1月10日説教「エルサレム教会の誕生」

2021年1月10日(日) 秋田教会主日礼拝説教

聖 書:出エジプト記13章3~10節

    使徒言行録2章37~42節

説教題:「エルサレレム教会の誕生」

 五旬祭(ペンテコステ)の日にイスラエルの首都エルサレムに世界最初の教会が誕生した次第について、使徒言行録2章が記録しています。これは、紀元30年ころ、主イエスが十字架で死なれ、三日目に復活されたのがユダヤ人の過ぎ越しの祭りの時期でしたが、それからおよそ50日後、太陽暦では5月から6月にかけてのころでした。主イエスの神の国の福音を宣教するお働きは、主イエスの死後も、ペンテコステの日に誕生した教会によって継続されていきました。神の救いのみわざは天地創造の初めから、終わりの日の神の国が完成される時まで絶え間なく続けられます。今からおよそ2千年前の世界最初の教会誕生の時から、その後に全世界に誕生した教会の働きをとおして、またこの日本の地に、秋田の地に立てられた教会の働きをとおして、神の救いのみわざは絶え間なく継続されていくのです。わたしたちのこの小さな群れもまたその神の救いのみわざに仕えています。

 きょうは、使徒言行録2章37節以下のみ言葉から、教会誕生に関する重要なポイントを三つにまとめて学んでいきたいと思います。そのことは、今日のわたしたちの教会がどのようにして生きた教会として建てられていくのか、またその教会に集められているわたしたちはどのようにして教会の主なるイエス・キリストにお仕えし、神の救いのみわざにお仕えしていくべきなのかを知ることでもあります。

 その三つのポイントとは、一つは、聖霊なる神のお働きを信じること、二つには、神のみ言葉を聞くこと、そして三つには、主キリストのお体なる教会に召し集められているわたしたち信者一人一人の悔い改めと結集(一つの群れとして集められること)、この三つについて学んでいくことにします。

 では、最初の聖霊なる神のお働きについてですが、ペンテコステは聖霊降臨日という呼び方もあるように、この日に主イエスの弟子たちの上に聖霊が注がれ、聖霊に満たされた弟子たちが神の偉大な救いのみわざについて語りだしたことから、教会誕生へと進展していきました。聖霊降臨と教会誕生とは密接につながっています。聖霊は教会の命と存在の源です。聖霊はいまもなおわたしたちの教会が真実の教会であり続けるための恵みと力の源です。

聖霊降臨はまた主イエスのお約束の成就でもありました。使徒言行録1章8節で主イエスはこのように約束されました。【8節】。(213ページ)。同じようなことを主イエスはヨハネ福音書14~16章でも繰り返して約束しておられます。主イエスは天に昇られたあと、父なる神と共に弟子たちに聖霊を注いでくださり、聖霊は主イエスがお語りになったみ言葉を弟子たちに思いおこさせ、彼らを主イエスの証し人としてお立てくださるであろうと約束されました。聖霊は主イエスの約束のみ言葉と固く結びついて、信じ従うわたしたちの力となり、導きとなってくださいます。そして、わたしたち一人一人をも主イエス・キリストの証人として固くお立てくださいます。弟子のペトロの説教では、38節で「そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と語られています。主イエスを救い主と信じて洗礼を受けた一人一人には、それぞれにふさわしい聖霊の賜物が与えられます。わたしたちはその賜物を生かして主イエス・キリストの証人となって仕えていくのです。教会のすべての活動とわたしたち信仰者のすべての歩みは聖霊によって導かれているのです。

第二に重要なポイントは、神のみ言葉を聞くということです。聖霊降臨と教会誕生には神のみ言葉を聞くということが伴っています。37節にこのように書かれています。【37節】。ペンテコステの日に、聖霊によって神の救いのみ言葉を語ったペトロの説教が36節まで書かれていますが、その説教を聞いた人々にも聖霊が働きました。その時、ペトロの説教によって彼らは「大いに心を打たれ」ました。大いに心を打たれるとは、何か感動的な話を聞いたというようなことではなく、心が突き刺され、抉り出されるという強い意味を持っています。聖霊によって神のみ言葉を聞くということは、そのように激しく心が揺さぶられ、わたしの存在全体が根本から神によって問われるということなのです。なぜならば、ヘブライ人への手紙4章12節にはこのように書かれているからです。「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」。神のみ言葉を語る時、また神のみ言葉を聞く時、そこに聖霊が働き、驚くべき力が発揮され、人間を根本から造り変えるのです。

ペンテコステの日にペトロが語った説教を、神の救いのみ言葉として聞く時に、そこに聖霊が働き、神の救いの出来事が起こされます。そのようにして教会が誕生します。教会は神の救いのみ言葉を聞き続けることによって、真実の教会として生き続けるのです。

では、ペンテコステの日に聖霊によって神のみ言葉を聞いた人々にどのようなことが起こったのでしょうか。ペトロは36節でこう説教しました。【36節】。この説教を聞いたユダヤ人たちは、ここで自分たちの罪が告発されていることを気づかされました。彼らは神がメシア・救い主としてイスラエルにお送りくださった主イエスを神を冒涜する者として十字架で処刑しました。その偽りの裁判に直接携わっていなかったユダヤ人もみながその罪にいわば連帯責任を負っているいるのです。彼らは神がお遣わしになったメシア・救い主を拒絶し、葬り去ったのです。ペトロの説教を聞いたユダヤ人たちに聖霊が働き、彼らにそのような罪の自覚を与えました。

