1月3日説教「罪人をお招きになる主イエス」

2021年1月3日(日)秋田教会主日礼拝説教

聖 書:イザヤ書55章6~13節

    ルカによる福音書5章27~32節

説教題:「罪人をお招きになる主イエス」

 ルカによる福音書5章27節以下に書かれている徴税人レビが主イエスの弟子として召されたという記事は、共観福音書にほとんど同じ内容で報告されています。ただ、その名前は、ルカ福音書ではレビですが、マタイ福音書9章ではマタイとなっており、マルコ福音書2章ではアルファイの子レビとなっています。レビとマタイは同一人物で、主イエスの12弟子の一人だったと推測されています。ただし、マタイ福音書を書いたと考えられているマタイと徴税人マタイあるいはレビとは同じ人物ではありません。

 きょうは、徴税人レビの召命について記したみ言葉から、わたしたちが信仰者として、キリスト者として召されるとはどういうことなのか、またわたしたちは新しいこの一年を信仰者としてどのように生きていくべきなのかを、ご一緒に聞いていきたいと思います。

 では27節を読みましょう。【27節】。ここでまず「見て」という言葉に注目しましょう。前回学んだ20節にも同じ言葉がありました。【20節】。2節にもありました。【2節】。主イエスはガリラヤ湖の漁師が一晩中網を降ろしても一匹もとれずに、疲労困憊している様子をご覧になりました。長く寝たきりの友人をベッドのまま運んできて、屋根をはいでまで、何とかしてその人を主イエスのみもとへと連れていこうとした人たちの愛と奉仕を見ておられました。あるいはまた、徴税人レビが法外な税金を取り立てて私腹を肥やし、それゆえに人々から罪びと呼ばわりされていた様子をもご覧になっておられます。主イエスは一人一人のさまざまな様子をすべてをご覧になっておられます。主イエスはまた、わたしたちの日々の歩みのすべてをご覧になっておられます。そして、それぞれの状況ふさわしい救いの道を備え、それぞれの人にふさわしい救いの恵みをお与えくださいます。そのことを信じて、わたしたちは感謝と喜びと希望とをもって新しい年の歩みを始めることをゆるされています。

 以前にも確認しましたように、主イエスが何かをご覧になる時、そこに救いの出来事が起こります。主イエスの目が徴税人レビに注がれる時、彼の身に救いの奇跡が引き起こされます。彼が「収税所に座っているのを見て」と書かれています。「座る」とは、ある意味でその権力や特権にしがみついていることを意味します。収税所での仕事は彼にとって大変好ましく、捨てがたい椅子でした。この時代の徴税人について少し説明を加えておきます。税金はイスラエルを支配していたローマ帝国に払う住民税ですが、彼はその地域の徴税総額を入札によって競り落とし、実際にはその金額よりも多くを住民から徴収して、その差額を自分の懐に入れます。これは不正ということではなく、徴税人に認められていた権利のようなもので、人々はそのことをよく知っていました。それで、徴税人は神の民であるイスラエルを神なき異邦人に売り渡している不信仰のゆえに、また自らの権力によってお金をもうけている悪徳商人として、人々に嫌われ、罪びとと呼ばれていました。30節で、ファリサイ派や律法学者たちが「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」と非難していることからもそのことが分かります。

 そのような徴税人を、多くのユダヤ人は、時に憎しみや、あるいは妬みの目で見ることがあっても、愛の目で彼を見る人はだれもいません。ところが、主イエスはそのような徴税人レビに目をおとめになります。主イエスの目は彼のすべてを捕えます。彼がこれまでに主イエスと会ったことがあるのか、主イエスの説教を聞いたことがあったのかということに関しては聖書は何も語りません。彼がどれほどにこの職業に固執していたか、あるいは、みんなから嫌われて孤独であったのか、何かに迷い道を求めていたのか、というようなことに関しても、何も語られてはいません。

 聖書はただこのように語ります。「『わたしに従いなさい』と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(28節)と。レビを見られた主イエスの目と彼に語りかけられた主イエスの招きのみ言葉が、すべてです。このような主イエスの招きが、全く何もないところで、全く何の条件とか理由とか保証とかもないところで、しかも、全く選ばれる可能性も資格もないレビに対して語られた主イエスの招きのみ言葉が、新しい出来事を生み出すのです。レビの信仰を生み出すのです。レビの服従を生み出すのです。

 ここでだれかは次のような疑問を投げかけるかもしれません。レビは彼が持っていたすべてのものを投げ捨てて主イエスに従ったと書かれているけれども、それは冷静な判断だったのか、彼はだれかにそのことについて相談しなかったのか、家族や友人たちには何も相談もなく、彼一人で直ちに判断したのは、あまりにも大胆で危険ではないか、と言うかもしれません。聖書がそのことについて何も語らないのは不親切ではないのか、と。

しかし、実は聖書は何も語っていないのではなく、十分語っているのです。主イエスの目が徴税人レビに注がれた時、そして主イエスの招きのみ言葉が彼に語られた時、そこにすべての答えがあります。主イエスは彼のすべてを見ておられ、知っておられるのです。彼の過去も現在も未来をも。レビが主イエスのことを十分に知らないとしても、主イエスは彼のことをすべて知っておられます。そして、主イエスは彼のすべてを受け入れ、引き受けておられるのです。それゆえに主イエスの招きのみ言葉は彼を強く捕らえ、彼に信仰の決断を可能にしているのです。彼が主イエスのみ言葉に聞き従う時、主イエスが彼に必要なすべてのものを備え、彼が歩むすべての道を導かれるからです。

