12月6日説教「人よ、あなたの罪はゆるされた」

2020年12月6日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編32編1~11節

    ルカによる福音書5章17~26節

説教題:「人よ、あなたの罪はゆるされた」

 ルカによる福音書は医者であるルカが書いたと考えられています。ルカ福音書の中には著者が医者であることを推測させる特徴的な表現がいくつかあります。きょう学ぶ5章17節以下の中風の人がいやされたという奇跡は他の共観福音書(マルコとマタイ)にもほとんど同じ内容で描かれていますが、一か所だけ大きく違います。それは、17節後半の「主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた」という言葉がマルコとマタイ福音書にはなく、ルカ福音書だけに書かれています。ルカは主イエスが病気をいやされたのは主なる神の力によるということを強調しているのです。主イエスが病気をいやされたということは、医者やその他の人がいやすのとは根本的に違う意味を持っていることをルカははっきりと語っているのです。医者は治療や薬によって病気をいやします。古代社会ではまじないや魔術、祈祷などによって病気をいやす人たちも多くいました。それを商売にして、時には詐欺まがいのことをしている人たちも少なからずいたようです。しかし、医者であるルカは、医者としての専門的な目と信仰の目とをもって、主イエスのいやしの奇跡が、人間や科学の働きによるのではなく、それらのすべてをはるかに超えた神の力による、神の奇跡のみわざであることを見ていました。ルカは主イエスこそが神から遣わされたまことのメシアであって、人間の体と魂の全体を神の力と命によって健康にされる救い主であるということをこの個所で語っているのです。

 きょうは主イエスが中風の人をいやされたというこの個所から、ここに登場してくる人物たちに焦点を当て、彼らが主イエスとどのようなかかわりを持ち、この奇跡をどのようにとらえたかということを考えながら、わたしたちが主イエスによって救われるとはどういうことなのかを学んでいきたいと思います。

 最初に登場してくるのが17節の「ファリサイ派の人々と律法の教師たち」、次に18節の「男たち」と、彼らによってはこばれてきた「中風で寝たきりの人」、それに主イエスを取り巻いている「群衆」、これらの人たちを取り上げてみましょう。

 まずファリサイ派の人々と律法の教師たちですが、彼らは主イエスの説教を聞くためにこの家に集まって来たのではありませんでした。彼らはガリラヤ地方とユダヤ地方の町々の代表者として、当時のユダヤ教の代表者として、主イエスを監視し、調査するためにそこにいたということが17節に書かれています。【17節ab】。主イエスが自分たちの考えや習慣に反した行動を行うことがないかどうか、あるいはもしかしたら、主イエスによって自分たちの宗教家としての権威が失われることになりはしないかという恐れをもって、彼らは主イエスの教や行動を調査するために来たのでした。彼らは自分たちの立場や権威、利益を守るためにこの場に来ていました。

 その時、彼らは主イエスと同じ場所に座り、主イエスの話を聞いてはいましたが、そこでは主イエスとの真実な出会いは起こらず、主イエスのみ言葉によって養われるということもありません。逆に彼らは、21節に書かれているように、主イエスの罪のゆるしと救いのみわざを見ても、それを批判し、主イエスを神を冒涜した罪で告発しようとさえしています。そして、やがて彼らは数年後には実際に主イエスを捕え、偽りの裁判で裁き、死の判決を下すようになるのです。ここにはすでに、主イエスの十字架の影が差し込んでいます。

 わたしたちはファリサイ派の人々や律法の教師たちのようであっては救われることはできません。自分の立場を弁護したり、自らを義とするのではなく、神のみ前にへりくだり、自我が打ち砕かれて、ひたすらに主イエスの救いを願い求めるという謙遜な態度がなければ、主イエスとの真実な出会いは起こりません。

 次に群衆を取り上げてみましょう。彼らは主イエスを取り囲んでいます。家の中いっぱいに群がっています。熱心に主イエスの説教を聞いているように見えます。けれども、今のところ彼らには何事も起こりません。かえって、彼らは中風の人が主イエスのみ前に近づくの妨げているように思われます。19節の前半に「しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかった」と書かれているからです。福音書の中では、群衆はいつの場合にも、どちら側にもつく存在として描かれたいます。ある時には、主イエスの奇跡を見て、説教を聞いて、喜んで主イエスの周りに群がってくるけれども、ある時には、「十字架につけよ、十字架につけよ」と狂い叫ぶ群衆。ある時には主イエスに味方し、ある時には敵対する。どちらにも転びえる存在としての群衆。まだ自分の立場をはっきりと選択できておらず、信仰の決断をしていない、自分を完全に捨てきれていない、すべてをかけて主イエスに従っていくことをためらっている群衆。このような群衆も、主イエスと真実な出会いをすることはできません。本当の救いを与えられることはありません。

 わたしたちは群衆の一人であってはなりません。教会において、礼拝において、観衆や見物人であってはなりません。群衆の中に身を隠しておくのではなく、そこから一人飛び出して、主イエスのみ前に進み出なければなりません。主イエスのみ前に自分自身をさらけ出し、ありのままの自分を差し出さなければなりません。その時、主イエスは貧しいわたしをも受け入れてくださり、罪のゆるしの恵みをお与えくださいます。

