12月13日説教「主イエスの十字架と復活の証人」

2020年12月13日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:詩編16編1~11節

    使徒言行録2章22~36節

説教題:「主イエスの十字架と復活の証人」

 使徒言行録2章22節にこのように書かれています。【22節】。ペトロはペンテコステの日の説教の途中で改めてエルサレムの住民に呼びかけています。しかも、エルサレム市民に対してだけでなく、イスラエルの国民全体に呼びかけています。神に選ばれて、神との契約の民とされ、神の救いの恵みを受け取ってきたイスラエルの民、預言者の預言のみ言葉を聞き、終わりの日の神の霊の注ぎと救いの完成の時を待ち望んできたイスラエルの民に対して、ペトロはここで一人の人物の名前を挙げています。それが「ナザレ人イエス」です。この主イエスこそが、実は、ペトロのペンテコステの説教の中心人物であり、主題であり、またイスラエルの民が長く待ち望んできた預言の成就なのです。この主イエスの十字架の死と復活こそが、彼の説教のテーマそのものであり、神の救いのみわざの頂点、完結なのであるということを彼はこれから語るのです。それはまた、聖霊を受けて多くの外国の言葉で語りだした他の弟子たちが語った内容でもあります。11節で「神の偉大な業」と言われていた内容なのです。

 ペトロはこのあと23節以下で、主イエスの十字架の死と復活について語りますが、わたしたちはここから、教会の最初の説教の内容は主イエスの十字架の死と復活であったということを確認することができます。使徒言行録に記されているペトロのこの説教と4つの福音書とパウロ書簡の3つを時間軸に並べてみるとこうなります。ペトロの説教なされたのは主イエスの死と復活から50日後、五旬節の祭りの時、紀元30年ころの5、6月です。パウロの書簡が書かれたのがその20年後の紀元50年代。最初の福音書が書かれたのがさらにその10年後の紀元60年代ということになります。そしてこの3つ、ペトロの説教とパウロ書簡と福音書の中心的なテーマはみな同じ、主イエスの十字架の死と復活であるということをわたしたちは確認できるのです。教会はその誕生の時から、今に至るまで、そしてこののちも終わりの日の神の国が完成される時まで、いつの時代にも、どこの国や地域にあっても、だれに対しても、教会が語るべき説教の内容は主イエス・キリストの十字架と復活の福音であり、それ以外ではないということをもわたしたちはきょうのみ言葉から確認するのです。

 教会とわたしたちキリスト者の信仰と救いの始まり、土台は主イエス・キリストの十字架の死と復活にあります。この世界の何か他の真理とか哲学とか教とかにあるのではなく、またわたし自身をも含めてだれかほかの人物とかにわたしの救いがあるのではない。わたしのために、また全人類のために十字架で死なれ、三日目に死の墓から復活され、罪と死とに勝利された主イエス・キリストにこそ、わたしの救いの源、根拠、土台があるということです。

 それゆえに、教会とわたしたちの信仰の歩みのすべては主イエス・キリストの十字架の死と復活から始まっています。そしてそれは、終わりの日の神の国の完成と永遠の命へと向かっています。この世にあるすべてのものは死と滅びへと向かっていくしかありません。しかし、主キリストの十字架の死と復活から始まっているわたしたちは、死から命へと向かっており、罪のゆるしと復活の命へと向かって進んでいます。

 では、22節以下のみ言葉から学んでいきましょう。22節から36節まで、ペトロはこの個所で主イエスのご生涯、十字架の死と復活について、特に復活については旧約聖書の預言の成就としての死に対する勝利を語り、さらに33節では主イエスの昇天と聖霊の注ぎについて語っていますが、ここで繰り返して強調されていることは、主イエスのそれらのすべての歩みにおいて、父なる神のお導きがあったということです。22節では、主イエスが「神から遣わされた方」であることと、主イエスのご生涯全体が神のお導きであったということが語られています。23節では、神がご自身のご計画によって主イエスを十字架の死に引き渡されたことが、24節では、「神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられた」と語られ、32節でも、「神はこのイエスを復活させられた」、33節では、「それで、イエスは神の右に挙げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださった」、ここでも文章の主語は神です。36節後半では、「あなた方が十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさった」。このように、主イエスのご生涯全体と十字架の死、復活、召天、聖霊の注ぎ、そのすべてが父なる神のご計画に基づいた神のお導きであるということが強調されています。それゆえに、主イエスこそが神から遣わされたメシア・キリスト・救い主であられ、わたしたちを罪と死と滅びから完全に救い出してくださるのだということをペトロは説教しています。これがキリスト教会の最初の説教であり、そののちの時代のすべての教会の説教の基本、模範です。

 この中から、いくつかの点についてさらに深く学んでいきましょう。23節をもう一度読んでみましょう。【23節】。ここで「引き渡す」という言葉が用いられていますが、この言葉は福音書の中で主イエスのご受難の場面で繰り返して用いられています。主イエスはまず12弟子の一人であるイスカリオテのユダによって祭司長たちに引き渡されました。【マタイ福音書26章14~16節】(52ページ)。次に、25節で「イエスを裏切ろうとしていたユダ」の「裏切る」と訳されている元の言葉は「引き渡す」という言葉と同じです。また、【27章1節】(56ページ)。ここの「渡す」も同じ言葉です。そして、【27章26節】。ここも同じです。