レビはこのような主イエスの目と招きのみ言葉に捕らえられました。その時、彼が主イエスを信じて、主イエスに従うという信仰の奇跡が起こるのです。信仰とはいつの場合でも主イエスが引き越してくださる奇跡です。わたしが長い間熱心に求め続けてついに到達したと思っている信仰であれ、父や母から受け継いできた自然な道のりであれ、迷いと戦いの末に見いだした道であれ、信仰とはだれにとっても、主イエスが起こしてくださった奇跡であり、選ばれるに値しない罪多きわたしに主イエスの一方的な愛と選びによって与えられた奇跡としての信仰なのです。レビの場合がそうであったように。

29節から第二の場面が展開されます。第一の場面との密接な関連の中で展開されていきます。主イエスの一方的な愛と選びによって弟子として招かれたレビは、主イエスのためにすべてをささげてお仕えする信仰の道を歩みだしました。主イエスの恵みに感謝し、主イエスと隣人に奉仕する生活が始まります。彼は自分の家に主イエスをお招きし、食事のもてなしをします。徴税人仲間やユダヤ人社会から罪びとたちとして排除されていた人たちもこの食卓に招かれています。けれども、本来の食卓の主はレビではなく、主イエスです。その証拠に、30節のファリサイ派や律法学者の非難に対して答えておられるのは主イエスだからです。【30~32節】。罪びとたちをみ前にお招きになり、その罪をおゆるしになる主イエスこそがこの食卓の主なのです。この食卓は教会の聖餐式を暗示しています。終わりの日の神の国での大宴会を象徴しています。レビはこの食卓のために主イエスと隣人たちのために仕えています。それゆえに、持っているものすべてを捨てて主イエスに従った彼は何と幸いなことでしょう。彼には神の国が約束されているからです。

ところが、主イエスの招きと救いの出来事が起こる時、それを拒絶する人間の罪もまた明らかにされます。これは聖書全体に共通している原理のようなものです。神の救いのみわざが行われる時、その救いを拒み、それを喜ばない人間の罪もまたそこで明らかにされていくということが、聖書の中ではしばしば起こります。特に、福音書の主イエスの救いのみわざの際に、そのことが浮かび上がってきます。主イエスから与えられる救いの恵みが差し出される時、それを受け入れて喜び感謝する信仰者と、なおもかたくなに自分自身の罪の中に留まり続けようとし、それだけでなく、主イエスに反逆し、主イエスをこの世から取り除こうとさえする人間の罪があらわになってくるのです。

ファリサイ派と律法学者たちは主イエスと弟子たちが罪びとたちと一緒に食卓を囲んでいることが不思議であり、それはユダヤ人の宗教指導者にはふさわしくないと考えました。というのは、神の国の教えを説く教師たるものは、注意深く罪や汚れからその身を遠ざけるべきだと彼らは考えていたからです。ファリサイという彼らの名称は「分離された者たち」という意味を持っています。自分たちは神の国に最も近く、神の救いを得るのに最もふさわしい。だから、罪びとたちから分離されたグループであり、神を知らない異邦人のために働く徴税人や、律法を守らない罪びとたちとの交わりを避けるべきだと彼らは主張していたのです。

けれども、主イエスが語られた神の国の福音は彼らが考えていた律法による救いとは全く違っていました。主イエスは言われます。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためであり、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と。これこそが主イエスの福音です。だれ一人神の律法の前で完全な人はいません。神の律法を守り行って救われる人はだれもいないのです。のちに使徒パウロが言うように、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(ローマの信徒への手紙3章20節)。

主イエスはそのような罪人をお招きくださいました。そのような罪人に救いの道を備えてくださいました。「罪びとを招いて悔い改めさせるためである」と主イエスは言われます。まず、主イエスの招きがあります。主イエスの救いへの招きがすべての人に備えられています。その救いの道へと招かれた人は、自らの罪を知らされ、悔い改めて神に立ち返る信仰が与えられるのです。したがって、悔い改めとは、わたしが神に立ち返るよりも先に、主イエスがわたしを神のみ前にお招きくださっておられるということを知ること、主イエスがわたしのためにすべての救いのみわざをなしてくださったということを信じ、受け入れ、それに感謝することです。

宗教改革者たちが言ったように、「わたしたちはみな常に罪びとです。しかしまた、常に罪ゆるされている罪びとです」。それゆえに、わたしたちは日々悔い改めつつ、また日々主のお招きに感謝をもって応えつつ、この一年も主が備えたもう信仰の道を歩み続けていきたいと願います。

(執り成しの祈り)

〇天の父なる神よ、わたしたちを新しい年の最初の主の日の礼拝にお招きくださったことを心から感謝を致します。あなたの恵みと慈しみとは、とこしえからとこしえまで変わることはありません。どうか、あなたが創造された天地万物を豊かに祝福してください。大きな苦難と試練の中にあるこの世界のすべての人々にまことの救いをお与えください。また、特にあなたがお選びくださった教会の民を強めてください。勇気と希望とをもって、主キリストの福音を宣べ伝えていくことができるように、聖霊なる神のお導きを祈り求めます。どうか、あなたのみ心が全地に行われますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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