 第三に、中風の人を運んできた人たち、彼らは寝たきりの病人を担架に乗せて主イエスの所へ連れてきました。病人の家族か、友人たちでしょう。長く寝たきりであった病人にとって、彼らは良き隣人たちでした。この病人は辛い病気との戦いの中でも、そのような良き隣人たちを持っていて、幸いでした。そして今、この病人は、最も幸いなことに、彼ら良き隣人たちに運ばれて、主イエスの所に連れられてきました。自分の足では主イエスのもとへ行くことができない病める人を、主イエスのもとへと運んでいく、これこそが良き隣人として彼らがなした最も良きわざであると言えるのではないでしょうか。

 ところが、彼らが主イエスがおられる家に着いた時には、すでに群衆がいっぱいで病人を主イエスの近くに連れていくことができませんでした。でも彼らは諦めませんでした。なんとかして、病人を主イエスのもとに連れて行こうとしました。病人に対する彼らの深い愛があったと思われます。それ以上に、主イエスがこの人をいやしてくださるに違いないという強い信頼がありました。

 それから彼らは思いがけない大胆な行動に出ました。その家の屋根に上り、屋根の瓦をはぎ取って、天上から担架と病人とを主イエスのみ前に釣り降ろそうと考えたのです。当時の家は、屋根に上る外階段があり、屋根は木やしゅろの枝などを組んで土で固め、その上に瓦を敷くという簡単なものであったので、数人の男たちで容易に屋根に大きな穴をあけることができました。

 それにしても、何と強引なやり方でしょうか。主イエスに近づくために、彼らは常識では考えられないようなことをしました。もしもこの行為が主イエスに会うためでなかったなら、この家の人からも周囲の人たちからも非難されたに違いありません。しかし、主イエスがこの病人をいやされ、彼の罪をゆるされた時、だれもそのことを非難することはできませんでした。すべての人が主イエスの救いのみわざを見て驚き、神をあがめたと26節に書かれています。【26節】。一人の病める人がいやされ救われるという大きな救いの恵みの前では、瓦をはいで屋根に穴が開けられたという損害は問題にはならなかったということでしょう。

 20節に「イエスはその人たちの信仰を見て」と書かれていますが、その人たちとは、病人のことではなく、彼を連れてきた人たちのことです。彼らは主イエスに神の力が働いて、不治の病と考えられていた重い病気をもいやすことができると信じて、熱心で大胆な行動によって、病人を主イエスのみ前に連れてきました。主イエスはその彼らの信仰をご覧になります。そして、驚くことに、彼らの信仰のゆえに、病人の罪をおゆるしになりました。

 わたしたちはここで、信仰者の執り成しの祈りについて教えられます。主イエスはわたしたちの執り成しの祈りと奉仕をご覧になっておられます。わたしの愛する家族や隣人のために、わたしが熱心に祈り、その人を主イエスのみもとへと連れていくための奉仕をする時、その人自身が信じるか信じないかにかかわらず、主イエスは信仰者の執り成しの祈りと奉仕とをご覧になり、その人を救いへとお招きくださるということを、わたしたちは信じてよいのです。

 第四に、中風の人を見ていきましょう。彼はきょうの個所では少しも積極的な行動はしていません。すべて受け身です。もっとも、彼は寝たきりですから、自分では何もなしえなかったのですから、当然と言えるのかもしれません。けれども、自分では何一つなしえないこの病める人が、ここで主イエスによって罪ゆるされ、その病がいやされるという大きな救いの恵みを受け取ることがゆるされているのです。

 彼がきょうの場面で始めに登場した時には、担架に乗せられ、男たちの手に担がれていました。けれども、終わりの場面では、25節にこのように書かれています。【25節】。何という大きな変化が彼の身に起こったことでしょうか。彼は主イエスによって全く別人のように変えられたのです。わたしたちが主の日ごとの礼拝で主イエス・キリストと出会い、主イエスのみ言葉を聞き、罪ゆるされる時にも、このように変えられていくのです。

 最後に、主イエスご自身に目を注ぎましょう。【20節】。そして【22~24節】。主イエスは神の権威によってわたしたちの罪をゆるされます。ファリサイ派や律法の教師たちが言うように、罪をゆるす権威を持つのは神以外にはいません。罪とは神に対する違反だからです。主イエスは人となられた神のみ子として、神から与えられた権威によってわたしたちのすべての罪をゆるされます。そして、その罪をゆるす権威を持っていることが分かるために、寝たきりの病人をみ言葉によって立ち上がらせます。「人よ、あなたの罪はゆるされた」。だから「起きて歩け」と主イエスが言われる時、そこに神の奇跡が起こり、救いといやしが起こります。

主イエスは神から与えられた権威をご自分を救うためには少しもお用いになりませんでした。ご自身を貧しく低くされ、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順に父なる神に服従されることによって、わたしたちのために、わたしたちに代わって裁きを受けられ、苦しまれ、死んでくださり、そのようにしてわたしたちの罪を贖い、ゆるしてくださいました。ここにこそ真実の救いがあるのです。主イエスはわたしたち一人ひとりにも、「子よ、あなたの罪はゆるされた。信仰によって歩きなさい」と言ってくださいます。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ。わたしたちの罪のゆるしはみ子主イエス・キリストにあります。主キリストを信じる信仰によって、わたしたちは救いとまことの命と平安を与えられます。どうか、生涯この信仰によって歩ませてください。

〇天の神よ、あなたが天からまことの光を照らし、暗いこの世界と悩める人間の魂とを明るく照らしてください。見捨てられている小さな命を、傷つき病んでいる弱い命を、あなたは決してお見捨てにはなりません。どうか、この国の至る所に、この世界の至る所に、クリスマスの明るい光が届けられますように。すべてのひとにクリスマスの大きな恵みと祝福とが与えられますように。

み子、主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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