 このように見てくると、まずイスカリオテのユダが主イエスをユダヤ人指導者たちに引き渡し、次に彼らは異邦人であるローマの総督ピラトに引き渡し、ピラトは十字架刑を言い渡して主イエスをユダヤ人に引き渡し、彼らが十字架につけるというように、主イエスは罪びとたちの手から手へと引き渡されていったことが分かります。

しかし、ペトロはその中に、罪びとたちの引き渡しよりもはるかに大きな、神ご自身の引き渡しがあったのだと語っているのです。神ご自身が、罪なきご自身のみ子を罪びとたちの救いのために、彼ら罪びとたちの手から手へと引き渡されることを、いわばおゆるしになったのです。いや、神は彼ら罪びとたちが、それが救いになるとは全く気づかずに行っていた引き渡しという罪の行為をお用いになって、彼らの引き渡しを神ご自身の救いのための引き渡しに変えてくださったと言うべきでしょう。人間たちの罪による引き渡しが最後に勝利するのではなく、神ご自身による神の引き渡しが勝利し、罪の救いを成し遂げるのです。

 同じ意味で、パウロはローマの信徒への手紙で、主イエスご自身と神の引き渡しについて書いています。【4章25節】(279ページ)。これは主イエスご自身の引き渡しです。次に、【8章32節】(285ページ)。この神ご自身の大いなる引き渡しによって、わたしたち罪びとたちに対する神の偉大な愛が示されました。そして、【39節】(286ページ)。神と主イエスご自身による引き渡しに示された神の偉大な愛が、人間の罪と死とに勝利するのです。

 ペトロのペンテコステの説教に戻りましょう。もう一つここで注目すべきは、主イエスの復活についてです。ペトロは主イエスの復活が旧約聖書・詩編16編に預言されていることの成就であると説教しています。【24~28節】。詩編16編はダビデが歌った詩編と考えられています。ダビデはいつどのような時でも、主なる神と共に歩みました。試練の時、苦しみや悲しみの時にも主なる神に救いと助けを求め、暗闇を行くときも、絶望の淵に立たされる時にも神に希望の光を見いだし、ただ神だけに従って歩みました。神はそのようにしてひたすらに神だけに服従する信仰者を決してお見捨てにはならないとダビデは確信しています。ダビデが地上の歩みを終える死の時にも、神は彼をお見捨てにはならず、必ずや死から命へと引き上げてくださるであろうと彼は信じていました。これがダビデの復活信仰でした。

 そして今、主イエスによってダビデが抱いていた復活信仰は、現実となりました。神は死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順に父なる神に服従された主イエスを、三日目に復活させ、死の墓から引き上げてくださいました。主イエスは罪と死と滅びに勝利され、天の父なる神の右に座しておられます。そして、天から父なる神と共に約束の聖霊を信じる人たちに注いでくださいます。主イエスは終わりの日の神の国が完成される時まで、天におられ、全地をご支配しておられ、特に、信仰者たちに神の国での復活と永遠の命を約束してくださいます。わたしたち信仰者は天に勝利者主イエス・キリストを持っています。それゆえに、ヘブライ人への手紙12章2節に書かれているように、「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」、どのような暗い時代にも、かしらを天に上げつつ、信仰の馳せ場を走り抜くことができるのです。

 最後に、32節の「わたしたちは皆、そのことの証人です」というみ言葉に注目したいと思います。証人という言葉はこれまでにも何度か出てきました。【1章8節】(213ページ)。また、21、22節では、ユダに代わる弟子を選ぶ際には、「だれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです」と書かれていました。彼ら初代教会の弟子たち、使徒たちは実際に彼らの目で見、耳で聞き、体で体験した主イエスの十字架と復活の証人たちです。のちの教会は、そして今日の私たちは、彼ら目撃証人たちの証言を聞き、それを信じて信仰者とされました。彼らは見て信じた人たちでしたが、わたしたちは見ないで信じる人たちとされました。主イエスはヨハネ福音書20章29節で、「見ないのに信じる人は、幸いである」と言われました。わたしたちはこの幸いな信仰へと招かれているのです。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、あなたがみ子・主イエス・キリストをこの世界にお遣わしになり、み子の十字架と復活によって全人類の罪を贖い、救ってくださったことを感謝いたします。この福音が全世界のすべての人に届けられますように祈ります。

〇天の神よ、あなたが天からまことの光を照らし、暗いこの世界と悩める人間の魂とを明るく照らしてください。見捨てられている小さな命を、傷つき病んでいる弱い命を、あなたは決してお見捨てにはなりません。どうか、この国の至る所に、この世界の至る所に、クリスマスの明るい光が届けられますように。すべてのひとにクリスマスの大きな恵みと祝福とが与えられますように。

み子、主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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