しかし、ペトロの説教が語っているもう一つのことは、そのようなユダヤ人たちの罪にもかかわらず、その罪を超えて、神は主イエスを死からよみがえらせ、全世界のすべての人のメシア・救い主としてお立てになったということです。神はユダヤ人たちの罪に勝利されます。すべての人間の罪に勝利されます。人間の罪と死を罪のゆるしと復活の命に変えてくださったのです。ペトロの説教を聞いた彼らは、聖霊によって、自分たちが神の救いへと招かれていることを知らされたのです。そこで、彼らは「わたしたちはどうしたらよいのですか」とペトロに問いかけます。

神のみ言葉の説教は、それを聖霊の導きによって聞く人たちにそのような二つのことを悟らせます。第一には罪の自覚です。人間は自分の知識や能力によってはだれも自分の罪に気づくことはありません。なぜならば、人間は生まれながらにして罪に傾いているからです。神を知らず、神に背いているからです。聖霊によって神のみ言葉を聞く時、主イエス・キリストの福音を聞く時に、わたしたちは神のみ心に背き、神の恵みを受けるにふさわしくない自らの罪に気づかされます。

と同時に、神のみ言葉は人間の罪をゆるし、罪と死と滅びとに支配されていた人間を罪の奴隷から救い出す恵みと命のみ言葉であるということを、聖霊はわたしたちに信じさせてくださいます。人間の罪が最後に勝利するのではなく、神の救いの恵みが人間のあらゆる罪や悪や無知や反逆をも乗り越えて前進していくのです。聖霊によって神のみ言葉を聞く時に、わたしたちはそのような二つのことに気づかされ、この罪多き貧しいわたしもまた神の救いへと招かれていることを知らされるのです。そして、「わたしたちはどうしたらよいのか」という問いが生まれます。

ペトロは答えました。【38~39節】。ペトロの説教を聞いた人たちに聖霊が働き、彼らの心を刺し貫き、ヘブライ人への手紙のみ言葉で言えば「どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して」、彼らに罪の自覚を与え、また神の救いを願い求める信仰を与えました。次に彼らがなすべきことは、悔い改めです。悔い改めとは、生きる方向を変えることです。これまでは、神なき世界で、神から離れて生きていた罪を認め、方向転換をして神の方に向かって進んでいくこと、これまでは、自分を中心に生きていた罪を告白し、神を中心とした生き方へと変わっていくこと、これまでは、この世が与えるパンだけによって生きてきた罪を知らされ、神のみ言葉にこそまことの命があることを信じること、それが悔い改めです。そして、神から差し出されている救いの恵みを感謝して受け取ること、それが救いです。

これが、ペンテコステの日に起こった出来事の重要なポイントの三つ目です。この日に誕生した教会は、神のみ言葉を聞きつつ、悔い改めつつ、そして神から与えられる恵みに感謝しつつ生きる信仰者の群れです。

ペトロは、悔い改め、信じた人たちに洗礼を受けることを勧めています。洗礼は、主イエス・キリストの十字架の死と復活によって罪ゆるされ、新しい命に生かされていることの目に見えるしるしとして、また体で体験するしるしとして行われます。洗礼はその救いの出来事がわたし個人のことであるだけでなく、教会全体にかかわる出来事であり、教会の誕生と教会の存続にかかわる出来事であるということを、教会の群れ全体で確認する儀式でもあります。

洗礼は主イエス・キリストのみ名による洗礼です。主キリストのみ名による洗礼とは、洗礼が主キリストのみ名のもとで行われる儀式・聖礼典であるという意味と、主キリストのみ名の中へと洗礼される、沈められるという意味をも持っています。すなわち、主キリストのみ名の中へと招きいれられる、主キリストのみ名と一体されるということです。使徒パウロはローマの信徒への手紙6章3~4節でこのように書いています。【3~4節】(281ページ)。また、コリントの信徒への手紙12章13節ではこう言っています。【13節】(316ページ)。つまり、主キリストのみ名による洗礼によって、わたしたちは主キリストと一つにされ、また同じように一人の主キリストのみ名による洗礼によって、わたしたちは一つの聖霊に結ばれ、一つの主キリストの体とされているということです。聖霊は教会を一つの、召された群れとして結集させてくださいます。

ペンテコステの日に起こった聖霊の注ぎと教会の誕生は二千年後の今日も絶え間なく継続されています。わたしたちは主の日ごとの礼拝に集められ、神のみ言葉を聞き、悔い改めと信仰とをもって、主キリストの体なる教会にお仕えしていきましょう。

(執り成しの祈り)

〇主なる神よ、あなたが永遠の救いのご計画によって、全世界に主イエス・キリストの教会をお建てくださり、教会の民をお集めくださいますことを感謝いたします。あなたはこの日本にも、この秋田の地にも、信じ救われた者たちをお集めくださり、きょうの主の日の礼拝をささげさせてくださいました。どうか、わたしたちがあなたのみ言葉に聞き従い、主キリストの福音の証し人としてあなたにお仕えしていく者としてください。

〇感染症の拡大によって大きな困難の中にある世界と日本を顧みてください。あなたの癒しと慰めとが苦しみと痛みの中にある一人一人の上にありますように。あなたのみ心が行われますように。

主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。

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