12月20日説教「インマヌエル、神は我々と共におられる」

2020年12月20日(日) 秋田教会主日礼拝説教(クリスマス礼拝)

聖 書:イザヤ書43章1~7節

    マタイによる福音書1章18~25節

説教題:「インマヌエル、神は我々と共におられる」

 マタイによる福音書はクリスマスの出来事をイザヤ書7章14節の預言の成就として伝えています。【21~23節】。

クリスマスの日に誕生された主イエスによって、旧約聖書に預言されていた神の救いのみわざが成就したとマタイ福音書は伝えています。「インマヌエル、神は我々と共におられる」。これがクリスマスの出来事の意味です。これが主イエス誕生の意味です。この日に、おとめマリアから聖霊によってお生まれになった神のみ子・主イエス・キリストによって、天におられる神が地に住むわたしたち人間と共にいてくださるということが現実となったのです。天にいます神が地に下って来られ、わたしたち人間と同じお姿となって、わたしたちの所を訪れてくださり、わたしたち人間と共に歩まれました。ここにわたしたちの救いがあります。旧約聖書の預言の成就があります。

これは、人類史上、あるいは神々の歴史の中で、驚くべきことです。人類は神を求めて、さまざまな努力を続けてきました。時に天に昇ろうとし、時に宇宙へと思いを馳せ、時には山々や自然をめぐり、あるいは生き物たちや地にある神々しいものに魂の安らぎを求めてきました。そのために、修行を積み、瞑想を重ねてきました。けれども、クリスマスの出来事はそのような人間が神を求める道に終止符を打ったのです。神ご自身の方から、人間を尋ね求めて、わたしたちの近くに来てくださったのです。「わたしだ。わたしはここにいる。あなたと共にいる」と呼びかけていてくださるのです。わたしたちが神を見いだすよりも前に、神がわたしを見いだしてくださったのです。わたしたちが神を愛すより前に、神がわたしたちを愛してくださったのです。そして、わたしたちを罪から救うためにみ子・主イエス・キリストをお遣わしになったのです。これがクリスマスの意味です。

きょうのクリスマス礼拝では、「インマヌエル、神は我々と共におられる」というみ言葉の深い意味をさぐりながら、クリスマスの大きな恵みを共に分かち合いたいと願います。これを、「神」「我々」「共にいます」の三つに分けて学んでいきましょう。

まず、「神」という言葉が冒頭にあります。神がこの文章の主語です。つまりそれは、神がクリスマスの出来事の主語であり、そこでは神がすべてのイニシャチブ・主導権をとっておられるということを意味します。神が全く登場しないクリスマス、神がイニシャチブを握っておられないクリスマスの祝い事は、本当のクリスマスではありませんし、そこにはクリスマスの恵みと祝福はありません。

きょうの聖書の個所でも、18節で母マリアと夫ヨセフが登場してきますが、彼らがクリスマスの出来事の主人公ではありません。彼らがまだ正式に結婚をするよりも前に、マリアは聖霊なる神によって新しい命を宿したと書かれています。また、20節、21節でも、「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。その子をイエスと名付けなさい」という神の使いの言葉が書かれています。さらに、念押しをするように25節では、「男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった」と書かれています。クリスマスの日に誕生された主イエスの命は直接に父なる神から与えられた聖なる命であり、その誕生に人間は全く関与しておらず、人間の働きなしに、神の奇跡による誕生であったということが強調されています。

クリスマスの出来事の主語であり、そのイニシャチブをとられた神は、クリスマスから始まった人間の救いと罪のゆるしのみわざにおいても、主語であり続けます。神はご自身のみ子であられる主イエスを、わたしたち人間を罪の奴隷から贖い出すために、わたしたちを罪と死と滅びから救い出すために、十字架の死に引き渡されました。神はみ子・主イエス・キリストの十字架と復活によって、わたしたちのための救いのみわざを完全に成し遂げてくださったのです。わたしたちがまだ罪びとであり、神のみ心に背き、神なき世界に住んでいた時に、神がまずわたしたちを愛してくださり、暗闇の中に住んでいたわたしたちを見いだしてくださったのです。

わたしたちがクリスマスの福音を聞くということは、神こそがこの世界の歴史とわたしの人生の歩みにおいても、唯一の主であるということをわたしが知り、信じるということなのです。わたしの人生の主はわたしではありません。得体のしれない運命とか、他のだれかとか、他の何かとかが、わたしの人生を導く主なのではありません。わたしを愛し、わたしの罪のゆるしのためにご自身のみ子をすら十字架の死に引き渡された神が、わたしの生きるべき道を示してくださり、またわたしが生きるに必要なすべてのものを備えてくださるのです。そのことを信じて神の導きに従っていく、それがクリスマスの福音を聞くということです。神はわたしたちの人生、信仰生活のすべてにおいても、常に主語です。

