変革していく希望と力が与えられるのです。聖霊なる神がお与えくださる幻や夢は困難な現実の壁を打ち破り、暗黒の世界に光を照らします。

 18節に、「わたしの僕やはしためにも」と書かれていますが、ヨエル書3章2節では、「その日、わたしは/奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ」となっていて、ペトロの引用と少し違っていることが分かります。ヨエル書の預言は、奴隷である人にも女奴隷である人にも神の霊が注がれるという内容ですが、ペトロの説教では、奴隷と女奴隷はもとの所有者から解放されて、すでに神の僕(しもべ)、神の所有となっています。神の霊が注がれる時、それまで地上でその人を縛りつけていた鎖がすべて解き放たれて、彼を自由にし、すべての奴隷状態から彼を解放するということがここには暗示されているように思います。神の霊を注がれた人は神のもの、神の所有となり、他のすべての支配から解放されるということです。だれかがわたしの主人であるのではなく、この世の何かがわたしを支配するのでもない、また罪がわたしを支配するのでもない、聖霊はそれらすべてからわたしを解放し、わたしが真の自由と喜びとをもって、わたしの新しい主となられた神のために仕えるようにするのです。

 後半の【19~21節】を読みましょう。ここに描かれている全宇宙的な異常現象は一般に「メシアの陣痛」と言われています。終末の時、メシア・救い主、主キリストが再臨される直前には、地上には世界規模の恐るべき戦争や流血があり、天体はその光を失って天から落ち、この世界にあるすべてのものが消え去っていく。そのような大きな動揺と痛みの後でメシアが再臨され、神の最後の裁きが行われる。そして新しい神の国が完成する。旧約聖書の中にはそのような終末論がたびたび描かれています。主イエスはマタイ福音書24章29節以下でこのように説教されました。【29~31節】(48ページ)。

 終末の時のメシアの陣痛で強調されている二つの点をまとめてみましょう。一つは、終末の時、終わりの日には、神の恐るべき最後の審判が全地、全宇宙に対して、またすべての人に対して行われる。だれも、その神の裁きから逃れることができる人はいない。この世にあるすべてのものは神の裁きによって崩れ去り、滅びいくということ。もう一つには、その時に主キリストが再臨され、全世界から神の民を呼び集め、新しい神の国を完成されるということです。ペンテコステの日のペトロの説教では、そのメシアの陣痛の時、神の国の完成の時が、今弟子たちに聖霊が注がれ、神の大いなる救いのみわざである主イエス・キリストの十字架と復活の福音が語られるこの時に、成就したと語っているのです。

 最後に、【21節】。神の恐るべき最後の審判には、だれ一人として耐えうる者はいない、みな滅びなければならない。しかし、「主の名を呼び求める者は皆、救われるのだと約束されています。「主の名を呼び求める」とは、主イエス・キリストをわたしの唯一の救い主を信じ、告白し、わたしの人生の歩みのすべてを主イエス・キリストを信じる信仰によって生きることです。主イエス・キリストがわたしのためにすべての救いのみわざをなしてくださった、主イエス・キリストによってわたしは罪から救われ、神の国の民とされ、朽ちることのない永遠の命を約束されている、そのことを信じ、告白して生きることです。

 「主の名を呼び求める者」はクリスチャンと並んで初代教会でキリスト者を指す名称となりました。使徒言行録9章14節、21節にこのように書かれています。【14節、21節】(230ページ)。また、クリスチャン(キリスト者)と言われたことについては11章26節に書かれています。【26節b】(236ぺーじ)。キリスト者とは主キリストに属する者、主キリストの所有となった者という意味です。

 「主の名を呼び求める者は皆、救われる」、このみ言葉は、宗教改革者たちが強調した「主キリストのみ、神の恵みのみ、信仰のみ」を言い表していると言えます。わたしの救いのすべては主イエス・キリストのみにかかっている。それ以外の何かは全く必要ない。主イエス・キリストの十字架と復活の福音を信じることによって、神の側からの一方的な恵みによって、わたしには何の功績もなく、神に喜ばれるものが何一つなく、いやむしろ、神の裁きを受けて滅びなければならない罪びとであるにもかかわらず、神がこのわたしを愛してくださり、わたしの救いのためにみ子を十字架に差し出してくださった、その一方的な恵みによってわたしを救ってくださった。そのことをわたしは信仰をもって受け入れ、感謝と喜びとをもって神に恵みに応答して生きる。これがわたしの信仰生活です。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神様、滅びにしか値しないわたしを、み子の十字架の尊い血によって贖い、救ってくださった大きな恵みを感謝いたします。どうか、わたしがこの生涯の終わりまで、あなたの恵みに感謝して、喜んであなたにお仕えすることができますようにお導きください。

〇天の神よ、重荷を負って労苦している人、迷いや不安の中にある人、苦難や痛みの中で苦しむ人を、あなたの大きな愛で包んでください。一人一人に希望と慰め、励まし、勇気をお与えください。

〇神よ、わたしたちの世界が直面している試練や混乱や分断の危機を顧みてください。あなたのみ心が行われますように。あなたのみ国が来ますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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