神の次に「我々」という言葉が続きます。神が主語であり、神が第一である時に、我々が、すなわち人間が続きます。この順序が重要です。この順序を逆転させれば、神も人間も正しく存在することはできません。もし人間が主語になり、第一になれば、神は神であることをやめてしまうことになるでしょう。人間の次の位置に置かれた神は、人間の思いのままになる偶像に過ぎません。それは本当の意味で人間を救うことはできません。神を失い、神から離れた人間は、罪の奴隷となって罪に支配され、互いに奪い合い、憎しみ合い、破壊し合うほかにありません。

「神我らと共にいます」というクリスマスの出来事は、人間を第一にして生きてきた人類に大きな逆転が起こったということを告げています。そして、神が第一になり、神が主語になる時にこそ、人間が本当の意味で人間となり、生きた人間となるのだということを教えられるのです。その時、わたした次のことを教えられます。わたしは神に愛されている人間であり、神に見いだされている人間、神によって罪ゆるされている人間であるということ、一人一人が神のみ前では他の何ものによっても取り変えられない尊い存在であることを気づかされた人間、この弱く小さな一人の兄弟のためにも主キリストが死んでくださったのだということを知らされた人間。わたしもまたそのような人間なのだということを知らされるのです。

ここでもう一つ注目したいことは、「我々」という複数であるということです。わたし一人ではありません。わたしたちという交わりの中に生きる人間のことです。クリスマスの福音を聞かされる時、だれも孤独ではありません。わたしは神によって罪ゆるされた人たちの交わりの中に、群れの中に招きいれられているのです。共に神の恵みをいただき、共に罪ゆるされ、共に主キリストから与えられる一つの命に生かされている神の家族とされているのです。

三つ目の「共にいます」とは何を語っているのでしょうか。神が人間と共にいるためには両者が同じ地平に立っていなければなりません。しかし、神は天におられ、人間は地に住んでいます。神は聖なる清い方であり、永遠なる存在ですが、人間は罪に汚れ、滅ぶべきものです。神と人間とは住む場所もその本質も全く違っており、両者が一緒になったり、共に並んでいるということは本来はあり得ません。そうであるのに、クリスマスの日に神が我々人間と共にいてくださるという奇跡が起こったのです。

その奇跡を起こしてくださったのが、この日に誕生された主イエスです。その奇跡はこのようにして起こされます。21節にこう書かれています。【21節】。イエスとは旧約聖書のヘブライ語ではヨシアとかヨシュアと発音します。そのギリシャ語読みがイエスです。ヨシア、ヨシュアとは、「神は救いである、神はお救いくださる」という意味です。この名前はイスラエルでは一般的な名前であり、旧約聖書には何人もでてきます。

ところが、ここで違う点は、その名前は通常は親が名づけるのですが、ここでは天の使いが「その子をイエスと名づけなさい」と命じています。すなわちそれは神ご自身が名づけ親だということです。神はご自身が「イエス、神は救いである」と名づけられたご自身のみ子によって、イスラエルの民と全人類の罪をおゆるしになると、この時決意なさったということです。それによって、神はわたしたち罪びとたちと共におられることを決意なさったのです。

共にいるとは、いつも共にいることです。共にいないときはないということです。神はわたしたちと、わたしと永遠に共にいてくださいます。喜びの時にも、悲しみの時も、幸いな時にも、試練の時にも、健康な時にも、病む時にも、わたしが孤独である時にも、暗闇を歩む時にも、そしてわたしの死の時にも、いや、わたしの死の後にも、神は永遠にわたしと共にいてくださいます。神は終わりの日に神の国が完成される時まで、永遠にわたしと共にいてくださいます。そして、その時にはわたしたちはみ国の民として、共に一つの群れ、一つの教会、一つの民とされるのです。

(執り成しの祈り)

ご一緒に「世界の平和を願う祈り」をささげましょう。

天におられる父なる神よ、

あなたは地に住むすべてのものたちの命の主であり、

地に起こるすべての出来事の導き手であられることを信じます。

どうぞこの世界をあなたの愛と真理で満たしてください。

わたしたちを主キリストにあって平和を造り出す人としてください。

神よ、

わたしをあなたの平和の道具としてお用いください。

憎しみのあるところに愛を、争いのあるところにゆるしを、

分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、

絶望のあるところに希望を、闇があるところにあなたの光を、

悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。

主よ、

慰められるよりは慰めることを、

理解されるよりは理解することを、

愛されるよりは愛することを求めさせてください。

なぜならば、わたしたちは与えることによって受け取り、

ゆるすことによってゆるされ、

自分を捨てて死ぬことによって永遠の命をいただくからです。

主なる神よ、

わたしたちは今切にあなたに祈り求めます。

深く病み、傷ついているこの世界の人々を憐れんでください。

あなたのみ心によっていやしてください。

わたしたちに勇気と希望と支え合いの心をお与えください。

主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

「聖フランシスコの平和の祈り」から

2020年12月20日

日本キリスト教会秋田教会 クリスマス礼拝

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